優しい妖怪
「そこにデカい老舗のすき焼き屋がある。そこのことだろう」
それを聞いたミツメは目を輝かせてカガリに近づいてきた。
「あなた、やるじゃない! ねえ君! お母さんたちの場所が分かったわ!」
そう言われた男の子は、まだ涙で濡れた目を拭って、少しだけ笑顔になった。
「ただ、遠い。歩いたら三十分くらいかかる。どう考えても間に合わない」
カガリにそう言われたミツメは、呆れとも、怒りとも取れる表情で言った。
「じゃあ、この子をここに置いてくの? せっかくご両親の場所まで分かったのに。こんな人ごみの中、この子を放っておける?」
「いや、他の大人に任せたらいいだろ」
そう言ったカガリはふと、かつてカクシノに言われた言葉を思い出した。それは、二人で祇園祭に出かけ、骨董屋台をやっていた時のことである。
『祇園祭はさ、人がとても多いだろう? だから迷子になる子供は、結構いるんだよ。だけどこのお祭りの区画はとても広い。さらにアナウンスもできない屋外だ。だから、そのまま見つからない子供もいるんだって。神隠しだって言われることもあるみたい。でもきっとそれは、神隠しなんて神聖なものじゃない。もっと恐ろしくて、悍ましい、人間の汚点を凝縮したような出来事が、それなりの頻度で起こっているということだろうね』
人間の汚点を凝縮したような出来事……。それが、この子には起こらないとは限らない。任せた大人が信頼できる人物かどうかもわからない。
「そんな怖いことできないわ。あなたが行かないなら、私一人で行きますからね」
ミツメはぷんぷんと怒り、男の子の手を取りはるか遠くに見える寺町アーケードへ向かおうとしている。カガリは再び懐中時計を見て、小さくため息をついた。
「待て」
カガリは歩き出したミツメに向かって言った。
「何よ。止めたって無駄だからね」
「俺が行く」
先ほどとは真逆の言葉に、ミツメは少し面食らう。
「……さっきまで時間がないって言ってたじゃない。カクシノさんと連絡が付いたの?」
「違う。一つだけ、短い時間でその子を届けられる方法がある」
「付いてこい」と二人に言って、カガリは歩き出した。
カガリ、ミツメ、迷子の男の子の三人がたどり着いたのは、元々の目的地であった隠乃ビル、その屋上だった。
「ちょっと、ここ最初に錫杖を探し始めたところじゃない」
ミツメも、エレベーターから下りるまでは気が付かなかったようだ。京都は同じような高さのビルが密集しているため、無理もないとカガリは思った。半ば無理やりに連れて来られた男の子は、自分が誘拐されたのではないかと硬直している。
「こんなところで何をするの?」
ミツメがそう聞くと、カガリは懐にしまっていた般若の面を再び被った。それを見た男の子は、視覚的な恐怖に泣きそうになる。
「……背中につかまれ」
そう言ってカガリは、男の子に背を向けてしゃがむ。
「ちょっと、どういうつもりなのよ!」
意図がくみ取れないミツメは、怒ったようにカガリに言う。
「……ビルの上からアーケードを目指す。人もいないし、俺の速さなら間に合う」
「ああ、なるほど。……って、本当に大丈夫?」
ミツメは心配そうに尋ねるが、カガリはこれだけは自信をもって答えられた。
「いつもくそデカい仏像を運んだりしてるんだ。今更子供の一人くらい問題じゃない」
「そう……」
彼女は未だあまり納得していない様子だったが、男の子をこれ以上怖がらせないように言った。
「いい? 今からこのおじさんが、君のご両親のところに連れてってくれるわ。大丈夫、ちょっとした乗り物みたいで楽しいわよ。あとこのおじさん、顔は怖いけど、本当は優しいから安心していっておいでなさい」
口を出さなければ好き放題いいやがって、とカガリは内心怒っていたが、口には出さなかった。ミツメに説得された男の子は、恐る恐るではある者の、カガリにおんぶされる形となった。
「おい、お前は先にこのビルの地下に行ってろ。この子を届けたら、すぐに追いつく」
気障な台詞を言ってしまった自分が恥ずかしくなり、ミツメの返事を聞く前に走り出し、大きく跳躍するカガリ。
「ちょっと!」
背後からミツメが何か叫んでいたが、聞く余地も余裕もなかった。おじさんと言われたことに対する、若干の仕返しのつもりだった。背中の男の子は目をギュッと閉じ、恐怖に耐えている。それも無理はないだろう。カガリはかなり早いスピードで、ビルを走り抜けている。太いパイプやダクトを飛び越え、頭上へ、そして眼下へと跳躍し、一つ、また一つと雑居ビルを跨ぎ、超えていく。もはや何が起こっているのかも分からず、声すら出せずにカガリの背中に縮こまる少年が、だんだんと哀れになってきた。
「……目を開けてみろ」
そんな少年の様子を鑑みたカガリは、ぶっきらぼうに声をかける。それに従い薄っすらと目を開ける少年。
「わあ……」
その光景を見た少年は、思わず声を漏らし、薄く開けていた目を全開にさせた。彼の目に広がるのは、先ほどまで自分が歩き、彷徨っていた祇園祭の風景。その景色が、自分の遥か眼下で展開されている。不安と恐怖に支配されながら歩いた道が、軽快な速さで視界を流れていく。怪しい雰囲気の裏路地も、よくわからない屋台も、彼の目に映っては、ずっと向こうに消えていく。先ほどまで押しつぶされそうだった気持ちが、嘘のように快いものに変貌していた。
余裕ができた少年は、更にカガリの体温と、心地よい風速を感じる。まるで空中散歩しているような、そんなロマンあふれる心地になる。
「すごーい!」
あまりに愉快な気持ちになったのか、少年は叫ぶ。それを聞いたカガリも、どこかほっとしたような気持になって、「落ちるなよ」と言って更にスピードを上げる。
そこから少年は、目まぐるしく変化する眼下の往来を面白そうに眺め、心地よい風とスリルを楽しんだ。寺町アーケードに到着し、下界に降りる頃には「もう終わりなの」と現実離れしたカガリの高速移動の終了を惜しんだ。
アーケードに入ると、流石に屋台や提灯は見られなくなった。しかしそれでも、近くで行われている祭りの余波を感じさせる、浮ついた空気がそこにも流れていた。浴衣を着た恋人同士、カラフルに光る玩具を振り回す子供。地面に落ちた玉子せんべい……。
「ねえ、なんですごいことできるの?」
興奮気味に、少年がカガリに尋ねる。最初に会った時とは別人のように、カガリになれなれしく話しかける。
「それはな……」
いつものように生まれつきだと、彼は説明しようとした。しかし少年の夜祭りのように煌びやかな瞳に当てられたカガリは、なんだか言葉に詰まった。
「ねえ、どうして?」
少年は、臆することなくカガリに詰め寄る。カガリは外していた般若の面をつけ直し、少年を正面に捉える。
「妖怪だからさ」
「え」
「俺は妖怪なのさ。本当はお前みたいな子供を攫って食べるんだが……。まあ、今回は助けてやろう。……もう迷子になるんじゃないぞ」
少年はしばらく口を利かなかった。もう迷子にさせないための脅し文句のつもりであったが、怖がらせすぎたか、もしくはあまりに子供だまし過ぎただろうかと、カガリは内心反省していた。これなら、正直に話していたほうが良かったかもしれない。
「でも、優しくない普通の人より、優しい妖怪のほうが好き」
「はあ?」
「さっきね、僕はいろんな人に助けてって、お願いしたんだけど、みんな気づいてない振りするんだもん」
そんな言葉が帰ってくるとは思っていなかったカガリは返答に窮し、
「でも、本来は人間を食べる妖怪だぜ」
などと反射的に言ってしまった。自分でも粗末な冗談を引きずってしまっていることに驚いている。少年はちらりとカガリの方を見て、再び前を向き直す。
「でも、僕にとっては助けてくれた優しい人なんだもん」
「そうか」
カガリはそれ以上、何も言わなかった。彼の嘘を信じているのか、嘘と分かってこんなことを言っているのか、それは分からなかった。ただ、これ以上興の醒めることを言いたくなかった。
待っている方などいらっしゃらないとは思いますが、大変お待たせしました。




