ヴェルヌ街の殺人(漆黒)
午後三時五十四分
イヌマキが『読書擬き』を始めてから、およそ十分ほどが経過した。現在は七ページ目。あまりあからさまに隙を見せると怪しまれる可能性があるため、イヌマキは慎重にそのタイミングを考えた。
―そろそろ、一回目の隙を見せようかな……。
『小さい子は意外に鋭いわ。それは知能の問題じゃなくて、動物的な感覚が強いから。だからこっちも本気で騙しに行かないと、こっちが少しでも攻撃的な雰囲気を出したら、すぐに気づかれるからね。イヌマキちゃんも慎重にやって頂戴』
イヌマキの頭に、ミツメの言葉がよぎる。
―いや、まだ駄目だ。本当に疲れた時まで待とう。
そうして再び、イヌマキは文庫本の黒い線に集中した。
―それにしても、ただの黒い線を目で追うのが、こんなにも退屈だなんて。私が読めない言語でもいいから、何か文字が書かれていたら、どれだけ楽だろう……。
午後四時三十分
イヌマキが『読書擬き』を始めてから、おおよそ四十分が経過した。
「……少し遅くないか」
隣の部屋で待機しているイチジョウが言った。直接の危害を加えてくる霊たちは撃退できたため、彼は特別にイヌマキを単独行動させることを許可していた。『一人の方が攻撃されやすい』という条件を鑑みた上での決定でもあった。
「イヌマキちゃん、慎重にやってくれてるんだわ。霊も盗む隙が無ければ無いほど、その怒りは大きくなるはずよ」
「それはそうだが……」
イヌマキ単独で行かせてしまったことに、イチジョウは少し心残りがあるようだった。自分が行けばよかったのでは、何も一人にする必要はなかったのではないかと、不安が彼の頭を掠める。
「なあに、リーダー。珍しく不安そうじゃない」
思い悩むイチジョウを見て、ミツメが言った。
「……別に普通だが」
「正直に言えばいいじゃない。イヌマキちゃんが心配だって」
「……」
これ以上反論しても意味がないと思ったイチジョウは黙り込む。彼は嘘が下手だった。
「とにかく、イヌマキちゃんを信じましょう。ああ見えて、意外と根性あるタイプだと思うのよ、彼女は」
「まあ、そうだな」
彼女は隣の部屋にいる。いざとなればすぐ助けられる。そう自分に言い聞かせ、イチジョウはいつもの調子に戻った。
「したたかで思慮深い……。何と頼もしい後輩だ! 一年生の時のミツメ君を思い出す」
隅で項垂れていたニノツキが、いきなり顔を上げて叫んだ。
「そうでしょう?将来は私みたいになるかも」
ミツメも、いい気になって答える。
「……それだけは勘弁してくれ」とイチジョウ。
「ちょっと! それは酷くない?」
午後四時四十分
作戦開始から一言も聞こえてこなかったニノツキの声が隣の部屋から聞こえてきて、イヌマキは安心した。
―よかった。いつもの調子にもどってる。
イヌマキが『ヴェルヌ街の殺人(漆黒)』を読み始めてから、一時間が経過しようとしていた。一定の間隔でページを繰り、時折前のページを読み返したり、同じ一文を理解のために反復するふりをしたりと、違和感のない読書を心掛けている。
―そろそろ、隙を見せようか……。いや、まだかな。
イヌマキは、隙を見せるタイミングを吟味している。しかし正確に言えば、彼女はその行為を行うことを恐れていた。盗まれた瞬間に、イチジョウたちのいる隣の部屋に行けばよいと分かっているのに、なかなかその決心がつかない。おそらく、間接的ではあれども、イヌマキを標的として攻撃されることに、内心恐怖しているのだと自分でも分かっていた。無理を言って同じ部屋でやらせてもらうべきだったか、ニノツキに任せるべきだったか……。考えれば考えるほど、イヌマキは隙を見せることを踏みとどまった。
―怖い。改めてよく考えたら、この本が目を離した隙に消えてしまうというのは怖い。その時、私に霊が接近してくるってことだよね……。見えちゃったらどうしよう……。目が合ったらどうしよう……。駄目だ! こんなこと考えたらいつまでもこの本から目を離せなくなる! 思い切って隙を見せようか? 嫌駄目だまだ駄目……。でも、この一歩が踏み出せない……。




