聖域の中で
「だからこそよ。イヌマキちゃん、奥の院を抜けなさい」
聖域の静寂すら、騒々しく感じるほどの沈黙が二人の間を降りてくる。ミツメはイヌマキの方を見ず、窓の外の一点を眺めている。
「はい……?」
ミツメの言葉を深く理解する余裕もないままに、イヌマキの口は動いた。ミツメは視線を動かさない。
「二日前から、私はずっと考えてたの。あなたはまだ、これからよ。こんなくだらない私たちの反撃に、巻き込むわけにはいかない」
いつもよりも落ち着いた、しっとりした声で、ミツメは話す。その声は確かに優しいが、寂しさを隠しきれていなかった。
「そんな! 委員長を倒す作戦が、始まるところなのに……。今更私が……」
ようやくミツメの意図を理解したイヌマキが、洪水の様にあふれる気持ちを言葉にしようとする。
「イヌマキちゃんもあの男が憎いと思ってくれてるのね。とっても嬉しい。それだけ奥の院を思ってくれているということだもの。……でもね、私は、私たちはそれで充分なの」
「待ってください! 話が急すぎて……」
イヌマキの狼狽ぶりとは対照的に、ミツメは落ち着き払っている。
「作戦が成功しても、しなくても、私たちは大学にいられる可能性は低い。本局に反抗するんだもの。未来あるあなたに、そんなことをさせる責任を、私たちは背負えない」
「それともあなたは、そんなリスクを負ってまで、あの男を陥れたい?」
大学にいられる可能性は低い。その言葉が、イヌマキの狼狽の心臓を刺す。一度冷静になって考えてみる。奥の院での不祥事が問題となり、大学を除籍される。学内だけでなく、学外でも話題になる。SNSで広まる。実名が世間に流出する。そんなことを考えながら、イヌマキは自身の両親の顔を思い浮かべる。大学合格を心から喜んでくれた姿、寂しくなるねと言いながら、一人暮らしを笑顔で承諾してくれた姿が浮かんだ。
「……それは」
「意地悪な聞き方をしてしまったわ。ごめんね。でもね……」
イヌマキの心の揺らぎに、ミツメは敏感だった。この人はいつもそうだと、イヌマキは思う。人の心の変動には、恐ろしいくらいに鋭い。まさかその観察眼が、こうも苦しく自身に向けられるとは、イヌマキは思ってもみなかった。
「迷うなら、やめておきなさい」
そう言ってミツメは、イヌマキの頭にのせられた猫じゃらし冠をぽんぽんと撫でる。
「普通の学生に戻って、たくさんお友達を作って、華のある学生生活に戻りなさい。どちらが幸せかなんて、私が言うまでもないでしょう? ……私がこの部屋を出たら、奥の院一同は今後一切、イヌマキちゃんに干渉しない。周りから仲間だと思われるのも危険だからね。ロクマには、一年生の後輩は、私たちに愛想を尽かせて退部したと伝えておくわ」
奥の院のことで、心無い陰口を聞くのは辛かった。大学生活では挽回しようと志していたイヌマキにとっては尚更。でもイヌマキは、奥の院に入部して気づいたことがあった。『自分は、結局は何にも立ち向かえない』ということ。霊との対峙とは全く異なる、自分の弱さから来る恐怖からは、目を背けたまま逃げてばかりだった。陰口や、周りの評判、そして除籍のリスク。奥の院の人間たちと過ごし、作戦を共にすることで麻痺していたのだろうか。
「……ミツメさん。私は、弱いままでした」
ミツメが、イヌマキの頭を撫でる手の動きを止める。
「訳の分からないまま奥の院に合格して、訳の分からないまま作戦に参加して……。怖いけど、この人たちといれば何か変われる気がするって、この一年間、奥の院で過ごしました。……でも、強いのは皆さんで、結局私は何も変わってない。皆さんの力で、私の恐怖心が麻痺していただけなんです。今こうして、本当の脅威が来た時、乗り越える勇気がありません。ロクマが憎くてたまらないのに、除籍の可能性をやすやすと背負えるほどの器量は、私にはありません。怖くてたまらないのです。安心したい私がいるのです」
「弱いままでした」
そこまで言い切ると、イヌマキは椅子に力なく座り込み、うつむいた。ミツメのことを、直視できなかった。それでも彼女は、イヌマキの頭を撫でることを再開した。
「それは弱さじゃない。生きる人間として当然の感情よ」
「でも、こんな急に、お別れなんて……」
そうイヌマキが言うと、ミツメはふふふと笑った。
「私だって寂しい。でも、最後のお別れってわけじゃないわ。私たちが卒業か除籍かして、イヌマキちゃんも卒業して、全員があの大学と無関係になった時なら会える。その時まで、私たちのことを覚えててくれる?」
イヌマキは、何も答えることができなかった。「はい」とか「もちろんです」とか、何を言っても、今の状況を受け入れてしまっている自分を許せなくなりそうだったからだ。
悔しさやもどかしさ、劣等感などありとあらゆるどうしようもない感情は、彼女の涙となって溢れた。
「泣かないで」
と優しく言うミツメの言葉を聞いても、際限なく溢れてきた。イヌマキの様子をしばらく見守っていた彼女は、自分の瞳も熱くなっているのに気が付いた。
「……私も、かわいい後輩を持ったものねえ」
そう言うとミツメは、椅子に座ってうつむくイヌマキを深く抱きしめる。後輩をいつも可愛がっていたミツメも、抱擁などしたことがなかった。不意に体が温かくなったイヌマキは、深く目を閉じ、最後の涙を流しきる。こうすることでミツメも、後輩に涙を見せずに済んだ。
「幸せに過ごすのよ」
どれほど長い時間が経過しただろうか。ミツメは名残惜しそうに抱擁をやめ、廊下への扉を目指して歩き出す。いつもよりも歩幅が広かった。規則正しい足音だけが部屋に反芻する。広い歩幅とは対照的に、遠慮深く扉を開く。その動作は、普段の彼女のそれよりも酷くひっそりとしていた。ミツメはそのまま部屋を出る。そして開いた時よりも、更に遠慮深く、ゆっくりと扉を閉める。乱暴な音が鳴らないよう、細心の注意を払ったことが分かる、至極控えめな音を立てて、談話室の扉が閉まった。
心地の良い、土曜日の昼下がりの出来事だった。




