蝶舞の錫杖
午後八時十五分
「蝶舞の錫杖が、存在しない……? どういうことですか」
あまりの衝撃に、満身創痍のジュントクに気を遣うことも忘れ、イチジョウは食い入るように彼に問いかけた。
「存在しないとなると、嘘になる。ただ、儀式に直接影響を与えるもんではない」
まどろっこしい言い方に、イチジョウは歯がゆい気持ちになる。
「よく、分かりません。あれのおかげで、悪霊を封印できていたのではないのですか」
「違う」とジュントクは平然と言った。「奴らを封印できていたのは、強い精神と、封印の祝詞のおかげや」
「では、何故……」
そう言ったとき、スズリが視界の隅に映った。説教を受けるときの様に、正座をして、うずくまるような視線で下を向いている。なぜ、彼女までが苦しそうな表情をするのか、イチジョウらには未だ分からない。
「蝶舞の錫杖とは、何だったのですか。なぜ、儀式に使われていたのですか」
イチジョウの言葉を最後に、仏間は沈黙した。誰もが、ジュントクの答えを待っているようだった。
しばらくの静寂ののち、諦めたようにジュントクが口を開いた。
「……思い出や」
誰もが、今聞いたことの意味を理解できなかっただろう。予想だにしていない返答に、自分の耳がおかしくなったのではないかと、フセミは思ったほどだった。全員の様子を見て、ジュントクがさらに続ける。
「あの悪霊との辛い戦いには、拠り所が必要やった。それが、蝶舞の錫杖の役割や」
午後八時十六分
「カクシノさん……」
呆然とした様子で、ナルユメが呟く。
「君たちが探しているのは、もしかしてこれかな?」
そう言って寄る辺商店主、カクシノは、わざとらしく大げさに、それを取り出した。
その場に大きく掲げられたものを見た時、二人は目の前にあるものを理解するのに時間がかかった。
「それが……、蝶舞の錫杖、なのですか」
先に口火を切ったのは、イヌマキだった。ナルユメは、彼女以上の衝撃を受けているらしく、未だ何も言わない。
「そうとも。誰が何と言おう、これがあの伝説の呪具、『蝶舞の錫杖』さ」
自信ありげに、カクシノは答える。骨董屋として客に売りつけるときのようなテンションで、彼は続ける。
「ナルユメ君のお家での儀式で、実際に使われていたものさ」
「でも、どう見てもそれは……」と口ごもりながらもイヌマキは言う。
「玩具……ですよね」
カクシのが『蝶舞の錫杖』と言い張るそれは、玩具専門の屋台で売られている、光る玩具だった。短いスティックの先に、透明な蝶のオブジェが付いていて、ボタンを押すと七色に点滅しながらくるくると回転する仕組みになっている。まさに、光る蝶が夜を飛んでいるように見えた。
カクシノはそれを弄りながら、「綺麗だねえ」などと呟いている。
「それで、悪霊が撃退できるのですか」
「まさか」とカクシノは笑う。
「直接的な撃退や封印はできないよ。これはね、お守りなのさ」
「お守り……?」
回廊を包んでいた青白い光は、いつの間にか消えていた。背後は漆黒の闇に包まれる。寄る辺商の、屋台独特の暖色だけが、唯一の光だった。
「そう、お守り。簡単に言えば、孤独な戦いの『寄る辺』だね」
午後八時十七分
「拠り所……」
意味を深く咀嚼するように、イチジョウが言葉を発する。その間にも、ジュントクは苦しそうにせき込む。枯れ枝のような腕が、痛々しく彼の体を支えている。
「主人様の家系は、代々宵山に現れる悪霊を封印しているというのは、お話していた通りだと思います」
主人の様子を黙ってみるのに耐えられなくなったであろうスズリが、彼の代わりに話し出す。
「儀式自体は、祝詞さえ唱えることができれば、封印することができるのです。しかし、そこには、強い精神の消耗という代償がありました。そのためか、主人様の家系は代々早命でした。そこで、四代目当主が思いついたのが、『寄る辺の品』だったのです」
「なるほど、錫杖というのだから、我々はてっきり、敵に干渉するものとばかり思っていたな。思い込みとは恐ろしい」
フセミはそう言って唸る。しかし恐らく、奥の院の誰もがそう思っていただろう。
「当主によって、寄る辺となる品は異なります。ジュントク様は、それに蝶舞の錫杖を選ばれました」
「どのようにして選ぶのですか」
イチジョウの問いに答えようとしたスズリを制止して、ジュントクは言う。
「それがさっき言った、思い出や」




