表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

隣に立つ理由を、まだ知らない

作者: ちくわそば

誰かの隣に立つ理由は、

必ずしも言葉で説明できるものではありません。


気づかないうちに支えていたり、

無意識に先回りしてしまったり、

あるいは、距離を置くことで見守ったり。


この物語は、そんな小さな瞬間の連なりの中で、

二人の距離が少しずつ変わっていくお話です。


高校生の藤原悠真と白石結菜。

彼女には、起立性調節障害という名前のついた日々の揺れがあります。

その中で、彼らはどう向き合い、どう歩み寄るのか。


理由を言葉にできなくても、

歩く速度を合わせるだけで、

互いを理解していることは、きっとある。


読者のあなたも、この物語の中で、

自分なりの「隣に立つ理由」を見つけられたら嬉しいです。

・一つの理由




「私、起立性調節障害っていう病気なんだ」

その言葉を聞いたときのことを、

僕は今でもはっきり覚えている。

理由を一つ手に入れた気がしたからだ。



「白石、大丈夫なの?」

体育の時間中、クラスの男子が聞いていた。すると彼女は

「あ、うん、別に見学してるだけだから」

とすらりと答える。

彼女にとってはこう聞かれることは新年度の恒例らしかった。

彼女は心配されるのが嫌いだと、僕は思っていた。だから僕はあの日の後、心配することはあまりしないように意識していた。



「ねぇ、そこちゃんと掃除してくれない!!」

始業式から一週間ほどたった日、その日は掃除の当番で日が傾くまで学校に残っていた。

同じクラスの白石さんも一緒の掃除当番で今こうして怒られている。

「は~い、すみませ~ん」

「まったく反省してないでしょ!」


そんな話をしながら掃除を終わらせて帰路についていた。

いつもは共通の趣味について話しながら一緒に帰るのだが今日は、違う。

なぜか深刻そうな面持ちで隣に並んで歩いていた。

「どうしたの?具合でも悪いの?」

沈黙を破って僕が聞くと

「私、起立性調節障害って病気なんだ」

聞いたことがない病名を口に出されて僕は少し困惑して言葉が出なかった。

「なんかいってよ!」

彼女は少し怒ったように言った。

「ごめん知らなくて…」

「そっか、そうだよね。これを言った人はみんな自然と離れて行って、悠真君にも言おうか迷ったんだ。」

彼女の不安と決意だった。少なくとも僕にはそう見えた。

「…そっか、じゃあ僕にできることがあったらなんでも言ってね。」

「……うん、ありがとう」



・少しだけ早く




あの日から、僕は少しだけ早く動くようになった。

彼女が何か困りそうな顔をする前に、つい手を伸ばしてしまう。

例えば、重そうな教科書を運ぶとき、あるいは体育で使う道具を整えるときも、自然に体が先に動いていた。

それは自分なりの彼女への配慮だった。

放課後、教室には委員会のメンバーが残り、体育祭の準備に追われていた。机や椅子を運ぶ手、飾り付けのための布を広げる動き、皆が忙しなく動く中で、僕は彼女の横に立ち、自然に荷物を持った。

「重くない? 俺がやるよ」

彼女は小さく笑ったように見せて、手を止めずに作業を続けた。

無意識に、少しでも楽にさせたい――それは自分なりのささやかな配慮だった。

他の人には普通の手伝いにしか見えないけれど、僕にはわかる。

ほんの少し、彼女の肩の力が抜けたような瞬間がある。

それだけで、少しだけ誇らしい気持ちになった。

「その飾り、向こうに置いたほうがいいんじゃない?」

僕が言うと、彼女はちらりと見て、「うん」と小さく頷いた。

言われた通りにするのではなく、僕が気づいたことを少し取り入れてくれる――そんな距離感が心地よくて、僕は今日も少しだけ早く動いた。


そのうち、教室の中はほとんど片付き、残りは運動場の飾り付けばかりになった。

僕は自然に彼女の近くで作業をしていたけれど、ふと気づくと、彼女は少しだけ僕の動きとは違うリズムで作業していた。

ささいなことだった。道具を置く順番も、布の広げ方も、ほんの少しだけ僕とずれている。

「あれ、そこはこうしたほうがいいかな」

つい口を出してしまったけれど、彼女は笑顔のまま手を止めずに「うん」とだけ答えた。

言葉に力はなかった。けれど彼女の動きはいつもより少し違って見えた。

それでも、僕は自分の体を止めることはできなかった。

少しでも彼女が楽になるなら――ただそれだけで、体が先に動く。

他の人には普通の手伝いにしか見えないだろうけど、僕にとっては彼女のために動くことが、この時間の全てだった。

夕陽が運動場を赤く染め始める。

今日も少しだけ早く動いた。

それで、彼女のためになったと思う。

けれど、どこかで、ほんのわずかな違和感を感じながら、僕はそれに気づかないふりをしていた。

「今日はありがとう。じゃあね」

「うん、またな」

「明日はどこか出かけようよ」

「そうだね、また連絡するよ」


帰ってきてからベッドの上でずっと小説を書いていた。

昔から小説が好きでそれを機に小説家になりたいと思った。

彼女と仲良くなったのもそれがきっかけだった。好きな小説家の話、最近読んだ小説の話、泣ける小説の話

いろんな話をしていつも帰っていた。

今日もそうだった。白石が好きと言っていた本を読んだ感想を伝えた。白石さんは大きく笑っていた。

そういえば早く明日の連絡をしないといけないと思いスマホをと取り出す。そこには未読のメールがたくさん来ていた。どうやら彼女が送ったようだった。

「ごめんごめん気づかなかった」

「早く返信してよ、心配したから」

「ごめんね」

「明日は水族館とか行かない?」

「いいね、放課後に行こう」


3組が5組を抜いて1位になった。

体育祭の選抜リレーの真っ最中に事件が起きた。

隣で座ってみていた彼女が急に顔色が悪くなっている。

すぐに保健室に連れて行くとそのまま救急車で送られていった。


授業が終わり、入院しているという知らせを受けたので病院に行くと、

白い廊下の先にある病室は、想像していたよりずっと静かだった。

ノックをして、そっと扉を開ける。

ベッドの上で、白石さんは上半身を少し起こしていた。

体育祭のときに見た顔色よりは、いくらか落ち着いているように見える。

「……来たんだ」

その声は、いつもより少しだけ弱かった。

「うん。大丈夫?」

聞き慣れた言葉なのに、ここで言うと急に重くなる。

白石さんは小さくうなずいて、天井を見た。

「びっくりしたよね。ごめん」

「謝らなくていいよ」

そう答えたものの、どう続ければいいかわからなかった。

病室には、機械の音と、窓の外の遠い車の音だけが流れている。

「ね、水族館の話さ」

白石さんが、思い出したように言った。

「行けなくなっちゃったね」

「……また行けるよ」

反射みたいに言ったその言葉に、彼女は何も返さなかった。

否定も肯定もしない。ただ、少しだけ視線をこちらに向けた。

「悠真君さ」

「なに?」

「優しすぎるところ、あるよね」

冗談みたいな口調だったけれど、笑ってはいなかった。

その言葉の意味を考えようとしているうちに、看護師さんが入ってきて、会話は途切れた。

「今日は面会ここまでね」

立ち上がって、もう一度白石さんを見る。

彼女は手を振って、小さく笑った。

「またね」

「うん、また」

病院を出ると、外はもう夕方だった。

あの日、体育祭の準備で見た夕陽と、よく似た色をしている。

帰り道、スマホを握りしめながら、僕は思っていた。

あのとき、もっと何かできたんじゃないか。

もっと早く、もっと先に――。

気づけば、また「少しだけ早く」考えている自分がいた。


病院を出ると、空はもう暗くなり始めていた。

昼間の騒がしさが嘘みたいに、周りは静かだった。

駅までの道を、一人で歩く。

昼間はあれほど人で溢れていたはずなのに、今は足音だけがやけに大きく聞こえる。

スマホを取り出して、画面を見た。

白石さんとのやり取りは、さっきの「またね」で止まっている。

返信を打とうとして、やめた。

――今は、休ませたほうがいい。

そう思ったからだ。

それも、きっと配慮だった。

電車に揺られながら、体育祭のことを思い出す。

ゴールの瞬間、周りが立ち上がって歓声を上げていた中で、

隣にいた白石さんが、急に黙り込んだこと。

もっと早く気づけたはずだ。

もっと早く声をかければよかった。

そんな考えが、頭の中で何度も繰り返される。

でも同時に、

「余計なことを言わなくてよかったのかもしれない」

そんな思いも、どこかにあった。

駅を降りて、家までの道を歩く。

いつもは白石さんと並んで歩く帰り道だ。

今日は、少しだけ広く感じた。

信号待ちの間、ふと水族館の話を思い出す。

明日の放課後。

本当なら、今ごろはその話で頭がいっぱいだったはずなのに。

「……また行けるよ」

病室で言った言葉を、もう一度心の中で振り返る。

あれは、本当に彼女のための言葉だったんだろうか。

それとも、自分が安心したかっただけなのか。

答えは出ないまま、信号が青に変わる。

家に着いて、玄関のドアを閉める。

いつもより少しだけ遅い時間。

なのに、今日一日はやけに長く感じた。

部屋に入って、机の上のノートを開く。

白紙のページを前に、ペンを持ったまま止まる。

何かを書きたい気持ちはあるのに、

言葉がうまく形にならなかった。

結局、ノートを閉じて、スマホを手に取る。

未送信のままの画面を見つめながら、

僕は今日も「少しだけ早く」答えを出そうとしていた。


ベッドに横になって、部屋の明かりを消した。

天井を見つめていると、ポケットの中でスマホが震えた。

画面を開く。

白石さんからだった。

「今日は来てくれてありがとう」

それだけだった。

いつもなら、もう一言、二言は続く。

スタンプもない。絵文字もない。

少し間を置いて、僕は返信を打つ。

「うん。無理しないでね」

送信してから、しばらく画面を見つめていた。

既読は、すぐについた。

でも、返事は来なかった。

――疲れてるんだろう。

そう思うことにした。

それから数分後、もう一度スマホが震えた。

「悠真君はさ」

「いろいろ考えてくれるよね」

画面の文字を、何度か読み返す。

それが褒め言葉なのか、そうじゃないのか、判断がつかなかった。

「当たり前だよ」

そう返してから、少しだけ迷って、付け足す。

「白石さんのことだから」

送信。

また、すぐに既読がつく。

でも、やっぱり返事は来ない。

スマホを胸の上に置いて、目を閉じる。

病室での彼女の声が、頭の中でよみがえった。

「優しすぎるところ、あるよね」

あれは、どういう意味だったんだろう。

守れていると思っていた。

支えているつもりだった。

少しだけ早く動いているだけだと、思っていた。

それでも、

画面に残ったままの会話は、どこか途中で切れている気がした。

スマホの明かりを消して、

僕は何も考えないふりをして、目を閉じた


翌朝、目が覚めて最初にスマホを確認した。

通知は、何もなかった。

登校の準備をしながら、何度か画面を見る。

昨日の会話は、あのまま止まっている。

――朝は忙しいだけだろう。

そう思って、家を出た。

教室に入ると、白石さんの席は空いていた。

当然だ。入院しているのだから。

わかっているのに、視線は無意識にそこへ向かってしまう。

昼休み。

いつもなら、この時間にメッセージが来ることが多かった。

「今日の給食どうだった?」

そんな、どうでもいい内容のやり取り。

でも、スマホは静かなままだ。

放課後になって、もう一度だけメッセージを送ろうか迷った。

「今日はどう?」

たったそれだけの言葉。

けれど、指は動かなかった。

――休ませたほうがいい。

――無理に話しかけるのはよくない。

そうやって理由を並べて、結局何もしなかった。

それから、二日。

三日。

連絡は、来なかった。

僕のほうから送っていないことにも、気づいていた。

気づいていながら、「待つ」ことを選んでいた。

それも、配慮のつもりだった。

夜、机に向かってノートを開く。

書きかけの文章の横に、何も書き足せないまま時間が過ぎる。

彼女がいないだけで、

こんなにも言葉が出てこなくなるなんて、思わなかった。

四日目の夕方。

スマホが震えた。

反射的に画面を見る。

違った。

家族の連絡だった。

胸の奥が、少しだけ沈む。

――もう少し、早く連絡していれば。

――でも、あれは正しかったはずだ。

そんな考えが、行ったり来たりする。

気づけば、

「白石さんのため」だったはずの沈黙が、

いつの間にか、僕自身を守るための沈黙に変わっていた。

そのことに、

僕はまだ、はっきりとは気づいていなかった。


五日目の夜だった。

机に向かっていたけれど、ノートは開いたまま、何も書けていなかった。

そのとき、スマホが震えた。

画面を見る。

白石さんだった。

一瞬、時間が止まった気がした。

「明日、来られる?」

それだけ。

理由も、状況も、何も書かれていない。

胸の奥が、きゅっと縮まる。

「行くよ」

考えるより先に、指が動いていた。

「何時がいい?」

既読がつくまで、少しだけ時間があった。

その数秒が、やけに長く感じられる。

「放課後で大丈夫」

「無理なら言って」

「無理じゃない」

そう返してから、スマホを置く。

さっきまで感じていた静けさが、嘘みたいに消えていた。

ベッドに横になっても、目が冴えてしまう。

病院の廊下、白いカーテン、機械の音。

前に行ったときの光景が、何度も頭に浮かんだ。

――何を話すんだろう。

――どこまで踏み込んでいいんだろう。

そんなことを考えながら、

それでも「行く」と即答した自分を、どこかで肯定していた。

次の日。

授業はいつも通り進んでいくのに、

時間だけが、妙に遅かった。

放課後のチャイムが鳴った瞬間、

僕は鞄を持って立ち上がる。

駅へ向かう道を、少しだけ早足で歩く。

気づけば、また「少しだけ早く」動いていた。

それが正しいのかどうかは、まだわからない。

ただ一つわかっているのは、

今度は、待つつもりはなかったということだけだった。


病室に入ると、白石さんはベッドに座って本を読んでいた。

ページの端に指を挟んで、こちらを見る。

「来てくれてありがとう」

「うん」

椅子に腰かけると、しばらく沈黙が続いた。

前に来たときより、長い。

「ね」

白石さんが、ふと思い出したみたいに言った。

「連絡、来なかったでしょ」

「……うん」

「責めてるわけじゃないよ」

そう前置きしてから、少し間を置く。

「悠真君なら、そうすると思ってた」

その言い方が、胸に残った。

「私が休めるように、とか。

余計なこと考えなくていいように、とか」

僕は何も言えずに、うなずいた。

「それでね」

白石さんは、視線を窓に向けたまま続ける。

「その優しさが、ちょっとだけ寂しくなった」

「寂しい……?」

「うん」

短く答えて、こちらを見た。

「私、ちゃんと話したかったんだと思う。

具合のことも、これからのことも」

一瞬、言葉に詰まってから、続ける。

「でも、悠真君はもう先に考えてくれてたから。

私が言う前に」

胸の奥で、何かが静かに沈んだ。

「だから、会って話そうと思った」

「……ごめん」

自然に、その言葉が出た。

「謝らなくていいよ」

白石さんは首を振る。

「悠真君が間違ってるわけじゃない」

それでも、と付け足す。

「たまには、少し遅くてもいいと思う」




・見送ったもの




あの日から、僕は何かを見送ることが増えた。

朝、スマホを手に取っても、

白石さんの名前を探すことはしなくなった。

探さない、というより、見ないようにしていたのかもしれない。

「今日はどう?」

それだけの文を打って、消す。

送信ボタンに触れそうになって、やめる。

――今は、静かにしていたほうがいい。

そう思う理由はいくらでも浮かんだ。

学校では、白石さんの席が空いたままだった。

窓側の、少し日当たりのいい場所。

誰かがそこに座ることはないのに、

視線だけが、何度もそこへ向かってしまう。

体育祭の準備も、いつの間にか終盤に差し掛かっていた。

委員会の仕事をしながら、

僕は意識的に“早く動かない”ようにしていた。

先に道具を取らない。

先に声をかけない。

先に決めない。

――少し遅くてもいい。

病室で聞いた言葉を、頭の中でなぞる。

それでも、

何もしないことと、待つことの違いが、

僕にはまだよくわからなかった。

放課後、帰り道を一人で歩く。

白石さんと並んでいた道は、

一人で歩くと少しだけ長い。

コンビニの前を通り過ぎて、

ふと立ち止まる。

前なら、「寄ってく?」と聞いていた場所だ。

聞かなかった。

聞く相手がいないから、という理由にして。

夜、ベッドの上でスマホを眺める。

通知は、相変わらず静かだった。

「連絡しないのも、優しさだよな」

小さくつぶやいてみたけれど、

誰も答えない。

本当は、

聞きたいことがあった。

話したいことも、たくさんあった。

でもそれらは全部、

「今じゃない」という言葉でまとめて、

僕の中で見送られていった。

それが正しいのかどうか、

確かめる勇気もないまま。

こうしている間にも、

時間だけは、僕の知らない速さで進んでいる。

それでも僕は、

何かが戻ってくるのを、

ただ待っているつもりでいた。

翌日も、その次の日も、

白石さんからの連絡はなかった。

それを「当然だ」と思おうとした。

入院しているなら、スマホを見る余裕もないだろうし、

誰かと話す気分じゃない日もある。

だから、僕からも送らなかった。

学校では、クラスメイトが何気なく話題に出す。

「白石、どうしてるんだろ」

「もうすぐ戻ってくるんじゃない?」

そのたびに、僕は曖昧に笑って、

「さあ」とだけ答えた。

知っているはずのことを、

知らないふりでやり過ごす。

それが、思っていたよりも簡単だった。

放課後、図書室に寄った。

白石さんと話すきっかけになった場所。

同じ棚の前に立つと、

背表紙の並びが、少しだけ違って見える。

前に彼女が勧めてくれた本を手に取る。

途中まで読んで、止まっていたページ。

続きを読めば、

何か思い出してしまいそうで、

結局、元の場所に戻した。

読まないことも、

一つの見送りだと思った。

帰り道、

病院のある方向とは逆に足を向ける。

「行こうと思えば、行ける距離なのに」

そう考えた瞬間、

胸の奥に、言葉にならない感覚が広がった。

行かない理由は、

ちゃんと用意してある。

迷惑かもしれない。

無理させたくない。

今は静かにしていたほうがいい。

どれも、間違ってはいないと思う。

でも、それを選んでいるのが、

本当に彼女のためなのかどうかは、

考えないようにしていた。

夜、スマホに触れる時間が減った。

代わりに、天井を見つめる時間が増えた。

送らなかったメッセージは、

頭の中で何度も形を変える。

「体調どう?」

「無理してない?」

「また話そう」

どれも短くて、

どれも、今さらな気がして、

結局、全部消える。

見送るたびに、

少しだけ安心して、

少しだけ不安になる。

その繰り返しの中で、

僕は気づかないふりをしていた。

――見送っているのは、

時間だけじゃない、ということに。




・戻ってきた声




それは、何でもない午後だった。

チャイムが鳴り、机を押し込んで、

次の授業の準備をしているとき。

スマホが、短く震えた。

画面を伏せたままでも、

その振動が、誰からのものか分かった気がした。

ロックを解除する。

表示された名前を見た瞬間、

時間が一拍、遅れた。

白石さん。

「久しぶり」

たった四文字。

それだけなのに、

胸の奥が、ぎゅっと縮む。

すぐに返そうとして、

指が止まる。

何を書けばいいのか、分からなかった。

心配していたことも、

連絡しなかった理由も、

全部が今さらで、

全部が重すぎる気がした。

結局、送ったのは、

「久しぶり。体調どう?」

それだけだった。

既読は、すぐについた。

「もうだいぶ平気」

「学校も、そろそろ戻れると思う」

文の後ろに、句点はない。

でも、前よりもずっと落ち着いた文章だった。

少しだけ、安心する。

同時に、

あの空白の時間が、

急に現実味を帯びてくる。

「心配してた?」

次に届いたメッセージ。

その一文に、

胸の奥が、また小さく揺れた。

正直に言えばいいはずなのに、

言葉は、なぜか慎重になる。

「うん、少しだけ」

送信したあと、

その「少しだけ」が、

自分でもよく分からなくなった。

「そっか」

「じゃあ、また話そう」

それで、会話は終わった。

画面を閉じても、

その余韻は、なかなか消えなかった。

戻ってきたのは、

彼女の声だけじゃない。

見送ったはずの時間も、

見ないふりをしていた感情も、

一緒に戻ってきてしまった気がした。

そして僕は、

次に動くべきなのが、

もう「少しだけ早く」じゃ足りないことを、

なんとなく分かっていた。


その日の帰り道、

空はやけに高くて、雲がゆっくり流れていた。

友達の声も、部活の音も、

どこか遠くで鳴っているみたいだった。

歩いているのに、足の裏に感覚が薄い。

スマホはポケットに入れたまま、

何度もそこに手を伸ばしそうになる。

もう通知は来ないと分かっているのに。

――また話そう。

その言葉が、頭の中で何度も反復された。

「今度」でも、「そのうち」でもなく、

確かに“次”を含んだ言い方。

けれど、そこに日時はなかった。

場所も、約束もない。

それが、彼女なりの距離なのか、

それとも、ただの様子見なのか。

考え始めると、きりがなかった。

家に着いても、

すぐに部屋には入らず、玄関で少し立ち止まる。

制服のまま、鞄を下ろさずに。

あのとき、

彼女の隣で、少しだけ早く動いていた自分。

困りそうになる前に、手を出して、言葉を選んで、

「大丈夫」を先に用意していた。

それは、優しさだったはずだ。

少なくとも、僕はそう信じていた。

でも今は、

その“早さ”が、

彼女の歩幅を勝手に決めていた気がしてならない。

スマホを取り出し、画面を開く。

トーク画面には、さっきのやり取りがそのまま残っている。

指を動かせば、

きっと、また何か送れる。

「会える?」

「無理しなくていいから」

「心配してる」

どれも、書きかけては消した。

今の彼女に必要なのが、

次の一言なのか、

それとも、何も言わない時間なのか。

その違いを、

僕はまだ、はっきり分かっていなかった。

ただ一つ、確かなのは――

次に動くときは、

彼女より少し前でも、少し後ろでもなく、

同じ速さでいなければならない、ということだった。

その距離を測るために、

僕は今夜、

何もしないことを選んだ。

スマホの画面を閉じ、

ようやく玄関のドアを開ける。

夕方の光が、背中で静かに消えた。

ベッドに腰を下ろし、

天井を見上げる。

会えば、きっと何かが動く。

良くも悪くも、

今の距離は壊れてしまう。

会わなければ、

このまま少しずつ、

声だけの関係に戻っていくかもしれない。

そのどちらが、

彼女にとって正しいのか。

それを決める資格が、

自分にあるのか。

答えは出なかった。

スマホを手に取り、

「会おう」と打ちかけて、消す。

画面に残るのは、何もない空白だけ。

時計を見ると、

針はもう、いつもより遅い時間を指していた。

結局その夜、

僕は彼女に会いに行かなかった。

それが正しかったのかどうかは、

まだ分からない。

ただ、

この選択が、

次に聞く彼女の声を、

少しだけ変えてしまう気がしていた。




・再会




約束をしたわけじゃなかった。

それでも、気づいたら駅前に向かっていた。

放課後の空気は少し湿っていて、

人の流れだけが、いつも通りに進んでいく。

立ち止まっているのは、僕だけだった。

本当に来ていいのか。

今さら会って、何を話せばいいのか。

そんなことを考えているうちに、

背後から、聞き覚えのある声がした。

「……遅いよ」

振り返ると、

そこに白石さんが立っていた。

前と同じ制服。

前と同じ声。

でも、少しだけ細くなった気がする輪郭。

「ごめん」

それしか言えなかった。

彼女は一瞬だけ僕の顔を見て、

それから、ふっと視線を逸らした。

「ほんとに、来ると思わなかった」

責めるような口調じゃなかった。

むしろ、確かめるみたいな言い方だった。

「俺も……迷った」

正直にそう言うと、

彼女は少しだけ笑った。

「そっか」

それだけで、会話は途切れた。

でも、その沈黙は、前ほど重くなかった。

並んで歩き出す。

行き先を決めないまま。

「ね」

彼女が、ぽつりと言う。

「やっぱり安心する」

その言葉が、

胸の奥に、静かに落ちた。

何に対してなのか、

どういう意味なのか。

聞こうと思えば、聞けたはずなのに。

僕は、何も聞かなかった。

少しだけ、歩く速さを合わせる。

早くも、遅くもならないように。

それだけで、

今は十分な気がした。

白石さんは、何も言わずに隣を歩いている。

でも、その距離は、

確かに「見送ったもの」の先にあった。

再会は、

何かが始まる合図じゃなくて、

ようやく、同じ場所に立てたという確認だった。

そう思えたのは、

きっと、彼女の声が、

もう一度、ちゃんと隣で聞こえていたからだ。

人の流れから少し外れて、

駅前の通りを抜ける。

「どこ行く?」

僕が聞くと、白石さんは少し考えてから首を振った。

「特に決めてない」

「歩けるところがいい」

それだけで、十分だった。

夕方の街は、どこか落ち着かない。

部活帰りの声、買い物袋の音、

自転車のベルが、ばらばらに混じる。

並んで歩く。

肩が触れそうで、触れない距離。

「学校、どう?」

僕が聞く。

「まだ、全部は戻れないけど」

白石さんは前を見たまま答える。

「でも、前よりは平気」

その言い方は、

無理をしているようにも、

強がっているようにも聞こえなかった。

川沿いの道に出る。

水面が、夕焼けを細かく揺らしていた。

「ここ、前も通ったよね」

彼女が言う。

それが、思い出なのか確認なのか、分からない。

「うん」

僕は短く答える。

少し沈黙が続く。

でも、もう怖くはなかった。

「ね」

白石さんが、立ち止まる。

僕も足を止める。

「今日、来てくれてよかった」

それは感謝というより、

事実をそのまま口にしたみたいな声だった。

「……俺も」

本当は、

もっと早く言うべき言葉だったのかもしれない。

彼女は、もう一度歩き出す。

今度は、ほんの少しだけ、僕のほうを気にしながら。

僕は、その速さに合わせた。

どこに向かっているのかは分からない。

でも、今はそれでよかった。

「どこかに行く」って、

こういうことなのかもしれない。

目的地じゃなくて、

一緒に歩いている時間そのもの。

そう思いながら、

僕は彼女の隣を歩き続けた。

風が、少し冷たくなってきた。

気づけば、街路樹の葉はほとんど落ちていて、

足元で乾いた音を立てている。

冬は、もうちゃんと来ていた。

コンビニの前を通り過ぎて、

小さな公園の横を抜ける。

ブランコは誰も使っていなくて、

金属の鎖だけが、風に揺れていた。

「寒くない?」

僕が聞くと、白石さんは肩をすくめる。

「ちょっとだけ」

そう言って、手をポケットに入れた。

僕も同じように手を入れる。

ポケットの中は、思ったより冷たい。

それ以上、言葉は続かなかった。

でも、沈黙は嫌じゃなかった。

無理に埋めなくていい間。

急がなくていい時間。

少し歩いて、駅の明かりが見えてきたところで、

自然と足が止まる。

「今日は、ここまでかな」

白石さんが言う。

名残惜しさは、声には出ていなかった。

「うん」

僕も、それに合わせる。

少しだけ、間が空く。

「また、連絡するね」

彼女はそう言って、小さく手を振った。

「うん、待ってる」

それは約束というより、

確認に近い言葉だった。

彼女が改札のほうへ歩いていくのを、

僕はその場で見送る。

背中が人混みに溶けていくまで、

目を逸らさずに。

完全に見えなくなってから、

ようやく息を吐いた。

胸の奥に残ったのは、

安心と、ほんの少しの静けさ。

そして、名前のつかない、薄いさびしさ。

でもそれは、

失ったものの痛みじゃなかった。

また会えることを、

もう疑っていないからこその、

静かな余白。

ポケットの中で、

スマホが冷たくなっている。

冬は、始まったばかりだ。




・同じ速さで




誘いは、白石さんからだった。

「クリスマス、空いてる?」

理由は書いていなかった。

それなのに、その一文だけで、

少しだけ胸がざわついた。

当日、駅の改札前。

人の流れに紛れながら待っていると、

白石さんは人混みの向こうから現れた。

「ごめん、待った?」

「今来たところ」

嘘ではなかったけれど、

そう答えたあとで、

心拍が少しだけ速くなっていることに気づく。

「寒いね」

そう言って、彼女はマフラーを整えた。

前より、ほんの少し近い位置で。

ショッピングモールまでは、すぐだった。

中は人が多くて、

歩くたびに、肩や腕が触れそうになる。

そのたびに、白石さんは自然に距離を詰めてきた。

避けるわけでもなく、

気にする様子もなく。

雑貨屋の前で立ち止まると、

いつの間にか、隣に並んでいる。

「これ、かわいくない?」

彼女が手に取った小物を、

僕の目の前に差し出す。

近い。

声も、息遣いも。

返事をする前に、

自分の中で何かが揺れた。

いつもと違う。

でも、嫌じゃない。

その事実が、

妙に落ち着かなくて、

足の置き場を探してしまう。

モールを出る頃には、

外はすっかり暗くなっていた。

「川、行こ」

白石さんは、当然みたいにそう言った。

ライトアップされた川沿いは静かで、

人もまばらだった。

ベンチに座ると、

彼女は少し体を寄せてくる。

寒さのせいだと、

理由はすぐに用意できた。

それでも、

その距離が縮まったまま戻らないことに、

胸の奥がざわつく。

「……あったかいね」

彼女が小さく言う。

「うん」

それ以上、言葉はいらなかった。

肩が触れている。

離れようと思えば、

すぐに離れられる。

それなのに、

僕は動かなかった。

同じ速さで歩いて、

同じ場所に座って、

同じ景色を見ている。

そのはずなのに、

彼女のほうが、

一歩だけ近くにいる。

それが、

少し怖かった。

心地よさと一緒に、

どこかで、

この距離は長く続かないと

分かってしまったから。

今日は、

何も壊れなかった。

でも同時に、

何かを壊してしまいそうな距離でもあった。

そのことを、

胸の奥にしまったまま、

僕はまだ、彼女の隣に座っていた。


しばらく、二人とも黙って川を見ていた。

水面に映る光が揺れるたび、

それにつられるみたいに、

白石さんの影も小さく揺れる。

「ね」

彼女が、急に言った。

「こういうの、久しぶり」

“久しぶり”という言葉に、

重さはなかった。

ただ、事実をなぞるみたいな声だった。

「そうだね」

それ以上、何も付け足せなかった。

付け足せば、

気持ちまで言葉になってしまいそうで。

白石さんは、ベンチの背もたれに軽く体を預けて、

空を見上げる。

吐く息が、白くほどけた。

「寒いの、嫌いじゃないんだ」

「冬って、音が少ない気がするから」

その言い方が、

前から知っている彼女と、

少しだけ違って聞こえた。

「……わかる」

自分でも驚くくらい、

答えがすぐに出た。

彼女は僕のほうを見て、

ほんの一瞬だけ目を細める。

その視線を受け止めた瞬間、

胸の奥で、静かに何かが沈んだ。

好きだ、

という言葉じゃない。

でも、

離れたくない、

という感情には、

もうかなり近かった。

白石さんは、

何も言わずにベンチから立ち上がる。

「もうちょっと、歩こ」

そう言って、

僕の返事を待たずに歩き出す。

自然と、

その隣に並ぶ。

川沿いの道は、

さっきよりも暗くて、

足音だけが並んで響く。

歩くたびに、

コートの袖が触れる。

それが当たり前みたいに続く。

前なら、

一歩下がっていたかもしれない。

でも今は、

その距離を保つことに、

何の理由も見つからなかった。

白石さんの横顔を、

盗み見る。

街灯の光に照らされて、

まつ毛の影が、頬に落ちている。

その影まで、

きれいだと思ってしまったことに、

少しだけ戸惑う。

「どうしたの?」

気づかれて、

慌てて前を見る。

「なんでもない」

嘘ではなかった。

言葉にできないだけだ。

この時間が、

いつまで続くか分からないことも、

分かっている。

それでも今は、

この速さで、

この距離で、

歩いていたかった。

それが、

好きになっているということだと、

認めてしまう一歩手前で。

白石さんは、

何も言わずに歩いている。

でも、その歩幅は、

ずっと、僕と同じだった。


川沿いの道を抜けると、

駅の明かりが少しずつ近づいてきた。

もう終わりが見える距離なのに、

白石さんは歩く速さを変えなかった。

「ね」

前を向いたまま、

彼女が言う。

「私さ」

一拍置いて、言葉を選ぶみたいに続けた。

「悠真君といると、無理しなくていい気がする」

足が、ほんの少しだけ止まりそうになる。

でも、止まらなかった。

「早くしなくていいし、

気を遣われすぎなくてもいいし」

それは、責める声じゃなかった。

どちらかというと、

確かめるみたいな言い方だった。

「こういう時間、好きだよ」

好き、という言葉は、

軽く置かれたはずなのに、

胸の奥で、静かに響いた。

すぐに返事をすれば、

何かが変わってしまいそうで。

「……そっか」

結局、

それだけしか言えなかった。

白石さんは、

一瞬だけ僕の顔を見て、

それ以上は何も言わなかった。

駅前に着く。

人の声と、アナウンスが混じって、

さっきまでの静けさが遠ざかる。

「今日は、ありがとう」

彼女が言う。

「うん」

それから、少し迷って付け足す。

「楽しかった」

嘘じゃなかった。

白石さんは、

その言葉を聞いて、

ほんの少しだけ笑った。

「じゃあ、またね」

そう言って、

改札のほうへ歩き出す。

二、三歩進んで、

一度だけ振り返る。

「風邪ひかないでね」

それだけ。

手は振らなかった。

でも、その一言が、

やけに胸に残った。

彼女の背中が人混みに紛れていくのを、

僕は、さっきより少し長く見送った。

好きだ、と言われたわけじゃない。

告白したわけでも、されたわけでもない。

それなのに、

胸の奥には、

はっきりと形を持った感情が残っている。

この距離は、

きっと、心地よすぎる。

だからこそ、

いつか、自分から離れなければならない。

そんな考えが浮かんでしまったことを、

少しだけ、

悲しいと思いながら。

冬の夜は、

静かに更けていった。




・あの日の理由




川沿いの道は、冬の匂いがした。

ライトアップされた街灯が水面に揺れて、足元だけが静かに明るい。

ベンチに座ると、彼女は自然な動きで少し距離を詰めてきた。

肩が触れそうで触れない、その曖昧な近さ。

「寒いね」

そう言って、白い息を吐く。

その横顔を見て、なぜか目を逸らした。

少し前まで、こんなふうに並んで座ることはなかった。

気づけば、言葉より先に距離が縮んでいる。

結菜は楽しそうに、ショッピングモールで見たものの話を続けている。

他愛もない話のはずなのに、胸の奥が落ち着かなかった。

――変わってしまったのは、彼女か。

それとも、僕のほうか。

「ね」

不意に、彼女がこちらを見た。

「今日、来てくれてよかった」

その一言で、心臓が少しだけ跳ねる。

理由を考える前に、そう感じてしまった。

「……俺も」

短く答えて、それ以上は言えなかった。

もし言葉を足せば、何かを認めてしまいそうだったから。

川の流れを眺めながら、沈黙が落ちる。

でも、居心地は悪くなかった。

「遅いよ…」

彼女が、ぽつりと言った。

責めるようでも、冗談でもない声。

その言葉の奥にあるものを、考えてしまう。

「やっぱり安心する」

続けて、そう言われた。

その瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。

安心させる立場に、いつの間にかなっていたのか。

それとも、そう思い込んでいただけなのか。

このまま、同じ速さで歩いていけたら。

そう思った。

でも同時に、

この距離が続くほど、壊れるものもある気がしていた。

改札の前で、足を止める。

終わりが見えてしまう場所。

「……一つだけ、言っていい?」

彼女は、黙って頷いた。

「自分で決めることが、大切だと思うんだ」

言葉を選びながら、続ける。

「だから、君がこれからどうするかは、君自身で決めたほうがいいと思う」

それは、逃げでも、優しさでもなかった。

ただ、今の自分が出せる精一杯の線引きだった。

「俺は……ここまでにする」

そう言って、背を向ける。

歩き出せば、もう戻らないつもりだった。

「待って、悠真!」

すぐ後ろから、声がした。

足音が近づいてくる。

振り返るより先に、

言葉が、勝手に口を出た。

「……結菜」

初めて呼んだ、その名前。

胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

守ってきた距離も、理由も、全部。

結菜は少し驚いた顔をして、

それから、ほんの少し笑った。

冬の夜は冷たい。

それでも、この瞬間だけは、

逃げなかった自分が確かにそこにいた。

あの日の理由は、

まだ言葉にならない。

けれどきっと、

ここから始まってしまったのだと思った。


朝のホームは、少し冷えていた。

吐く息が白くなるたびに、冬が近いことを思い出す。

改札の前に、結菜がいた。

昨日と同じコート。

でも、視線が合った瞬間、迷いなく手を振ってきた。

「おはよう」

「おはよう」

それだけで、朝が始まる。

並んで歩く。

人の流れに合わせて、自然と歩幅が揃う。

意識しなくても、距離は近かった。

「今日、寒いね」

結菜が言って、袖を少し引き上げる。

「もう冬だしな」

そう答えると、

結菜は何も言わずに、ほんの少しだけ近づいた。

肩が触れるか、触れないか。

そのくらい。

でも、離れようとは思わなかった。

ホームに着くと、電車はすでに入ってきていた。

いつもより混んでいる。

「こっち、空いてるよ」

そう言って歩き出すと、

結菜は当然みたいについてくる。

ドアが閉まる直前、

彼女が小さく言った。

「やっぱり、ここだと安心する」

何が、とは言わなかった。

でも、聞き返す必要もなかった。

電車が動き出す。

窓に映った二人の距離は、思っていたより近い。

話すことは、特別じゃない。

昨日のテレビのこと、

昼休みに何を食べるか、

そんな他愛ない話。

それなのに、

前より静かで、前より落ち着いていた。

少しだけ早く動くことを、

いつの間にか、やめていた。

代わりに、

同じ速さで歩くようになっていた。

理由を考えなくてもいい。

確かめなくてもいい。

ただ隣にいて、

それが自然になっている。

電車は、次の駅に着く。

結菜が、当たり前みたいに言った。

「放課後、寄り道しよ」

「いいよ」

そう答えた自分の声は、

驚くほど自然だった。

恋人、という言葉はどこにもない。

でももう、

それ以外の呼び方も、必要なかった。


あの日、理由を一つ手に入れたと思った。

でも本当は、

理由なんて最初から必要なかったのかもしれない。

隣に立つ理由を、

僕はもう知っている。




・エピローグ




春は、思っていたより静かにやってきた。

朝の空気はまだ少し冷たいけれど、

日差しの中には、確かに柔らかさが混じっている。

「今日は大丈夫そう」

結菜がそう言って、

自分の足で立ち上がる。

以前なら、

無意識に手を伸ばしていたと思う。

でも今は、しない。

隣に立ったまま、

ただ待つ。

結菜は少しだけゆっくり歩き出して、

すぐにこちらを見る。

「置いてかないでよ」

冗談みたいな口調。

「置いてかないよ」

そう答えると、

結菜は小さく笑った。

起立性調節障害。

そう聞いたとき、

全部分かった気になった。

でも、本当は何も分かっていなかったんだと思う。

良くなる日もあれば、

そうじゃない日もある。

それでも、前よりは確実に歩けている。

それで十分だった。

「ね」

結菜が言う。

「最近、ちゃんと隣にいるよね」

「……うん」

追い越さない。

先回りしない。

同じ速さで歩く。

それを選べるようになったのは、

彼女が少しずつ回復してきたからだけじゃない。

僕自身が、変わったからだ。

校門を抜けると、

風が春の匂いを運んできた。

理由はいらない。

支える必要もない。

ただ、隣にいる。

それが今の僕たちだった。



この物語を書きながら、ずっと考えていたことがあります。


「誰かの隣に立つ」とは、ただそばにいることだけじゃない。

支えたり、先回りしたり、時には距離を置いたり、

その人自身の歩幅に合わせて歩くことだ、と。


藤原悠真と白石結菜の関係も、きっと完璧ではない。

言葉にできない感情、伝えきれない想い、戸惑いや迷い。

でもそれでも、少しずつ寄り添っていくことで、

互いの存在が自然と支えになっていく。


起立性調節障害という病気は、命の期限を示すものではなく、

ただ日々の中で「不確かさ」と向き合う時間を与えてくれるものです。

だから物語の中で、理由や答えを完全に描くことはしませんでした。

読者の皆さんも、登場人物と同じように、

「隣に立つ理由」を自分の中で感じてほしかったからです。


最後に、二人が歩く景色を思い浮かべてほしい。

理由は分からなくても、ただ互いの存在を感じながら歩く、

それだけで充分幸せだということを。


物語を書き終えて、僕自身もまた、

誰かの隣で歩くことの大切さを、少しだけ実感しました。

これは僕が作った最初の小説です。

初めての小説をこのような形で仕上げることができてとてもうれしく思っています。

読んでくださった皆さん、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ