夜祭前に
午後四時二十六分
「じゃあナルユメさん、蝶舞の錫杖見たことないの?」
「うん。えーと、これ前言わんかったっけ。イヌマキちゃん」
「はい。一回目の作戦会議で聞きました」
「そうよな。さっすが」
そう言ってナルユメはイヌマキに親指を立てる。
「儀式内容はおろか、祭壇のある部屋にすら入らせてくれんかったからなあ。親父が錫杖の話をするまで、俺はずっと知らんままやった」
屋台が最も多く立ち並ぶ予定の烏丸通の路肩には、午後六時から解禁される歩行者天国に向けて、店主たちが屋台の準備に勤しんでいた。イヌマキ含む捜索チームたちは大通り沿いの喫茶店に入り、「蝶舞の錫杖」が捜索できるその時を待ちながら、着々と準備される夜店を眺めていた。
「それじゃあ、どうやって探すのよ。蝶舞の錫杖はどこで売ってますかなんて、聞くわけにもいかないでしょう」
「確かに、そこ説明し忘れてたな」
「ごめんごめん」と言ってナルユメは注文したちゅるちゅる珈琲ゼリーを名前通りちゅるちゅると吸い上げる。その光景に、イヌマキはいつぞやかのミツメの姿を思い出した。真面目な話の雰囲気をぶち壊すような飲み物を注文するのは、奥の院の伝統なのだろうか。そうしてナルユメは話を始める。
「あれは、親父に宵山作戦について話した日の夜やった」
〇
「というわけで、俺が昔、リーダーやってた奥の院っていう連中と、この家の悪霊を撃退しようと思ってるんや。二手に分かれて、親父が言ってた蝶舞の錫杖も捜索する」
ナルユメが作戦の概要を話している間、彼の父であるジュントクはずっと厳格な顔を崩さなかった。三日前に倒れたとは思えない。話が終わってからも、彼はしばらく何も言わなかった。しびれを切らしたナルユメが尋ねる。「どうしたん」
「何か気に入らんのか。それとも、親父が何とかしたい?」
「そうやない」と、父は否定した。表情こそ険しいが、ナルユメが京都にいた頃より、ずっとしぼんだ声になっていた。
「……作戦については異論ない。奥の院……。お前が前から言うとった除霊の精鋭やな。錫杖が見つかるまでの足止めくらいならできるやろう」
「そいつらがどう戦うか、儂は知らんが」と付け加えて、ジュントクは言った。
「なら、良いやんか。何を不満そうにすることがあるん」とナルユメは少し困惑していった。もとから皺の深い親父ではあったが、こんなにも眉間に皺が寄った父を、彼は見たことがなかった。再びしばらくの間を置いて、ジュントクは重い口を開いた。
「儂が気にかけてんのはな、蝶舞の錫杖の方や。……二手に分かれる言うとったな。お前はどっちにつくんや。迎撃か、捜索か」
「言うまでもなく迎撃や。屋敷の構造を把握してるんは俺だけやし、依頼主である俺が、安全な捜索チームに入れるわけないやろ」
そう言うと父は、かつてのしぼんでいない、厳格な声で「それはあかん」と言った。驚くナルユメの方を見て、父は続ける。
「宵山作戦……。それ自体はぜひやってもらいたい。ただ、お前が錫杖を捜索する側に回れ。そうじゃないと、儂が認めん」
昔から頑固者であったことは知っていたが、筋の通っていないことは一つもしたことがなかった父。それなのに今回、全く意図の分からない要求をされて、ナルユメは不思議がった。
「……理由はあるんか?」
困惑する気持ちを抑えて、ナルユメは尋ねた。
「あれは、お前にしか見つけられんからや」
「はあ」とナルユメは少し呆れて言った。「いや、ちょっと意味がわからん」
「カクシノさんが言ってたんやろ。宵山の隠れ屋台で売られるって。それじゃあ、誰でも見つけられるやんか」
ナルユメの調子に動じることなく、父は続ける。
「お前の仲間たちが探しに行っても、蝶舞の錫杖は見つからない。と言うより、もし見つけても、それが蝶舞の錫杖と信じることができない」
それを聞いたナルユメは、ますます彼の意図が分からなくなっていた。思ったより痴呆が進行していたかと、本気で心配し始めた。
「じゃあ、今特徴を教えてくれたらええやんか」
「駄目だ」と即答する父。「それは教えられん」。ナルユメは思わず「なんでやねん」とありふれた反応をしそうになったが、そこは慎んだ。
「それも理由があるんか?」
ナルユメがそう問うと、父は珍しく言い淀んだ。険しい顔が更に険しくなる。
「……ある。だが、それも言えない。だが、お前がそれを見つけた時、必ず儂の意図が分かるはずや」
「うーん、よく分からんよ。親父。盗まれたらやばい、大事なものなんやろ。それを探すのに、なんでそんな謎解きみたいなことをせんなあかんのよ」
ナルユメの意見は、誰が見ても正しかっただろう。しかし父は、厳かな顔を崩さないと同時に、自身の要求を貫くつもりのようだった。しばらくの問答の後、逆ハの字にしかめていた父の眉が、だんだん瞳と平行になってきた。少し寂しげに、父は言った。
「なあ。儂はお前に何か頼みごとをしたことはなかった。父という者、頼られることだけが唯一の取り柄だからな。しかしな、これだけは頼ませてくれ」
そう言って父はナルユメに向かって頭を下げた。「お前自身が、蝶舞の錫杖を探しだしてくれ。その答えは、その時必ずわかる」彼のそんな姿を見るのはナルユメにとって初めてだった。
「ちょっと待ちいや。そこまでせんでも」
ナルユメの制止にも動じず、父は頭を動かさなかった。もう訳が分からなかったが、要求を呑むしか道はなさそうだった。
「……そこまで言うなら分かった。俺も捜索チームに入るわ。だから頭を上げてや」
ようやく頭を上げた父は、我に返ったのか、小さく「すまんかった」と呟いた。
「ただし、ちゃんと俺が見つけてきたら、そん時は種明かしちゃんとしてや」
そうナルユメが言うと、ジュントクは少しだけ笑った。そんな表情をしたのは、いつ以来だっただろうとナルユメは思った。
「……分かった。すべて終わったら、必ず教えてやろう」
そうして父は再び床に着いた。話すにも体力を使うようで、会話を始めた時よりも少し疲れて見えた。
眠りについた父を眺めながら、ナルユメは彼の要求の真意を睨んだ。しかしいくら睨んでも、そこにはあの懐かしい宵山の光景が浮かぶだけだった。
「宵山かあ……。いつぶりやろ」
〇
「とまあ、こんな変な会話を先週したわけやねんけど」
イヌマキがあたりを見ると、その喫茶店にはもう三人しか客はいないようだった。ナルユメの話を聞いている間、集中しすぎたと思っていたが、そういうわけでもないようで、時間にして十分くらいしか経っていなかった。皆、屋台の始まりに合わせて店を出ていったのだろう。すっかり冷気を失った紅茶をコップで揺らしながら、ミツメは言う。
「お父様の意図も未だ分からないのね。というか、そんな大切なことを言い忘れてたなんて。しっかりしてくださいよ」
「お前には言われたくないな」
そんな会話を聞きながら、イヌマキはナルユメ父が言ったある言葉が引っ掛かっていた。『ナルユメ以外が見ても、それが蝶舞の錫杖であると信じない』。小さく言い争う二人を制止して、その旨を伝えるイヌマキ。
「確かに、親父と話してて、そこが一番意味が分からんかった」
「ものすごいスピリチュアルパワーで、ナルユメ一族にしか見えないようになってるとか?」とミツメが言う。「じゃあどうやって部外者が盗むねん」と反論するナルユメ。
「予想外の見た目をしているということでしょうか」
「まあ、それが一番現実的な理由やろうなあ」と、ナルユメは大通りの往来を眺めながら言った。「それでも意味不明なことは多いがね」
だんだんと慌ただしくなってきている路肩が、祭りの始まりを実感させる。
「捜査はかなり難航しそうね」
ミツメが苦々しく言った。しかしナルユメは、心配には及ばないと言った表情で話す。
「大丈夫や。言ってなかったけど、実は助っ人を用意してる。祭り開始と同時に待ち合わせの予定やから、楽しみにしておくように」




