ブレイン・フィリング
午後六時三十分
「……動く気配がないぞ」
祭壇の扉の奥で蠢く影は、一向に姿を現さない。影の形は歪な球体で、不気味なほどに白い。生気の対極に位置するような白。それは暗い水の底で微細に振動する軟体動物のような気味悪さを彷彿とさせた。イチジョウたちが葦苅を構え、敵の出現を待ち始めてから、すでに十分ほどが経過しようとしていた。
「うーむ、こういう時どうすればよいか……。よく考えると、我々は知らんな」
フセミの言う通りで、奥の院の攻略方法はまず敵の動向を知ること。相手の行動パターンを共有し、頭に入れた上での戦闘であるため、初手から霊と対峙するという経験はゼロであった。
「基本的には迎撃スタイルで貫く。それに俺たちがやるのは撃退じゃない。蝶舞の錫杖到着までの時間稼ぎだ。何も起こらないなら、その時間を長引かせた方が……」
その時、イチジョウの背後で、陶器が砕け散る音が鳴り響いた。とっさに振り向くと、ヨツツジがイチジョウの後ろの畳に尾張羽を投げつけたようだった。
「何か居たのか」
そうイチジョウが問うと、ヨツツジは「居た」と言う。「イチジョウの背後に、痩せた人間が忍び寄っていた……。気づかなければ、危なかった」
そう言っているヨツツジの後ろに、痩せた泥人形のような男が音もなく近づいているのを、イチジョウは見逃さなかった。彼が葦苅を撃つと、それはフッと消えた。
「全員、背後に注意! 祭壇の影は本体で間違いないが、あれは注意を引くためのブラフ……。全員背中を合わせるぞ」
イチジョウの合図で、正三角形の形に背中合わせになる三人。しかし、陣形をとるのが一コンマ遅れたようだった。イチジョウの視界が揺らぐ。吐き気を催すほどの不快な眩暈の中で、脳の内側に何かを冷たいものを押し込まれるような感覚になる。
「憑依か……!」
隣を見ると、フセミやヨツツジも苦しんでいる様子で、全員が憑りつかれそうになっている。
「仕方ない。久しぶりにあれをやるぞ」
そう言ってイチジョウは、乗っ取られそうになる頭の中で、呪文のようにある文章を唱えだした。
『隴西の李朝は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった……』
『ブレイン・フィリング』。奥の院三代目リーダーであるシキウチが考案した憑依対策であるこの技は、思考を乗っ取ろうとする敵に対して、脳内を物理的に言語で埋めるという奥の手である。言語で埋めることができれば、どのような文章でもよいのだが、『なるべく覚えやすく、小難しくかんじるもの』が理想とされ、「山月記」の冒頭が一般的に使用されるようになった。『一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した』あたりで、イチジョウの精神は正常なものへと戻っていった。恐らく相手は、イチジョウの頭に取り入る隙が無いのだろうと判断したのだろう。それはもう二人も同じようで、頭を押さえながらも、元の様子に戻っていた。
「次の攻撃に備えるぞ」
精神による乗っ取りが無効だと学習した霊が次に行う行動は、イチジョウ達の予想通りだった。頭ではなく体を直接乗っ取り、三人の自由を奪おうとしているらしい。イチジョウ達の指先がぴくぴくと痙攣を始める。
「早いうちに手を打つ。これが戦場の鉄則だ」
そう言って彼らは、自らの手を硬い壁に思い切りたたきつけた。その場に制止するのが難しいほどの激痛が手を襲う。
「これだけは慣れん。だが、これも迎撃のため!」
フセミもそう叫びながら痛みに耐えている。ヨツツジは無言である者の、小刻みに飛び跳ねているのが見えた。イチジョウもうつむいてそれに耐えていると、手元の痙攣は退いた。どうやら、霊は身体の憑依も不可能と分かったようだ。擦り傷から、うっすらと血が滲んできた。
「『フィジカル・ペイン』をやるのは久しぶりだったな」
ちなみにこの技も、三代目が考案したものである。
「シキウチ殿には感謝だな! 見たこともないが……」
イチジョウが祭壇を見ると、蠢く影の動きは、先ほどよりも激しくなっていた。
「まだ六時半、か……」
敵の攻撃はさらに激しくなると予想される。痛みしびれる右手を摩りながら、蝶舞の錫杖は見つかっただろうかと考えた。




