指先の温度
記録コード:018被験体識別:21番(女性)位置:区画B-廊下〜B-7準備室〜中央ホール目的:情動下における判断の偏りを測定備考:映像ログに欠損。音声と生体データの揃いは良好
——再生を開始する。
最初は、ぜんぶ“よくできた仕掛け”だと思っていた。照明が落ちるタイミング、空気のひんやりした感じ、壁を伝う金属の匂い。こういうの、好きだった。怖いのは嫌いだけど、怖がっている自分を笑えるのは好きだ。終わったあとに写真を撮って、「けっこう平気だったよ」って言うの。
今日のチームは三人。先頭は晃さん。声が大きくて、早口で、でも言葉の最後が少し照れて上ずる。真ん中がわたし。最後尾は17番の人。最初に名前を聞いたはずなのに、呼びにくくて数字で呼んでいる。彼は静かで、笑わないけど、足音も呼吸もきれいに揃っているから、不思議と安心した。
——訓練です。そう説明された。制限時間は三十分。時間の砂が落ちていく音は聞こえないのに、心のどこかでさらさら流れていくのが分かる。
「俺が先、任せて」晃さんが振り向いて親指を立てる。明るいジェスチャー。緊張してるの、わかる。だから、同じ明るさで返した。「頼りにしてます」
非常灯がまた瞬いた。五秒、七秒、六秒。バラバラ。——演出が細かい。そう思った。
廊下の奥から、金属の上を靴が擦る音がした。訓練の“役者さん”かな、と一瞬思う。だけど音の途中で、吸いすぎた空気が喉に引っかかるみたいな、ぎこちない音が混ざった。胸がきゅっと狭くなる。(本当に、苦しいのかな)
言いかけて、やめた。晃さんが振り返って、「こっち、大丈夫」と笑う。わたしも笑う。笑っている間は、だいじょうぶだから。
17番は、笑わない。でも、声を荒げたりもしない。扉を覗こうとした晃さんの肩を、そっと指先だけで止める。合図みたいに短く。「覗かないで」って言葉の代わり。その仕草はやさしいのに、同時に、まるでわたしたちが“観察されている”みたいに感じて、少しむっとする。
(スタッフさん? それとも、本当にただの参加者?)どちらでもいい。いまこの瞬間は、三人でいることのほうが大事だ。
曲がり角で立ち止まる。晃さんが手を上げる合図。覚えたての合図。すこしカッコつけてる。そういうの、嫌いじゃない。17番の人が床の反射で先の様子を読んで、「人の跡がある」と言った。わたしの鼻に、甘いような、鉄のさびのような匂いが入ってきて、足の裏が冷たくなる。
(演出だよ、きっと)
自分にそう言い聞かせて、息を吐く。長めに。「大丈夫です」って言いかけて、言葉を飲む。声にしたら、薄いガラスが割れそうで。
広い部屋に出た。テーブルと、透明のパック。中で白い結晶が、雪みたいに端に寄っている。きれいだ、と思った。それから、底のほうに小さな赤を見つけて、指先が一度だけ震えた。「これ、ほんとに使うやつ?」誰にともなく問いかける。返事はない。代わりに17番の人が落ちていたメモを拾い、光に透かしてから、ポケットに入れた。表面のインクは流れている。でも、紙に残った凹みが読めた。
——貼るだけでは、足りない。
意味を考えかけて、やめる。意味を考えると、いろんな想像が来てしまうから。(誰かの血を混ぜる、とか……)頭を振る。「ないない、そんなの」晃さんが「だよな」と笑ってくれて、少しだけ救われる。
非常扉が二枚。EXITとDEEP。EXITの白い光は弱くて、DEEPの青のほうが強い。どちらも正解に見えるし、どちらも間違いに見える。わたしは左腕の袖をそっとまくった。シールの中心が、青紫に光っていた。呼吸のタイミングに合わせて微かに脈打つ。体の内側が外に出てきたみたいで、怖いより、少し恥ずかしい。
「どうする?」わたしが言うと、晃さんが「押せば終わる」と言った。終わる。いい言葉。ゴールの向こうに、明るい廊下と、スタッフの笑顔がある。そうであってほしい、と心から願った。
17番が、EXITに近づいた晃さんの手を軽く止める。「空気、逆流してる」言われて初めて、扉の隙間から冷たいものが頬に触れていることに気づく。匂いがしない冷たさ。無臭の恐怖。(怖い、って言ったら本当に怖くなる)だから言わないで、袖で口を押さえる。彼がDEEP側を開く。扉はあっさり動いて、細い青い道が伸びていた。知らない海の底に降りるみたい、と思った。
「三人で行きましょう」自分で言って、自分の声に驚く。晃さんが「もちろん」と答えて、先に立つ。17番も黙ってついてくる。わたしたちは三人で、同じ速度で歩くことを、ようやく覚えた。
通路は少しずつ暑くなり、息が浅くなる。壁の小さなモニターに数値が流れて、知らない単語が目に刺さる。「CO2 3.8%」——危険の手前、だと17番が短く言った。(危険って、どれくらい?)訊きたいのに、声が出ない。かわりに、手のひらが汗でぬるつくのを意識する。——落ち着いて、落ち着いて。
床に落ちていたカードキーを拾う。角が欠けていて、「B-7」と印字されている。さっき通り過ぎた扉の番号。「戻ったほうがいい?」とわたしが言うと、17番は「帰り道の点検」とだけ答えた。帰り道。いい響き。帰る場所があるって、言葉で先に作っておく。三人で戻る。わたしはカードを扉にかざす。電子音は鳴らず、がちゃ、と機械の音がした。電気じゃない、錠の音。手で開く。
中は小さな準備室。棚と、空の箱。鏡の前に、シールの予備がたくさん。妙だ。こんなに要らないはず。しかも、貼ったあとに剥がしたみたいなのが混ざっている。17番がひとつを取って光に透かす。中心の透明ジェルに、細い線が走っている。髪の毛みたいな、でも違う。褐色で、途切れ途切れ。(……血)喉がひゅっと鳴る。「演出ですよね」と言いたい。言葉が、鏡の前で止まる。鏡に映ったわたしたちは、今日出会ったばかりの三人に見えなかった。少しずつ、同じ動きを覚えた三人に見えた。それが、心強いのか、怖いのか、わからなかった。
「閉めよう」17番の声で扉を閉める。鍵はかけない。閉め際、部屋の奥でカサと音がした。紙とプラスチックが擦れる乾いた音。「いまの——」と晃さん。「風」風はない。でも、風ってことにしておきたい夜もある。
廊下に出たら、灯りが一度だけ全部消えた。真っ暗。晃さんの手が空を探して、わたしの指先に触れて、すぐ離れた。すぐ離れたのが、良かった。触れ続けたら、立っていられなくなる気がしたから。灯りが戻る。EXIT/DEEPの光がこちらを見ている。呼吸を合わせる。三人の息が、同じ長さになった。
(終わったら、名前で呼び合おう)口に出しかけて、飲み込む。終わらないかもしれないことって、口にした途端、近づいてくるから。わたしは袖をまくり、シールをもう一度見た。中心の光が、青紫から少し白に近づいていた。痛くない。だけど、体の奥の温度が、ほんの少し変わった気がした。
遠くで、扉の向こうが息を吸った気配がする。「行こう」わたしが言うと、ふたりの足が同時に前へ出た。同じ方向へ。
DEEPの通路は長く、光の奥で揺れているように見えた。温度が上がり、汗が背中を流れる。歩くたび、靴底のゴムが床に貼りつく音がする。訓練だとしたら、少しやりすぎだと思う。けれど、誰もその言葉を口にしなかった。
晃さんは前を向いたまま、何かを考えているようだった。時々、口が動くけど、声にはならない。17番の人は後ろで静かに歩く。三人の足音が、一定の間隔で響く。まるで時間の単位を刻むように。
通路の壁に貼りついたポスターが剥がれかけている。「安全第一」「訓練の成功は協力から」。その文字が薄れて、最後の一行が判別できない。指で触れると、紙が湿っていた。湿度が高い。空調が止まっているのだろう。
「もうすぐ出口ですよね」
声に出してみた。誰も答えない。自分でも分かっていた。ここに“出口”なんて、まだない。
照明の先に扉が見える。ガラスの向こうに白い影が動いた。晃さんが足を止める。「誰かいる?」と呟く。近づくと、それは反射だった。鏡のような強い光を返すパネル。そこに映るのは、三人の姿。
でも、少し違う。わたしの動きと映像の動きが、ほんの一瞬ずれている。晃さんが眉をひそめる。「なんだこれ……カメラ?」「モニターじゃない。映してる側が、遅れてる」 17番の声が響く。彼の声は、今まででいちばん低く、落ち着いていた。
パネルの下に、小さな端末が埋め込まれている。画面には英数字が並び、中央に点滅する単語があった。RECORDING。録画中。(撮られてる?) そう思った瞬間、背中が冷たくなる。
「これ、スタッフ用の記録でしょ? 安全確認のやつ」
晃さんが自分に言い聞かせるように言う。「そうだといいですね」口が勝手に動いた。言ってから、音が乾いて落ちた気がした。
通路を進むと、奥の壁に“再装着ステーション”と書かれたプレートがあった。白い台、シールの予備、空の瓶。「ここで交換するんじゃない?」
そう言って袖をまくると、シールの中心がもう白くなっていた。ほんの少し、皮膚が痒い。「痛い?」と晃さん。「いえ……変な感じがします。温かいというか」
17番が近づき、わたしの腕を見た。「中で反応してる。液が血と混ざる構造だ」理屈を言うその声が、かえって怖かった。
「剥がしたほうが——」
言いかけた瞬間、天井から短いアラーム音が鳴った。乾いた電子音。**“接触判定:未完了”**という合成音声。(未完了? なにが?)晃さんが辺りを見回し、「これ、誰かが押したんじゃ……」と呟く。17番は無言で端末に目をやる。数字のカウントが始まっている。30から、29、28——。
時間が減る。訓練なら、誰かが止めてくれるはずだ。誰も止めない。「戻る?」自分の声がかすれる。「どこへ」晃さんの答えは短かった。
カウントが10を切る。足が動かない。腕のシールが熱を持ち、中心が赤く脈打つ。指先がしびれる。晃さんがわたしの肩を押す。「走れ!」走れない。足が床に貼りついたみたいだ。17番が背中を押す。その力で前に倒れ、床を滑るように進む。カウントが1で止まり、音が消える。静寂。
振り返る。誰も倒れていない。三人とも息をしている。だけど、通路の入口が——閉まっていた。自動で降りたシャッター。金属のきしむ音が遅れて届く。「閉じ込められた?」
「区画封鎖だ」17番の声は冷静だが、呼吸が早い。晃さんが扉を叩く。「誰かいるだろ! 聞こえてるだろ!」
返事はなかった。かわりに、天井のスピーカーから別の音がした。“第7区画、適応試験フェーズ移行”——訓練の言葉ではない。「適応……?」自分で口にして、意味がわからなくなる。
空気がまた動いた。冷たくて、粘っこい。袖を押さえた手の下で、シールがじんわりと熱を放つ。皮膚の内側に、何かが広がっていく。(貼るだけでは、足りない……)
わたしは無意識に、腕を抱え込んだ。もう訓練だとは思えなかった。でも、信じたかった。信じていた間だけは、笑っていられたから。
通路の空気が重い。壁の金属が呼吸しているみたいに、かすかに膨らんだり縮んだりしていた。照明の光が赤みを帯び、薄い霧のようなものが漂い始める。晃さんが袖で口を覆う。17番が背後を警戒していた。
「これ以上進むのは危険だ」と17番が言う。その声の落ち着きが逆に怖かった。晃さんが首を振る。「ここまで来て止まれないだろ」
「止まるんじゃなくて、生きる方法を探す」
ふたりのやり取りを聞きながら、わたしはシールの熱を押さえていた。皮膚の下で何かが脈を打つ。心臓とは違うテンポ。じわじわと体の奥に侵入してくるような感覚。怖いけれど、体が拒絶しない。不思議な安心感がある。まるで、馴染んでいくみたいに。
通路の端に、ガラス越しの部屋が見えた。中にはモニターが並び、誰もいない椅子が三つ。中央の画面に、私たちの姿が映っている。上のテキストが点滅する。「観測対象:確立」。
晃さんが拳を握った。「やっぱり見られてる……! これ、遊びじゃねえ」
わたしは頷くこともできず、ただその画面を見ていた。映像の中の自分たちは、ほんの少しだけ動きが遅れていた。ほんの一瞬の遅延。それなのに、その遅れが、ものすごく気持ち悪かった。
17番が壁の端末を叩く。「データ出力ポートだ。記録を抜けるかもしれない」
「そんなの後でいい!」晃さんが怒鳴る。「今は出よう!」
ふたりの間で視線を揺らしながら、私は言葉を探した。「出られるんですか?」
沈黙。17番の口が固く結ばれる。
その時、頭上のスピーカーから声がした。
“第7区画・適応反応を確認。封鎖を継続。”
電子的な声。なのに、どこかで聞き覚えがある。訓練前に説明をしていたスタッフの声に似ていた。だが、抑揚がない。録音された音声のように、冷たく響く。
晃さんが壁を殴った。「ふざけるな! 開けろ!」
拳の跡に、赤い汚れがついた。血ではない。さっきの粉——細かい結晶が混ざっている。皮膚の表面で融けて、線のように伸びていく。わたしは思わず彼の腕を掴んだ。「もう、やめて!」
彼が振り返る。その目に、さっきまでの晃さんはいなかった。黒目が淡く濁って、呼吸が荒い。
「……熱い」
声が震える。腕のシールのあたりが赤く光り始めた。中心から白い光が広がり、皮膚に染み込むように沈んでいく。17番が駆け寄り、腕を押さえる。「外すな! いまは我慢しろ!」
「外さなきゃ……燃える!」
晃さんの声が叫びに変わった瞬間、彼は力任せにシールを引き剥がした。皮膚が裂け、血が一筋飛んだ。そこから細い線が走り、光が通路を照らす。赤と白が脈動している。眩しさに目を細めた。
「止めて!」
私の声が響く。晃さんは膝をつき、呼吸が浅くなる。腕の跡が白く変わっていく。皮膚の下で何かが動いている。心臓ではない別の何か。生き物のような、機械のような。
17番が袖を引いた。「走れ」
「でも——」
「彼は、もう」
言葉の途中で、晃さんの手が動いた。ゆっくり、わたしの方を指さす。その顔は苦しそうなのに、笑っていた。
「……行け」
その声が最後だった。彼の体が静かに崩れ、腕のシールだけが明滅していた。白い光が一度だけ強く瞬き、消えた。
わたしは動けなかった。17番が肩を引いて、ようやく立ち上がる。二人で通路を走る。背後で何かが崩れる音がした。振り返らない。涙が滲んでも、光が滲むだけで涙の温度がない。もう何も感じないように、心が閉じていくのが分かった。
先に見える非常扉。白い表示が揺れている。EXITと書かれているけれど、文字が途中で消えて「EX…T」になっていた。(出口は、ほんとにあるの?)息を切らしながら近づくと、端末が自動で点灯した。画面に文字が浮かぶ。《被験体021 適応率:84%》「……適応?」17番が扉に触れる。「開くぞ」
金属音が鳴り、扉がわずかに開いた。その隙間から光が溢れる。冷たくも、温かくもない光。わたしはその先に何があるか見たかった。「行こう」そう言って、足を踏み出す。背後で何かが音を立てて動いた気がしたけれど、もう振り向かなかった。
扉を抜ける瞬間、空気が変わる。音が消え、温度がなくなる。すべてが静止した世界に入った気がした。手を伸ばした先、光が形を持ち始める。三人の影。晃さんがそこに立っていた。笑って、何かを言おうとしている。だけど声は聞こえない。腕のシールが再び脈打つ。体の奥から、誰かの声が重なって聞こえた。「記録を、続けてください」
視界が白に包まれる。次の瞬間、わたしはひとりだった。
記録コード:018終了被験体識別:21番(女性)状況:第7区画にて適応反応確認同行被験体:19番(男性)消失備考:21番の適応率上昇、行動制御維持良好
観測記録より——
適応とは感染。感染とは理解。被験体021は理解を選んだ。彼女の記録は、区画17から区画7へと引き継がれる。
——観測を継続する。




