隔離区画17
記録コード:017
被験体識別:17番(男性)
訓練区分:感染対処シミュレーション/第6フェーズ
目的:被験体の冷静な判断力・行動統制能力の評価
状況:通信一部不良、時刻同期ずれ
備考:第3区画でのアラート連動テストに不具合あり
補足:当訓練は現場判断を優先するものとする
——再生開始。
照明が落ちて、足元に影が生まれた。訓練だ。そう言い聞かせるまでもなく、俺は自然と体を動かしていた。この空気、金属の匂い、人工的な湿度。全部が“作りもの”のはずだ。それでも、悪くない。久しぶりに本格的な現場型のシミュレーション。今日の俺は参加者のひとり、ただそれだけ。
三人チーム。今日初めて顔を合わせた。
声の大きい男——晃が先頭に立って笑った。「俺がリーダーな。こういうの得意なんだよ」軽い調子で言って、振り向く。その目線の先にいたのが、女性の——璃子。少し驚いて、それでも笑ってうなずいた。
俺は二人の少し後ろ、壁際を歩いていた。役割分担を決めるほどの時間もなかったが、自然と晃が指揮を執り、璃子がそれを支える形になった。俺はそれを見ているだけで楽しかった。
「タイムリミット、三十分だって」「余裕ですよね?」璃子の声が響く。「なに、楽勝だよ」晃が笑う。
最初は、それがいい空気だった。軽口が緊張をほぐし、動きも自然だった。俺も笑いそうになって、やめた。口元に力が入る。これは遊びだ。そういう顔をする必要はない。
照明が、ひとつ点滅した。まだ演出の範囲だ。驚くほどのことじゃない。でも、微妙なタイミングのずれがあった。マニュアルではフェーズBの照度調整は五秒間隔。今の点滅は七秒。誤差二秒。
偶然だ。いや、演出だろう。それでも頭の片隅に、小さなノイズが残る。
晃が端末を覗き込みながら、璃子に言う。「こっちにセンサーがある。触ってみて」璃子が指を伸ばす。タッチパネルの青い光が彼女の顔を照らす。笑っている。まだ楽しそうだ。
俺はその背中を見ながら、心の中で数を数える。——三、二、一。
警告音。短いが、音の質が違う。訓練用のスピーカー音より低く、少し湿った音。晃が驚いて「お、来た来た!」と笑った。璃子も「リアルですね」と続ける。
俺だけが、音の余韻を聞いていた。遠くからもう一つ、似たような音が返ってきた。反響ではない。別の場所からだ。
「いい感じに緊張してきたな」晃が言う。俺は頷く。
まだ、訓練だ。でも——ほんの少しだけ、楽しいという気持ちが冷め始めていた。
非常灯のリズムがまた変わった。七秒から、六、そして不規則に三。規則性が崩れた照明は、視野の端をじわじわと疲れさせる。訓練なら、ここまで視覚負荷はかけないはずだ。
晃が先に立つ。歩幅が少し大きい。見栄の入った歩き方だが、悪くない。迷いが少ないぶん、後列の判断の余白が生まれる。璃子は背筋を伸ばし、晃の肩甲骨の少し下を視線で追う。二人の間に、まだ敬語が残っている。
曲がり角で、晃が左手を上げた。止まれの合図。癖ではない、さっき覚えたばかりの合図だ。振り向いて、ところどころで言葉を探す。
「……こっち、行く?」
璃子が答える。「任せます。リーダー」
その一言で、晃の喉がわずかに鳴った。うれしさと緊張の音だ。俺は短く頷いて、角の手前で壁に掌を置く。熱はない。汗だけが薄い膜をつくっている。
先行して角を覗くのは危険だ。鏡代わりの金属プレートを腰から抜いて、床面の反射で先を読む。靴跡が三つ、折り返している。土の汚れではない。黒く、薄い。炭化した繊維が擦れた跡。最近のもの。
「どう?」璃子が小声で訊く。
「人が通った。急いでいる」
晃が冗談で逃がそうとする。「演者がサボって走ったかも」
言葉より先に、匂いが来た。甘く、鉄の薄い尖りのある、体液の匂い。演出なら、匂いはもっと露骨に作る。これは、控えめで現実に近い。
言わない。代わりに、角を回る時の順番だけを指で示す。晃、璃子、俺。晃は頷いて息を整える。璃子が袖を軽く握る。晃は気づかないふりをする。その仕草ひとつで二人の距離が半歩縮まる。良い。
通路の照明はさらに落ち、床面の誘導灯だけが細い線を描いている。数メートル先、扉がひとつ。窓は目張りされ、部屋番号のプレートが斜めに欠けていた。「B-7」——訓練の図面にはない番号だ。晃が目を細める。
「予定外、だよな」
「寄り道はしないほうが」璃子が提案する。理性は残っている。俺は二人の間に立ち、取手の隙間に耳を寄せる。中は静かだ。空調音もない。
開けない。だが、記録はとる。胸元の小型端末で、扉の周囲をなぞる。指が、ざらり、と何かを拾った。粉だ。白く、指に粘る。消毒粉末に似ているが、湿りの帯び方が違う。瓶からこぼれた粉ではなく、こすれて出た粉だ。素材が脆くなっている。
「行こう」
晃の合図で、俺たちは扉を残し、さらに奥へ。背後で、金属のきしむ音が一度だけ鳴った。振り返らない。音は追ってこない。
次の角に、監視カメラ。黒い半球のカバー。死んだ目。赤の点灯はない。訓練なら、模擬のカメラでも何かしら光る。カバーの縁を指で叩くと、乾いた音が返った。中身がない。
晃が冗談をもうひとつ出しかけて、やめた。彼の足が、少しだけ遅くなる。楽しさの熱が冷めていく温度を、後ろからでも感じる。璃子の肩が上がり、呼吸が浅くなる。俺は声を出さずに、自分の呼吸を可視化させるように胸をわずかに上下させる。二人の呼吸がそれに合い、速度が揃う。
広い区画に出た。天井の高いホール。中央に折り畳みテーブルが三つ、プラスチックのケースが開いたまま置かれている。中には透明なパック。ぴんと張った膜に、うっすらと白い結晶が析出していた。温度ショックで沈殿した何か。晃が手を伸ばしかける。
「触るな」
自分でも驚くほど低い声になった。晃が静止する。璃子は口元に手を当てた。彼女の視線が、ケースの底で止まる。そこだけ、擦れた赤が小さく点々としていた。
「……演出?」
誰も答えない。ここで答えれば、嘘になる。
テーブルの脇に、メモ用紙が落ちていた。濡れて文字は流れているが、太いペンの筆圧だけが残り、凹みで読める。光を斜めから当て、角度を変えて追う。《貼るだけでは、足りない》
晃が笑ってごまかそうとした。「脅かし文句の一種だろ」
璃子は首を横に振る。「誰かが、本気で書いた字に見える」
本気。言葉にすると空気が変わる。俺はメモをポケットに入れ、ケースを閉め、テーブルを元の位置に戻した。来た形跡を消す。訓練でも、現実でも、痕跡管理は基本だ。
ホールの奥、非常扉が二枚並ぶ。上部の表示にはEXITとDEEP。ここに来るまでに選択肢が現れるのは、少し早い。タイムラインが前倒しになっている。俺は二人から半歩距離をとり、扉の継ぎ目に指を当てた。EXIT側は冷たい。DEEP側は、わずかに温かい。向こうに空気がある。
「終わらせるなら、白だよな」晃がEXITを顎で示す。
「でも……」璃子が小さく言いかけて、黙る。彼女の視線は自分の左腕に落ちている。袖口の下、シールの中央が青紫に脈打つ。晃のも同じだ。俺のも、だ。
言わない。今は、まだ。「先に情報を集める。押す前に、戻り道を確保」
晃が肩を落とし、すぐに顔を上げる。「了解。探索、ね」
璃子も「賛成です」と短くうなずく。敬語がまだ残っているのが救いだ。感情の勢いでタメ口に崩れないぶん、理性の足場が保たれる。
ホール脇の廊下に入ると、床にカードキーが落ちていた。角が欠け、樹脂の表面に爪でひっかいたような浅い白線。印字は「B-7」。さっきの扉だ。晃が拾い上げる。
「戻る?」
「見る価値はある」
璃子が不安そうに首を傾げる。「でも、寄り道は……」
「寄り道じゃない」俺は言葉を選ぶ。「帰り道の点検だ」
B-7に戻る間、足音は三人分だけに保たれた。俺たちは、他の音を入れないように歩くことを覚え始めている。さっき拾った粉の白が、まだ床に点々と残っていた。扉にカードをかざすと、電子音は鳴らず、機械的な解除の音だけが短く響いた。電源系から独立した錠だ。
扉を五センチ開け、鼻だけで空気を嗅ぐ。冷たい。匂いは薄い。危険は、においよりも形で来る。。
中は狭い準備室だった。棚、ロッカー、使い捨て手袋の空箱。壁に簡易鏡。鏡の前に、シールの予備が十数枚、無造作に置かれている。訓練ではありえない数。しかも、貼付済みのものが混じっていた。剥がし跡の付いたシール。誰かが貼って、外して、ここに置いた。
璃子が息を吸う音が聞こえた。晃は言葉を出さない。俺は予備のひとつをつまみ上げ、光に透かす。中心のジェル層に、肉眼でわかるほど細い血糸が走っていた。乾いて、薄い褐色。偶然混入した量ではない。意図して混ぜなければ、この層に線は出ない。
《貼るだけでは、足りない》
メモの凹みが、指先に戻る。視界の端で、二人の肩が近づく。晃の喉が鳴り、璃子の指が震える。俺はそのシールをそっと元の位置に戻した。
言わない。だが、態度は示す。「ここは閉める。ホールに戻る。深呼吸はしない」
閉める前、鏡に映った三人の並びを見た。見慣れない並びだ。初対面の人間たちの、不格好な整列。でも、悪くない。
廊下に出る。扉を閉める寸前、部屋の奥で小さくカサと音がした。動物のような柔らかい音ではない。紙とプラスチックが擦れる乾いた音。扉を閉め、ノブを強く一度だけ引いて確かめる。施錠。晃が俺を見る。
「今の、何?」
「風」
風はない。嘘だ。だが、その嘘は二人を先に進ませるための重さを持っている。
ホールに戻る途中、非常灯が完全に沈み、数秒の闇が落ちた。三人が立ち止まる。闇の中で、手の位置だけが確かになる。晃の手が空を探り、璃子の指先がそれに触れ、すぐ離れる。音は立てない。その短い接触だけで、三人の呼吸が揃う。
灯りが戻る。EXIT/DEEPの表示が、こちらの迷いを見透かすように淡く点滅していた。晃が一歩前に出る。璃子が袖をつまむ。俺は二人の斜め後ろに立つ。
訓練だ。最初はそう思っていた。今でも、そう思いたい。だが、帰り道の点検で拾ったものは、訓練の語彙では説明できない。
言わない。まだ。押さない。まだ。呼吸を、合わせる。次の一歩を、同じ向きに出す。
非常扉の向こうで、何かが一度だけ息を吸ったような音がした。
俺たちは、静かに、同じ方向を見た。
非常扉の表示が明滅している。赤と白が交互に点滅し、まるで呼吸のようだ。晃は腕を組んで立ち、璃子は少し後ろで袖を握っていた。三人の間の空気が重く、言葉を発した瞬間に何かが壊れそうな静けさがある。
「押すしかないんだろ?」晃の声が低く落ちる。強がりの響きはもうない。璃子がうつむいている。俺は二人の顔を順に見て、最後に表示を見た。EXITの光は弱く、DEEPのほうがわずかに強い。まるで選ばれることを望んでいるかのように。
扉の継ぎ目から、冷たい空気が漏れてくる。匂いはない。だが、空気の圧が外から押している。誰かが外にいるような気配。呼吸のリズムを合わせ、心拍を落とす。訓練なら、こんな緊張の演出は必要ない。もう分かっている。だがまだ言葉にしない。
「俺が行く」晃が言った。璃子が慌てて袖をつかむ。「待って、三人で決めよう」
「決めたら遅い」晃は扉に向き直り、EXIT側の取っ手に手を伸ばす。その指先が震えていた。俺はその手の上に自分の手を置いた。晃が驚いて顔を上げる。「……何だよ」
「押すな」
「なんで」
「空気が逆流してる」
言い終えると同時に、扉の隙間から白い霧がわずかに漏れ出た。照明を反射して光る。冷気ではない。化学的な蒸気。訓練用の演出ガスなら甘い匂いがある。これは無臭だ。危険物質の匂いのなさほど、恐ろしいものはない。
璃子が小さく悲鳴を上げ、袖を口元に当てた。晃はその腕を引いて後ろに下げる。彼の腕の震えを感じた。俺はDEEP側の扉に体を向けた。取っ手を引く。抵抗なく開く。そこには長い通路。照明は生きている。床の誘導灯が青白く続いている。
「行くしかない」俺は言った。晃が息をのむ。璃子がうなずく。三人で一歩をそろえる。背後でEXITのランプが静かに消えた。
通路の温度が上がっている。空気が重い。壁面の計器が一瞬だけ点灯し、数値が走る。「CO2 3.8%」——限界に近い。換気が止まっている。遠くで低い唸りがした。機械の音ではなく、金属の軋み。どこかで圧力が抜けている。
晃が振り向く。「出口は?」「まだ先だ」俺の声が自分でも驚くほど落ち着いていた。璃子がポケットからメモを取り出した。あの凹んだ文字の紙。「貼るだけでは、足りない」
「……これ、どういう意味なんですか」
誰も答えない。だが、答えはもう目の前にある。腕のシール。中心の紫が赤に変わり、かすかに熱を帯びている。血管の上に貼ったはずの場所から、かすかな脈動が伝わる。
「外してみる」晃が言った。俺は止めようとしたが遅かった。彼は勢いでシールを剥がす。瞬間、皮膚の下で光が走ったように見えた。血が一滴、浮かぶ。それを璃子が見て息を呑む。
「……ねえ、これ」
晃の手首に貼り跡が残り、その中心が淡い白に変わる。感染の兆候ではない。適応のサインだ。俺は背中に寒気を感じた。訓練では再現できない変化。まるで——
扉の先から、誰かの足音。三人で一斉に顔を上げる。視界の奥、照明の境界に人影。歩幅はゆっくり、確実。手に何かを持っている。照明が当たる。手には貼付済みのシールが何枚も重なっていた。皮膚の色がわからないほど貼り重ねられた腕。その手が壁をなぞるたび、パチ、と静電気のような音がする。
璃子が後ずさる。晃が彼女の肩を支える。俺は動かない。シルエットが止まった。光の中に足だけが見える。重ね貼りのシールが赤く脈打つ。「被験体……」誰かの声がスピーカーのように反響した。人間の声ではない。無機質な調子で「被験体、識別——エラー」と繰り返す。
扉の端末が点滅した。EXIT/DEEPの表示が崩れ、「RECORD」に変わる。録画の赤いランプが点いた。晃が息を詰める。「見てるのか、誰か」
璃子が震え声で言う。「誰か助け——」
その声が終わる前に、ランプが一斉に消えた。完全な闇。音も止んだ。世界が息を潜めた。
光が戻ったとき、目の前の人影は消えていた。残っているのは床に散らばったシールと、壁に走る指の跡。赤茶の線が三つ。どれも指先から引きずるように伸びていた。俺は床のひとつを拾い上げた。シールの裏、血が乾いて褐色に固まっている。
璃子が泣きそうな声で言う。「もう帰ろう、お願い」
晃は答えない。手の中のシールを握りつぶす。俺は胸元の端末を起動した。通信エラー。記録モードのみ生きている。画面に小さな文字が浮かぶ。《記録を開始しますか》
指が止まる。録る意味はない。けれど、残すことだけが生きた証になる。「——開始」
ボタンを押すと同時に、端末が小さく光った。
赤と白がまた明滅する。呼吸と同じ速度で。今度は、区画全体がそれに合わせて息をしているように見えた。
記録コード:017終了被験体識別:17番、19番、21番状況:最終フェーズ完了行動評価:協調的、慎重、沈黙傾向備考:想定外の反応あり。適応率は計測不能。
——訓練ではない可能性が高い。三名の識別信号は同時に途絶。記録装置のみ、自己動作を継続中。端末ログによれば、最後に押されたボタンは「記録開始」。
共鳴反応、伝播。原因は——共感。
“理解は感染する”観測者、記録を終了する。




