月掴
午後四時五十二分
―……ドンドンドン
不意に、イヌマキが持たれかけていた壁が、規則的な音を立てて振動した。思考の沼にはまっていたイヌマキは、思わず後ろを振り向く。……何もいないことを確認し、束の間の安堵を感じたのち、彼女に別の恐怖が襲う。
―本から目を放してしまった……。
イヌマキは恐る恐る視線を戻し、手元に目を向ける。手の感触でもうわかっていたことではあるのだが、自身の目によって改めて確認する。
―無くなってる。本が盗まれてる……。
先ほど考えていた出来事が、今自分の目の前で起こったことにすくみ上りそうになったが、何とか正気を保ち、急いで立ち上がる。すぐに隣の部屋に報告しに行かなければと、部屋の扉の方を向いたイヌマキは、金縛りにあったように動けなくなった。四歳くらいの男の子が、じっとイヌマキを見ている。その顔に表情というものは無く、無表情に近かったが、はっきりとイヌマキに対する憎悪が感じられた。何をするでもなく、ただひたすらにイヌマキを見る。
「あ、その、……ごめんなさい」
その尋常ならぬ雰囲気に、彼女は思わず謝罪の言葉を漏らす。今すぐイチジョウたちを呼ばなければならないのに、大声が出せず、足も動かない。
午後四時五十四分
どれほど見つめ合っただろうか。時間にしては一分ほどであったが、イヌマキにとっては永遠に近かった。男の子は、足を一歩踏み出し、イヌマキに近づく。それに気づいた彼女が、無意識に後ずさりをし、隣の部屋に走り出そうとする。
その瞬間、男の子は勢いよくイヌマキに飛び掛かった。先ほどの無表情は消え、般若の如く歯をむき出しにした恐怖の形相で襲い掛かる霊の姿に、イヌマキは死を覚悟した。
―もう終わりか……。ごめんなさい、みなさん……。
……。
『こんなつまらん物を読むな!』
不意に、イヌマキの耳に一人の男の声が響いた。その声はイヌマキにとって、思い出したくないものの一つだった。
―……あぁ、こんな時に思い出すのがこれか……。走馬灯ってこんなものなのかな。
……。
―不意に、イヌマキの視界に炎が揺らめいた。一瞬、彼女は走馬灯がついに視覚にも表れ始めたのかと思ったが、勢いよく部屋の隅に突き飛ばされる男の子の霊を見て、正気を取り戻した。
午後四時五十二分
イヌマキと『火車』の敵対の約一分前。
―ドンドンドン
ミツメが蹴った部屋の壁が、規則的な音を鳴らして揺れる。
「これで気を引けたかしら」
「……おそらく問題ないだろう」
イヌマキの報告があまりにも遅すぎるということで、一同に不安がよぎっていた。イヌマキが恐怖し、隙を見せるタイミングを失ってしまったと考えたミツメは、物理的に気を引くことによって、イヌマキの隙をこちらから作ってやる作戦を実施した。
「そろそろ、本が盗まれている頃ではないか?」
隣の部屋に耳を澄ましていたニノツキが言う。
「そうだな、そろそろ準備しよう。厄介な奴と想定される。久しぶりに、あれを使おう」
そういうとイチジョウは自身のバッグから木刀を取り出し、“準備”に取り掛かった。
午後四時五十五分
イヌマキが炎が揺らめいた方を見ると、そこに立っていたのはイチジョウだった。
「遅くなってすまない。よく引き付けてくれた」
「あ、え? え?」
極限の緊張から解き放たれたイヌマキは、その場にへたり込みそうになるが、すんでのところで耐える。まだ作戦は終わっていない。イチジョウの持つ木刀を見ると、刀身がメラメラと燃えていた。
「これは木刀に度数の高い日本酒を染み込ませ、発火させた刀、『月掴』だ。こうすることで霊体に物理的なダメージを与えられる」
『月掴』を構え直し、部屋の隅に追いやられた火車の元へ一気に間合いを詰めるイチジョウ。しかし、振られた刀身が彼に当たる直前に、火車は部屋の外へ逃亡してしまった。
「イヌマキちゃん! 大丈夫だった?」
「なんたる勇気、なんたる活躍!」
遅れてやってきた他メンバーたちに称えられながら、イヌマキはその場に座り込んだ。
「こ、怖かった……」
『火車』に飛び掛かられた際の恐怖は彼女の人生において最高出力で提供された恐怖であり、今になって「あれはなんだったのだ」と思えてくるような訳の分からない感覚であった。
「心配しないで、もう一人じゃないから。だからもうひと頑張りしましょう」
「は、はい……」
そういって立ち上がりながら先ほどの出来事を反芻しながら、襲われる瞬間に聞こえてきた男の声も再生されていた。
―こんなつまらん物を読むな。
心の最奥に閉じ込め、重い蓋をして閉じ込めようとしていた記憶が、鮮明に思い出されてしまった。




