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狗薪

翌朝、○○は炊飯器の米が炊き上がる規則的なアラームで目を覚ました。


「良い匂い……」


 そう言えば、炊飯器を使うのはいつぶりだっただろうと彼女は記憶をたどる。一人暮らしを始めてから、碌に使った覚えがなかった。


 炊飯器からお茶碗一杯分の米を取り出した○○は、塩を塗り込んだ手で、それを丸い形に整えていく。ほかほかの熱さに四苦八苦しながら、不格好ながらも美味そうなおむすびが完成した。


「いただきます」


 一口に運ぶと分かる。ヨツツジのおむすびには到底適わない。しかし今は、こうして一人で霊を撃退できたこと、そして形式だけでも「オムスビ・リカバリー」を行い必要があるため、○○はそれを豪快に頬張った。



「一応、黙祷もしておこうかな」


 部屋の真ん中に立って、両手を合わせようとする○○。その時再び、呼び鈴が鳴った。


「誰だろう……」


 時刻は朝七時半。昨日の深夜とは違って、人が訊ねてきてもおかしくない時間である。改めて○○が外に意識をやると、妙に騒がしい感じがした。


「はーい」


 ガチャリとドアを開けた○○の前に立っていたのは、彼女が住むマンションの大家だった。


「ああ○○さん! ごめんねえ。こんな朝早くに」


「あ、大家さん。お世話になってます」


 ぺこりと頭を下げる○○に、大家は「元気そうでよかったわ」と微笑む。


「それでね、本題なんだけど……」


 大家はそう言って、周りを伺うようにキョロキョロと視線を動かせてから、小声で言った。


「実はこのマンションで昨日、飛び降り自殺があったのよ」


「えっ」


 ごく普通の反応を示した○○に対し、大家は心底怖がっているように話をつづけた。


「貴方の部屋の丁度真上の部屋の人なんだけど……。まだ大学生よ。遺書があったんだけど、就職活動がうまくいかなかったって。……その後、全てを呪うだとかなんとか書いてあって……。可哀そうなのは分かる。でもそんな怖いこと書かれたら、こっちが不安になっちゃうわ。私のことも恨まれたらどうしよう、とか」


 そこまで言い切ると大家は我に返ったのか、○○に「ごめんねえ」と言った。


「怖がらせるつもりは無かったの。ただ○○さん、真下の住人の方だし、報告しておこうと思って。もしこの部屋が怖くなっちゃったら、別の部屋に変えてあげるからね。他の人たちにまで迷惑をかけられないもの」


 そこまで話を聞いて、○○は深く考える。昨日襲い掛かってきた霊。あれは確実にこのマンションから飛び降りた大学生が正体だろう。○○はその事実が、とても恐ろしくなった。彼はきっと、逃げ続けてきたのだろう。現実から目を背け、好機を逃し続けたのだろう。そんな彼はついには命を断ち、この世を恨みながら死んだ。三途の土産にと、○○を襲おうとした。


 彼女はそれを考え、やっぱり恐ろしくなる。起こった事象ではなく、『自分もいずれ、こうなるかもしれない』という焦り。このまま全てから逃げ続け、何物にも成れないまま死ぬ。そして世界を恨む幽霊となって、奥の院に除霊される。哀れな末路を蔑まれながら、彼らの元へ戻らなかった後悔に押しつぶされながら……。


 他人と話して、少し安心した様子の大家は、「また何かあったらすぐ連絡して」とその場を立ち去ろうとする。長話に付き合わせて申し訳ないという気持ちが伝わってきた。


「大家さん」


 不意に呼び止められた大家は○○を振り向く。その声の剣幕に彼女は、少し度肝を抜かれていた。今すぐここで部屋を出ていく、とでも言われるのだろうかと大家は身構えた。


「部屋の取り換えは必要ありません。それと、大家さんが怖がる必要は、もっと無いです」


 想定外のことを言われ、気の抜けた相槌しか打てない大家。


「この世に幽霊がいることは認めます。呪いに近いものがあることも。でもそれは、生きた人間には到底叶いません。ましてや自ら決めたにもかかわらず、残された人間を恨むような幽霊は弱いのです。だから大家さん。もしあなたの前に自殺した大学生が現れたら、説教をしてあげてください。『他人に迷惑をかけるのはよしなさい、もっと有意義なことがあるでしょう』と。それが、生きた人間にできる最大限の除霊であり、冥途への餞なのです。それでも相手が折れないなら、私を呼んでください。その時は、きっと彼を討つでしょう」


「ちょっと、○○さん? いきなりどうしたの……」


 だんだんと心配になってきたのか、精神的におかしくなった人への距離の取り方をする大家。やっぱり、自殺者の話をするべきではなかったかと、反省する。しかしそんな様子を気にするまでもなく、○○は言葉を紡ぐ。


「私は、事故物件完全攻略サークル『奥の院』なのですから」


 この言葉を以て、イヌマキは火を取り戻した。それは遠い先を堂々と見据える、篝火だった。


「それと、私の名前は○○ではなく、イヌマキです。忠犬のように、奥の院と言う炎に、火をくべる薪なのです。以後お見知りおきを」


大家はこれ以上関わらないほうが良いと思ったのか、


「わ、分かったわ……。どうもありがとう」


 とそそくさと階段へと向かって行った。階段を下りる途中、大家は彼女に聞こえないよう小さな声で嘯いた。


「生きた人間の方が、よっぽど怖いわ……」


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