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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
RECORD/17

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残響

記録コード:019被験体識別:19番(男性)位置:区画B-7〜DEEP通路〜第7区画境界目的:情動的判断と自己犠牲傾向の観測備考:断続的なデータ欠損あり。映像ノイズ強。


——再生を開始する。

冗談を言えば、怖さは薄まると思っていた。口を動かしていれば、沈黙が来ないから。沈黙が来たら、自分の呼吸の乱れが聞こえてしまう。笑っていたかった。璃子の前では、特に。


今日、偶然同じチームになった。それだけの縁なのに、なぜか初対面の気がしなかった。彼女の笑うタイミングや、驚いたときの肩の動きが、昔どこかで見たような気がした。思い出せない。でも、懐かしい。そして、あの無表情な男——17番。感情が薄いようでいて、目の奥だけが鋭い。何を考えているのか分からないが、頼りになる。そんな人間がいちばん危ういと、どこかで知っていた。


「俺がリーダーやるから」最初にそう言ったのは、勢いだった。少しでも自分が主導していれば、彼女が不安にならないと思った。それに、かっこつけたかった。けれど、時間が経つにつれて、自分が操縦しているつもりで、実は何かに導かれているような気がしてきた。


照明が落ち、音が遠ざかる。彼女が袖を掴む。その小さな力に、安心した。人の体温は、冷たくても温かい。17番の指示は正確だった。まるで、すでにこの状況を知っているように。(この人、本当に参加者か?)そう思ったとき、彼の目がこちらを見た。目が合った。何も言われていないのに、「余計なことは言うな」と言われた気がした。


——訓練なんだろ?そう言い聞かせて歩く。壁のパネルに触れると、体温を吸い取るように冷たい。背後で璃子の靴音が少し遅れる。振り返ると、彼女の頬が青ざめていた。「大丈夫?」と聞くと、無理に笑ってうなずいた。その笑顔が痛々しかった。


ホールに出たとき、俺は一瞬だけ、この空間が好きになった。白い光と、テーブルの整然とした並び。秩序のある世界。俺はそういう場所に弱い。でも、ケースの中の白い結晶と、その底に滲む赤を見た瞬間に、全部壊れた。「これ、本物じゃないよな」誰に言うでもなくつぶやくと、17番がメモを拾い上げ、光に透かした。《貼るだけでは、足りない》意味が分からなかった。ただ、直感的に「嫌だ」と思った。


非常扉の前で、EXITとDEEP。どちらも出口に見えた。どちらも間違いに見えた。俺はEXITに手を伸ばした。誰も止めないと思っていた。だが、17番がその手を掴んだ。「空気、逆流してる」確かに、冷気が頬を撫でた。それでも、押したかった。怖いから。怖さをごまかすには、何かを動かさなきゃいけなかった。


DEEPの扉が開いたとき、青白い光が流れ出た。璃子が「三人で行きましょう」と言った。その声がきれいだった。怖さが少しだけ薄れた。17番が先を歩き、俺が後に続く。通路はまるで体の中を歩いているみたいで、壁が脈を打っていた。


——訓練だ。そう思えたのはそこまでだった。


温度が上がり、息が熱い。シールが腕の中で疼く。貼った部分の皮膚が痒く、熱を帯びてくる。璃子が「温かい」と言った。その声に、少し安心した。同じことを感じている。それだけで人は落ち着ける。でも、次の瞬間、天井から音がした。“接触判定:未完了”音声が冷たく響く。カウントが始まった。数字が減る。俺は、笑えなくなっていた。


(未完了ってなんだよ)腕が焼けるように熱い。シールが光る。脈が速くなる。璃子が立ち止まっている。17番が叫ぶ。「走れ!」体が動かない。空気が重く、肺に入り込まない。(動け、動けよ!)力を振り絞って、璃子の背中を押した。その瞬間、世界が白く弾けた。


——訓練は、ここまでだったのかもしれない。だが、まだ終わらない。


光の中で、誰かが名前を呼んだ気がした。聞き取れなかった。次に目を開けたとき、俺はひとりだった。




目を開けると、暗闇だった。音がない。呼吸の音も、自分の心臓の音も、どこか遠くで鳴っているように感じた。床は金属ではなく、柔らかい。手を伸ばすと、布のような感触がある。だが、冷たい。光が一筋、遠くで瞬いた。(まだ訓練中か?)その考えだけで、わずかに落ち着いた。もし訓練なら、ここにもカメラがあるはずだ。観察している誰かがいるはずだ。そう信じるしかなかった。


立ち上がると、足元に液体が流れていた。濃い赤。血だと分かるまで数秒かかった。だが、痛みはない。自分のじゃない。背後に誰かが倒れている気配。振り向くのが怖かった。


「璃子……?」

声が出た。返事はなかった。暗闇の中、懐中灯のような光がふっと点く。白い光の中で、床に広がる血痕が見えた。細く続いて、壁際へ消えている。そこには、誰かの腕があった。貼られたシールが光を反射している。俺のじゃない。17番でもない。誰のだ?


腕を見下ろすと、シールが反応した。中心のジェルが赤から白へと色を変える。反応の意味は分からない。訓練の仕様書にも、そんな説明はなかった。「何なんだよ、これ……」

声が震える。音が壁に反響して、自分の声が他人みたいに響く。


通路の先で、かすかな呼吸音がした。近づく。照明が一瞬だけ点き、17番の背中が見えた。彼は壁に背をつけ、目を閉じている。血の跡が袖を伝っていた。「おい!」

駆け寄ると、彼が目を開けた。視線が焦点を結ぶまでに、数秒かかった。「……生きてるか」

「かろうじて」彼は短く答えた。声がかすれている。「璃子は?」「……先に行った」

その言葉が信じられなかった。あの状態で動けるはずがない。「どういう意味だ」

「行ったんだ。向こうに」彼の指が、奥の暗闇を指した。そこには白い光がかすかに滲んでいる。


俺は彼の腕を掴んだ。「何が起きてる?」彼はゆっくりと息を吸った。「訓練じゃない。これは——」

そこまで言って、言葉が切れた。天井のスピーカーから音がした。低いノイズの奥で、電子音声が混じる。“第7区画・被験体反応、継続観測中。”


俺の背中が冷たくなる。「観測……?」「そうだ。俺たちは、見られている」彼の声がやけに静かで、現実味を持たなかった。「じゃあ誰が……?」

「知らない。だが、誰かがデータを取っている。俺たちがどう反応するかを」

「人間の反応を……?」

「違う。適応の反応を」


言葉の意味を理解する前に、照明が赤く染まった。通路の奥で何かが動いている。薄い人影。歩幅はゆっくり、まっすぐこちらに向かってくる。影の腕に、何枚ものシールが貼られていた。「なあ、あれは——」「近づくな!」17番の声が鋭く響いた。俺は反射的に後退する。影の足が床を引きずる音。空気の中で、光が点滅する。


「逃げろ!」

彼の叫びで体が動いた。足が床を蹴り、全力で走る。後ろで金属が裂ける音。何かが倒れる。走りながら、息を吸う。喉が焼けるように痛い。肺が火照って、視界が揺れる。


(これが、訓練の終わり方か?)走り続けた先に、白い扉が見えた。EXIT。俺は取っ手を掴んで引いた。動かない。鍵がかかっている。背後の音が近づく。壁に反射する赤い光。振り向く勇気がない。「開けろ……頼む、開けてくれ!」扉を叩く。指の骨が痛む。そのとき、耳元で声がした。「貼るだけでは、足りない」


息が止まる。振り向くと、誰もいなかった。でも、腕のシールが光り始めた。赤く、そして白く。皮膚の下で熱が広がる。呼吸が整い、痛みが消える。力が湧いてくる。怖さが薄れ、思考が澄む。(これが……適応?)


背後の音が止まった。空気が静かになった。俺はもう一度、扉に手をかけた。今度は軽く開いた。光が流れ込む。中は真っ白な部屋。中央にテーブルがあり、上に小さな装置が置かれていた。「録画装置……?」近づくと、画面に文字が浮かぶ。《記録を開始しますか》「……なんだよ、それ」指が勝手に動く。ボタンを押す。画面が光り、赤い点が点滅する。その瞬間、背後の扉が閉まった。音が響き、部屋が密閉される。


再び、声がした。“第7区画・記録開始。被験体識別:19番。”


光が強くなり、視界が白に染まる。自分の名前が思い出せない。だけど、なぜか安心していた。(これで……彼女たちは、出られる)胸の奥で、そう信じた。


光の中は、音がなかった。どれくらい時間が経ったのか分からない。目を開けているのに、何も見えない。空気が薄く、呼吸のたびに肺の奥が冷たくなる。白い空間に立っている。床も壁も分からない。自分が動いているのかどうかも分からない。


視界の端に影が現れた。輪郭の曖昧な人影。ひとり、ふたり、三人。近づくにつれて、顔が見えた。璃子、17番、そして——俺。鏡のように、もうひとりの自分が立っていた。(幻覚?)「これが訓練の仕上げかよ」声を出しても、反響しない。三人の影は微動だにせず、同じ方向を向いていた。白い空気の向こうに、細い線のような裂け目がある。そこから、青い光が漏れている。「出口……か?」足を動かす。靴音が響かない。体が重くない。浮いているような感覚。裂け目に近づくと、光が広がる。


その瞬間、頭の中に声が流れ込んだ。「理解は感染する」(誰だ)「あなたは選択した」声が重なって聞こえる。男でも女でもない。無数の声が一斉に話している。「観測されることを受け入れた。それが適応」「俺は……被験体じゃない」「違わない。あなたは自分で記録を始めた」


視界の中で、装置が浮かび上がる。赤いランプが点滅している。俺が押したボタン。その記録がまだ続いている。「止められるのか」「止めることは、消えること」「残すことは?」「感染を広げること」


考える。何を選ぶべきなのか。璃子が笑っていた顔を思い出す。あの短い時間でも、守りたかったものがあった。もし俺がここで“残す”ことで、誰かが同じ過ちを繰り返すなら、それでもいい。生きた証が残るなら。


「記録を……続けろ」口に出した瞬間、胸の奥が熱くなった。シールの跡が光り、皮膚の下に白い線が走る。全身を包むような感覚。体が崩れていくのではなく、溶けていくようだった。肉体の境界がなくなり、光の粒に変わる。意識が薄れていく中で、誰かの声が聞こえた。「これで、彼女は救われる」(誰が言った?)答えは返ってこなかった。


最後に見たのは、白い世界の奥に浮かぶひとつの影。璃子だった。彼女は静かにこちらを見て、唇を動かした。ありがとう。その言葉が聞こえた気がした。


視界が消える。光が沈む。赤い点がひとつ、暗闇に残った。——RECORDING。

記録コード:019終了被験体識別:19番(男性)状況:第7区画にて自己記録完了行動評価:自発的記録、自己犠牲傾向強備考:観測データは継続的伝播反応を示す。


観測記録より——


記録は意志であり、意志は感染する。19番は、観測対象から観測者へと変化した。これ以降の記録は、区画外で自動生成される。


——理解の輪が広がる限り、観測は終わらない。

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