冷酷王を襲う、初めての『和食ショック』
翌朝、スーザンは侍女長ルーナの協力を得て、王宮の厨房に入った。
ルーナは好奇心いっぱいの目で、スーザンの準備を見つめている。彼女が作ったという「究極の回復食」が、一体どんな料理なのか、誰も想像できていなかった。
(まずは、ベース作り。和食は出汁が命よ)
スーザンは鑑定で見つけた海草のようなものと、地下貯蔵庫にあった、野鶏の骨を組み合わせて、時間をかけてゆっくりと透明な出汁を取った。この国には「旨味」という概念がないようで、厨房の料理人たちは、匂いのしない透明な液体に首を傾げている。
次に、鑑定で味噌の代用品と分かった「発酵豆のペースト」を、沸騰させすぎないよう注意しながら、出汁に溶き入れた。香ばしく、深いコクのある香りが、厨房全体に広がる。
「なんていい香りでしょう、殿下。これは、ただの煮込み料理ではありませんね」ルーナが目を輝かせた。
「これは、味噌汁といいます。そして、この味噌汁に合わせるのは……」
スーザンは、朝食の準備に合わせて炊き上げたトロイセン産の米を、手のひらで慎重に握り始めた。前世の記憶と手の感触だけが頼りだ。
「この白いご飯を、こうして形を整えて、少し塩をまぶします。これは握り飯、あるいは、おにぎりと呼ばれます」
握り飯。それは、帝国では下賤なものとされる、米をそのまま食べる行為だ。しかし、トロイセン産の米は炊くとふっくらとしており、その一粒一粒が輝いていた。
(ロキニアス王が、初めて口にする味噌汁とおにぎり。彼の疲弊した体が、これを受け入れてくれるといいけれど)
スーザンは祈るような気持ちで、朝食の配膳を終えた。
王の私室に繋がる小さな食堂。ロキニアス王はすでに席に着いていた。彼は夜明け前から執務をしていたようで、顔色には隠しようのない疲労が浮かんでいる。
(ああ、やはりひどいわ。顔色が悪いし、左腕の傷も痛々しい)
ロキニアスは、彼のために用意された普段通りの朝食――巨大な乾燥肉の塊と、塩気の強いチーズ、そして硬いパン――に手を伸ばそうとしていた。
「王よ、お待ちください」
スーザンは、彼の手を止めた。ロキニアスは銀色の瞳をわずかに見開き、スーザンを見つめた。
「何だ、皇女スーザン。朝から騒がしい」
「申し訳ございません。ですが、わたくしが今朝、王のために特別に回復食を用意いたしました。まずは、こちらの料理からお召し上がりください」
スーザンは、ロキニアスの前に、湯気を立てる味噌汁と、海苔の代わりに鑑定で見つけた香草を巻いた握り飯を置いた。
ロキニアスは、目の前の見たことのない料理を、警戒心をもってじっと見つめている。彼の目は、まるで初めて見る敵の陣形を分析する戦術家のように、精密だった。
「これは……見たこともない。その黒い汁は、何で作ったのだ?」
「発酵豆のペーストと、海草、そして野鶏の骨から取った出汁です。栄養が豊富で、疲弊した体に優しく染みわたります。まず、この汁物からどうぞ」
ロキニアスは疑念を隠さなかったが、生贄であるスーザンが毒を盛れるはずがないという慢心か、あるいはスーザンの真剣な眼差しに負けたのか、ゆっくりと木の匙を手に取った。
そして、一口、味噌汁を口に含んだ。
その瞬間、ロキニアスの冷たい表情が、初めて大きく揺らいだ。
彼の銀色の瞳が、驚愕と混乱で大きく見開かれた。
「これは……!」
彼は思わず言葉を失った。口の中に広がるのは、塩辛さだけではない、複雑で深みのある「旨味」だ。乾燥肉とチーズばかりを食べてきた彼の味覚にとって、それはまるで五感のすべてを揺さぶられるような衝撃だった。
疲弊しきっていた彼の胃が、温かい味噌汁を受け入れ、全身に染みわたっていく。
「なぜだ……。この香りが、体を内側から温め、力が湧いてくるのを感じる。しかし、何の薬草の効能だ?」
ロキニアスは戦術は知っていても、栄養学や料理については全くの素人だ。彼はこの料理を、何か強力な薬草を使った秘薬だと考えた。
「薬草は使っておりません。ただの、食材の組み合わせです」
スーザンは優しく微笑んだ。
「そのペーストには、肉のタンパク質を効率よく体に吸収させる効果があります。王は長年の戦いで、塩分過多と疲労が蓄積されています。この味噌汁は、その毒素を優しく排出し、内側から回復させるためのものです」
ロキニアスは、信じられないという表情で、再び味噌汁を一口飲んだ。
次に、スーザンが握り飯を勧めた。
「そして、こちらをどうぞ。米をそのまま食べるという野蛮な行為だとお思いかもしれません。ですが、この温かい米には、疲弊した脳を活性化させ、心を落ち着かせる効果があります」
ロキニアスは、警戒しながらも握り飯を手に取った。硬いパンしか知らなかった彼にとって、ふっくらとした米の柔らかさと、口の中で優しく解けていく食感は、未知の体験だった。
そして、かすかな塩味と米の甘みが合わさった瞬間、彼の全身の緊張が少しだけ緩むのを感じた。
彼は、自分が今、『戦闘』ではない『休息』のための食事をしていることを、初めて自覚した。それは、過去十年間、彼が自分に禁じてきた感情だった。
ロキニアスは無言で味噌汁を飲み干し、握り飯を食べ終えた。その顔には、先ほどまでの疲弊の色が薄れ、微かな生気が戻っている。
「スーザン皇女……この料理は、一体どこで学んだ?」
彼の質問は、尋問ではなく、純粋な好奇心に満ちていた。
「わたくしは、平民の血が入っていますから。帝国で、身を隠すために様々な場所で働き、そこで多くの『生活の知恵』を学びました。これは、その知恵の一つです」
スーザンは、鑑定スキルや前世の記憶を隠すため、あくまで「生活の知恵」として説明した。
ロキニアスはスーザンをじっと見つめた。その銀色の瞳には、もう「生贄」を見る冷たい色はない。あるのは、「未知の力を秘めた興味深い存在」を見る光だ。
「わかった。今日から、私の食事はそなたが用意しろ」
それは、命令というよりも、懇願に近い響きを持っていた。ロキニアス王は、自らの体が、スーザンの作る料理を求めていることを知ったのだ。
「かしこまりました。ただし、一つ条件がございます」
「条件だと?」
「王の傷の手当ても、わたくしに任せていただきたいのです。この料理の効果を最大限に引き出すためには、外傷の治療も必要です」
ロキニアスは、スーザンの顔をまじまじと見つめた後、深く頷いた。
「よかろう。だが、もし無能な真似をすれば、容赦はしない」
それは、冷酷な蛮王の、初めての降伏の言葉だった。スーザンの逆転劇は、ここから本格的に始まったのだ。




