公衆衛生革命と、不穏な影
農業と初期の産業革命が成功し、トロイセン王国の国民の生活は劇的に改善された。飢餓は影を潜め、食卓には豊かな作物が並び、職を求める者も増え、王都は活気を取り戻していた。
しかし、スーザンは繁栄の裏側に潜む新たな脅威を見逃さなかった。
(豊かになり、人が集まれば、必ず問題になるのが衛生と疾病よ。特に、水の問題は致命的だわ)
ロキニアス王の病を治した神眼は、土壌や作物だけでなく、水質や環境中の微生物までを見通す。王都の井戸水は、生活排水の浸透により汚染され始めており、このままでは疫病が大規模に発生するリスクがあった。それは、蛮族の王国と蔑まれてきたトロイセンにとって、国家を揺るがしかねない危機である。
「王よ。わたくしは、全土で公衆衛生を改善するための、大規模な水の改革を行いたいと存じます」
スーザンは、水道と下水道の分離という、前世のローマ時代から知られる基本的なインフラ構想を説明した。
「具体的には、安全な水源から王都へ水を引くための上水道の建設、そして汚染された水を安全な場所へ排出するための下水道の建設です。これは、単なる水路ではなく、国民の生命を守る、最も重要な防壁となります」
この提案は、グスタフ宰相をはじめとする王宮の重鎮たちを驚かせた。それは、これまでの改革とは比較にならない、膨大な労働力と莫大な費用を必要とする、国家的な大事業だったからだ。
「王妃殿下、その建設費用は、現在の国庫の歳入を数年分つぎ込んでも足りぬかもしれません。それに、王都の地下を掘り進むことは、市民の反発も招くかと……」グスタフが慎重に進言した。
ロキニアスは、スーザンの提案を聞き終えると、何の迷いもなく答えた。
「費用は問題ではない。貴様の言う通り、民の命が途絶えれば、国は滅びる。戦場で兵の命を一つ守るよりも、貴様のその改革で何万もの民の命を救えるならば、安いものだ」
ロキニアスは立ち上がると、王妃の肩に手を置いた。
「王妃。必要な労働力は、私が蛮族の部族長たちに命じて集めさせよう。費用は、私がこれまで略奪した財宝を全て売却して賄え。貴様は、ただその知恵で、民に清らかな水を供給するのだ」
王の絶対的な支持を得て、スーザンは水の改革に着手した。神眼で最適な水源地を見つけ、石造りの頑丈な上水道の設計図を作成した。彼女は、都市計画の専門家や石工を集め、水源地から王都までの高低差を計算し、水が自然の重力だけで流れるように綿密な設計を行った。
「水を引く導水路は、単に土管を通すのではなく、耐久性の高い石材を隙間なく積み上げ、水の漏れを防ぐ必要があります。特に王都に入る部分は、市民にその恩恵が目に見える形で伝わるよう、アーチ状の高架水路を建設しましょう」
同時に、王都の貧民街から、清掃と排水の仕組みを導入する公衆浴場(公衆衛生の基礎)の建設も開始した。公衆浴場は、清潔な水が供給されるだけでなく、住民が定期的に体を洗う習慣を根付かせるための施設であり、病気の予防に直結する。
この公衆衛生への取り組みは、トロイセンの歴史上、誰も考えつかなかった、真の「文明化」の一歩となった。王都の市民は、次第に増えていく巨大な水路と、清らかな水の流れに驚嘆し、王妃への信頼を深めていった。
一方、帝国の首都では、レオニダス公爵が持ち帰った「蛮王の国が豊かになり、生贄の皇女が王の絶対的な寵愛を受けている」という報告が、皇帝を激怒させていた。
「馬鹿な!あの陰の皇女が、トロイセンを豊かにしただと?しかも、あの野蛮な王が、彼女を手放さないだと!恥知らずめ!」
帝国は、トロイセンがもはや「生贄の国」ではなく、無視できない勢力となりつつあることを認めざるを得なかった。しかし、正面からの戦争は多大な費用とリスクを伴う。そこで、帝国が次に打った手は、外交ではなく経済的な封鎖だった。
帝国は、トロイセンが国内で生産できない特定の資源、特に貴金属の精錬に必要な特殊な硫化鉱石や、医療に不可欠な南方からの薬草、そして火薬の原料となる硝石など、戦略物資の輸出を全て停止すると、周辺の同盟国に命令した。
「トロイセンを、経済的に孤立させ、内側から崩壊させるのだ。あの蛮王が、金も物資も無い中で、あの女の改革を維持できるはずがない!」
帝国の命令は即座に実行され、トロイセンの国境では、長年交易をしていた商隊が次々と立ち往生し始めた。市場からは、生活に必須ではないが、国の経済を支える重要な物資が、徐々に消え始めた。
経済封鎖の知らせは、水の改革の最中に、冷たい雪のように王宮に届いた。グスタフ宰相は顔色を失った。
「王よ、王妃殿下!大変です。帝国が、我々に対する経済制裁を発動しました。特に、上水道建設に必要な特殊な鉄製品の原料や、軍需品、医療品が完全にストップしました。このままでは、水の改革は頓挫し、我々の軍事力も徐々に低下します!」
ロキニアスは、怒りで玉座の肘掛けを握りつぶしそうになった。
「卑劣な……!正面から戦えぬからと、このような姑息な手段を……!」
スーザンは、ロキニアスの怒りをなだめるように、そっと彼の腕に触れた。
「王よ。感情的にならないで。これは、帝国の焦りの証拠です。彼らは、わたくしの改革を戦争よりも恐れているのです。ですが、確かにこの経済封鎖は致命的です。特に、火薬の原料となる硝石と、鉄の原料がなければ、我々の防御は崩壊します」
彼女は思考を巡らせた。神眼で見たトロイセンの地質図を思い出す。トロイセンは豊富な石炭と鉄鉱石を持つが、精錬に必要な硫化鉱石と、硝石は産出が極めて乏しかった。
「王よ。この危機を乗り越えるには、二つの道しかありません。一つは、帝国に屈して要求を呑むこと。もう一つは……トロイセン内部に、制裁された資源を代替できる製造ラインを、一から構築することです」
ロキニアスの銀色の瞳が、スーザンを見つめた。
「貴様は、また不可能を可能にするというのか、スーザン?」
「はい。貴金属精錬に必要な硫化鉱石は、硫黄を代用することで、ある程度克服できます。そして、硝石は、動物の排泄物と木炭を利用した、特定の発酵工程で人工的に製造できます。ただし、これらは高度な化学知識と、時間が必要です」
スーザンは、一筋の光明を見出していた。彼女の持つ前世の知識は、この世界では「錬金術」あるいは「魔術」に近い。
「グスタフ宰相。すぐに、国内の硫黄の産出地と、広大な土地を提供できる場所、そして家畜の飼育状況の調査を命じてください。王よ。この水の改革と同時に、化学的自給自足のプロジェクトを立ち上げます。これこそが、蛮王の国を真の独立国家へと導く、最後の内政チートとなります」
水の改革に着手したばかりのスーザン王妃に、トロイセン史上最大の経済危機という新たな試練が襲いかかろうとしていた。王の愛と、飯テロ&内政チートは、この前代未聞の経済制裁を乗り越えられるのか――。




