静中の静
午後八時零分
イチジョウが気が付くと、そこは元の、薄暗い仏間に戻っていた。水は一滴も残らず、視界も回復している。深く深呼吸をすると、先ほどまでの肺を刺すような空気の冷たさも消え去ったようだ。
「全員、無事か?」
あたりを見回すと、フセミ、ヨツツジ、スズリが倒れているのがぼんやりと目に映る。イチジョウの声で、三人は気を取り戻したようだった。
「全員、生きているな」
ひとまず安堵したのち、三人は反射的に祭壇の方を見る。観音開きの扉の前、即ち悪霊の本体がいた場所の前に、初老の男が一人、立っていた。その男は本体であろうものに向かって、「もういいんや」や「儂が全て背負う」などという旨の発言をしている。
「新たな傀儡か?」
イチジョウがそう言って葦苅を構えるよりも前に、「主人様!」というスズリの声が響いた。彼女はそう言うとともに、その主人様の元へ駆け寄る。スズリに支えられて安心したのか、床に崩れ落ちるジュントク。
「その方が、ナルユメさんのお父様?」
イチジョウが二人に近づきながら訊ねる。
「はい、屋敷主人のジュントク様でございます」
「……」
ジュントクは奥の院の三人を一瞥し、何も言わないまま再びうつむいた。
「あなたが、救ってくれたのですか。我々を」
長い沈黙の後、イチジョウが口を開く。
「……そうや」
大儀そうに、ジュントクが答える。スズリに支えられていなければ、きっと床に倒れ伏してしまうだろう程に、彼は満身創痍の様子だった。
「しかし一体、どうやって……。あれは人が制御できるものではなかったはずだが」
フセミも、神妙な顔で独り言つ。ジュントクはその言葉を聞き逃さず、律儀に答える。
「奴らの狙いは儂らの一族や。交渉したら、すぐに霊障を止めてくれた」
そう言い終わるや否や、ジュントクは激しくせき込みながら、うずくまろうとする。「ご無理なさらず」と言いながら、スズリは、彼を畳の上に寝かしてやる。
「皆様、申し訳ございません。主人様を少しだけ、そっとしておいてあげてくださいませんか。質問は後ほどに。このままでは……」
使用人としての責務を全うしようとするスズリの発言を、ジュントクは手で制止する。
「いいんや、スズリ。すべて話す。どうせ、もうどうにもならん」
「それに」と彼は付け加える。「交渉はもう成立してしもうたんやから」
「その交渉というのは、まさか」
イチジョウの問いに、ジュントクは頷く。
「儂の命。それを奪わせることで、完全な成仏を約束させた」
ただでさえ静かな仏間が、聴覚を奪われた様に静かになる。その場に五人も人間がいるとは、到底考えられないほどに。
「今のうちに、聞けることは聞いておけ」
自身の宣告でここまで空気が凍り付くとは思っていなかったジュントクが、すこし砕けた様子で言葉を切り出した。
「主人様! しかし……」
「いいんや、スズリ。この人らにも、迷惑をかけてしもうたんやから」
そう言ってきかないジュントクの瞳には、すでにこれから起こることの覚悟が垣間見えた。それをくみ取ったのか、スズリももう何も言わなかった。
「……皆様、すべて主人様からお聞きください」
それからイチジョウが、ジュントクに跪くように目線を降ろし、
「まずは、君らぁに謝っておく。すまなんだ。危険な目に会わせてしもうた」
「いえ、我々の役目でしたから……。それにこちらこそ、力及ばずで、こんなことになってしまいました」
「いや、いいんや。元々、君らが何とかできるもんやないことは、儂が一番よくわかっとった」
「蝶舞の錫杖がもう少し早く我々の手に渡っていれば、戦況が変わっていたと思うのですが……」
そんなイチジョウの言葉に、ジュントクは初めて表情を崩してふっと笑う。
「あのな」と一間空けて、ジュントクは奥の院一同にとって衝撃的な事実を口にする。
「蝶舞の錫杖なんてもんは、はなっから存在しなかった」
投稿が遅れてしまい、申し訳ございません。
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