語り部の手紙
拝啓 誰にも届かないあなたへ。
私は、ずっと誰かの恋の話を聞いてきました。
教室で、放課後の雨の音の中で、遠くの駅のホームで――
いろんな「好き」が生まれて、消えていくのを見てきた。
みんな少しずつ違う形で傷ついて、それでもどこかで前に進んでいった。
だけど、私は違いました。
誰かの恋を語ることで、自分の恋を語らないようにしてきた。
あの頃の私は、それでいいと思っていた。
誰かの涙を見て、自分が泣かないでいられるなら、それでいいと。
でも今、こうして手紙を書いている。
ようやく、言葉にできなかった“あの日”を語るために。
敬具。
夜の教室を、風が通り抜ける。
カーテンが揺れて、黒板に残ったチョークの粉が白く光った。
放課後に残るのは、決まって誰かの「話」だった。
失恋の話、うまくいかない恋の話。
私はいつも聞き役で、
ときどき軽く笑って、
「そうなんだ」「大丈夫だよ」と言葉を添える。
それが私の“役割”だった。
最初にその役を得たのは、高校の二年の冬。
友達が、好きな人に告白して振られた日の帰り道、
泣きながら「舞はいいよね、いつも冷静で」と言われた。
違うのに、と思った。
冷静なんかじゃない。
ただ、自分の恋を誰にも言えなかっただけ。
――彼がいた。
クラスの中心でもなく、でも目立たないわけでもない。
いつも、誰かに頼まれて笑ってくれるような人。
彼の優しさは、少し不器用だった。
言葉を選ぶ前に行動してしまう人。
最初は、ただ見ていただけ。
私の中では、それで十分だった。
放課後、廊下で友達が彼に話しかけて笑う。
その輪の外から、その笑顔を見ているだけで満たされていた。
でも、ある日、
私が友達の恋の相談を聞いていたとき、
その“好きな人”が、彼だと知った。
それでも、私は聞き役をやめなかった。
その日から、私は
“恋を語る人”の隣にいることで、
“恋をしない自分”を守るようになった。
言葉を尽くすほど、私は自分の感情を隠すようになった。
卒業式の日、
彼はクラスメイト全員に短いメッセージカードを配っていた。
私にも一枚。
「話を聞いてくれてありがとう。助かった。」
たったそれだけ。
でも、私にとっては、それが告白よりも重かった。
私はそれを、
手帳の最後のページに挟んだまま、いまでも持っている。
大学に進んでも、
恋愛の話を聞くのが癖になっていた。
後輩に相談され、友達に頼られ、
私はいつも“語る側”にいた。
恋の始まりも、終わりも、
他人の話としてなら、冷静に分析できた。
でも、自分の心の奥にある小さな痛みだけは、
誰にも言えなかった。
ある日、ふと気づいた。
――私、いつからか“自分の話”をしていない。
「舞って、恋したことあるの?」
後輩にそう聞かれたとき、笑ってごまかした。
でもその夜、帰り道で泣いた。
理由もなく、
まるで、忘れた痛みを思い出すように。
それから、いくつかの恋を“見送った”。
傘を貸す子。
癖を覚えた子。
遠くを見つめた子。
そして、誰かを待ち続けた子。
私はみんなの話を聞いた。
みんな少しずつ前に進んでいった。
――私は、その“背中”ばかりを見ていた。
誰かを見送ることでしか、
自分の心を確かめられなかった。
それでも、思う。
あの日あの人に言えなかった「好き」は、
たぶん、いまでも私の中にある。
誰にも届かないまま、
それでも生きている。
机の引き出しを開ける。
古い手帳が出てきた。
角がすり切れて、紙の端が少し黄ばんでいる。
開くと、あの日のメッセージカードがまだ挟まっていた。
字は少し滲んでいるけれど、
言葉は、あの頃のままだ。
「話を聞いてくれてありがとう。」
その一文を指でなぞる。
たった十三文字。
でも、その奥に、
どれほど多くの“言えなかった言葉”があっただろう。
明日、彼の結婚式があると、
共通の友人から聞いた。
会う予定はない。
行く理由も、資格もない。
でも、今日だけは言葉を残したいと思った。
誰にも読まれなくてもいい。
届かなくてもいい。
ただ、いまこの瞬間だけは、
“語り手”じゃなく、“私”として書きたかった。
拝啓 あの頃のあなたへ。
私はずっと、あなたの言葉の続きを待っていました。
でも、あなたはもう何も言わなかった。
それでも、ありがとう。
あなたが私に残したたった一文で、
私は今も、人の言葉を信じていられます。
言葉では表せないものが確かにある。
でも、それを言えるのは、
言葉の限りを尽くした者だけだと思うから。
ペンを置いた瞬間、
胸の奥が少しだけ温かくなった。
誰かの恋を語ることで、
私は自分の恋を閉じ込めてきた。
でも、いまようやく――
その鍵を開けられた気がする。
朝の光が白かった。
カーテンの隙間から差し込む光が、机の上の封筒を照らしている。
昨夜、書いたままの手紙。
宛名のないまま封もしていない。
封筒の紙のざらつきを指でなぞる。
その質感が、まるで“まだ誰にも触れられていない気持ち”みたいだった。
ニュース番組が結婚式場の天気を伝えている。
「本日、晴れ。」
言葉の響きが、少しだけ胸に刺さる。
私はコーヒーを入れて、ゆっくり飲んだ。
味は薄いのに、喉の奥が熱くなった。
時計を見る。
式の開始まで、あと一時間。
もちろん、行かない。
招待されてもいない。
それでも、どこかで同じ時間を過ごしていることだけが、
私の“現実”だった。
外に出ると、空気がやけに澄んでいた。
冬の陽射しはやわらかいのに、影がくっきりしている。
駅までの道を歩きながら、
私は手紙をバッグの奥に入れた。
行くあてもなく電車に乗る。
車窓の外、街の輪郭が少しずつ流れていく。
車内のアナウンスが、
どこか遠くの式の鐘の音みたいに聞こえた。
席に座って、
バッグの中の手紙を何度も指で確かめた。
封をしないまま持ち歩くなんて、
何をしているんだろうと思う。
でも、それを閉じた瞬間、
気持ちまで終わってしまう気がしていた。
駅をいくつも過ぎて、
降りたのは特に意味のない場所だった。
小さな公園。
噴水の水が、冬の光を受けて細かく散っている。
ベンチに腰を下ろして、
バッグから封筒を取り出す。
風が少し強くて、紙の端がひらひらと揺れた。
「もう読まれることはないんだね」
声に出すと、
思っていたよりも小さく震えた声だった。
あの人は今、笑っているだろうか。
きっと、そうだ。
優しい笑顔で。
私が覚えている笑顔と同じように。
でも、その笑顔の理由の中に、
もう私はいない。
それを、ようやく受け入れられた気がした。
バッグの中に手を伸ばし、スマホを取り出す。
メッセージアプリを開く。
そこに残っている、数年前のやりとり。
「話を聞いてくれてありがとう。」
たったそれだけの言葉。
でも、あのときの私は、その一文に救われた。
彼にとっては何気ない言葉。
私にとっては、世界を変えた言葉。
どんなに時間が経っても、
その“温度”だけは、消えない。
画面を閉じて、
代わりにカメラを開いた。
冬の空を一枚だけ撮る。
雲が薄く広がって、どこまでも遠い。
写真を見返して、
“ここにいない誰か”を想う。
私がこの手紙を書いたことも、
きっと誰にも知られない。
でも、それでいい。
言葉は、届かない場所でも息をしている。
私は封筒を膝の上に置き、
そっと封をした。
指先がかすかに震える。
インクのにおいがまだ残っている。
その匂いが、懐かしい誰かの記憶と混ざっていく。
午後になって、空が少し白く濁った。
遠くで風が鳴る。
木の枝がゆっくりと揺れて、
枯葉が一枚、足元に落ちた。
私は立ち上がり、
公園の出口にあるポストの前に立つ。
ポストの口が、
まるで時の裂け目のように見えた。
過去と今の境目。
封筒を持ち上げる。
投函しようとして、手を止めた。
「誰にも届かない手紙を、
どこに出せばいいんだろう」
そうつぶやいて、
小さく笑った。
手紙をポストに入れる代わりに、
封筒を胸に抱いて、
そのまま歩き出した。
帰り道、風が少し冷たかった。
でも、不思議と悲しくなかった。
あの頃の私は、
恋の真ん中にいなかった。
だからこそ、誰かの恋を見守れた。
そして、今。
自分の恋を見送ることで、
やっと“語り部”ではない私になれた。
家に着いて、
机の上に封筒を置いた。
部屋の空気が静かすぎて、
紙の上の影までくっきりしている。
私は、ペンを一本取り出し、
封筒の裏に一行だけ書いた。
「この手紙は、読まれないままでいい。」
その文字を見て、
ようやく、胸の奥がゆっくりとほどけた。
窓の外で風が鳴る。
雲の切れ間に、
夕陽が沈む少し前の淡い光が差し込んだ。
その光が封筒の上に落ちて、
まるで“誰かの手”みたいに優しく包んでいた。
夜になって、風が変わった。
窓を少し開けると、冷たい空気がカーテンをふわりと揺らす。
机の上には、昼間封をした手紙。
その上に、影が重なっていた。
明かりを落とすと、部屋の音がひとつずつ際立って聞こえる。
時計の針、冷蔵庫の低い唸り、
そして、自分の呼吸。
――この静けさは、もう恐くなかった。
いつか誰かの恋を見守っていたときは、
他人の沈黙が怖かった。
でも今、ようやくわかる。
沈黙は終わりじゃない。
**“言葉が届かなくなったあとの祈り”**なのだと。
封筒を持ち上げて、
指でなぞる。
インクの匂いがまだかすかに残っている。
「この手紙は、読まれないままでいい。」
自分で書いたその一文が、
思っていた以上にやさしい響きで胸に返ってきた。
手紙の内容はもう思い出せない。
何を書いたか、どんな言葉を選んだか――
そんなことより、
“書いた”という行為そのものが私の記憶になっていた。
私は、語ることに救われていたのだと思う。
誰かの話を聞くことで、
誰かの言葉を信じることで。
けれど、ようやく今、
“言葉を手放すこと”を学んだ。
窓の外に目をやる。
遠くの街の明かりが、
まるで点滅する記憶みたいに瞬いている。
そのどこかに、彼がいる。
笑っている。
私が知らない誰かと。
それでいい。
だって、あの頃から私は、
“誰かの幸せを見送る”ことで生きてきたのだから。
机の引き出しを開けて、
古い手帳をしまう。
それは、語り部としての私の記録帳でもあった。
最初のページには、
かつての友達たちの名前が並んでいる。
癖を見つけた子。
傘を渡した子。
走って去った子。
そして、遠距離の空を見上げた子。
彼女たちの物語を私は“見て”いた。
けれど今ようやく、
彼女たちと同じ場所に立てた気がする。
語ることをやめて、
想うだけの場所へ。
手紙を封筒ごと箱に入れて、
ゆっくりと蓋を閉めた。
その瞬間、
“物語”が一冊の本みたいに、
静かに閉じられる音がした。
胸の奥に、柔らかい余白が残る。
その余白こそが、私に残された唯一の未来だった。
朝。
カーテンの隙間から、光が差し込む。
部屋の空気が、昨日より少しだけ澄んでいる。
机の上に残されたインクの染み。
その輪郭が、小さな花のように見えた。
私は小さく笑って、
窓を開ける。
冷たい空気が頬を撫でた。
「言葉では表せないものが確かにある。
でも、それを言えるのは、
言葉の限りを尽くした者だけだ。」
声に出してみた。
自分の声が、
どこまでも静かな空に吸い込まれていった。
それで、十分だった。
舞の物語は、
語られなかった恋を語ることで終わる。
彼女は、誰にも届かない手紙を書き、
“語る人”から“見守る人”へと戻った。
けれどその静けさは、
敗北ではなく、完成だ。
彼女が4人の物語を見てきたのは偶然ではない。
彼女自身がずっと、
“届かない想い”という物語の原点にいたから。
この手紙が誰にも読まれなくても、
言葉が世界のどこかでまだ息をしている限り、
彼女は「語り部」として生き続ける。
シリーズの最初の少女が黒板の粉を見上げていたとき、
そのすぐ後ろの席にいたのが、舞。
彼女はずっと、見ていたのだ。




