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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
負けヒロイン

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物理距離が心の距離になる

拝啓 遠くのあなたへ。


たった三時間の距離なのに、

あなたの声は、だんだん遠く感じるようになりました。

最初の頃は「離れても平気だよ」と笑って言えたのに、

今ではその言葉を口にするたび、

少しだけ喉の奥が痛くなります。


会えない時間は想いを育てる、

そんな言葉を信じていた時期もありました。

でも、本当は違うのかもしれません。

会えない時間は、

想いが少しずつ形を失っていく時間でもあるのだと、

今になって思います。


それでも、あなたを嫌いになれない。

届かないはずの声を、

まだどこかで聞いていたいと思ってしまう。


そんな私の手紙です。


敬具。



電車の時刻表が、新しい行き先に書き換わるたび、

私の心の地図から、あなたの街が少しずつ薄れていく気がした。


春、あなたは大学の合格通知を持って遠くの街へ行った。

桜が散る歩道で最後に会った日のことを、

私はいまだに鮮明に覚えている。


「すぐ会えるよ、三時間でしょ」

あなたは軽く笑って言った。

その笑顔があまりに自然で、

私は「うん」とだけ頷いた。


ほんの三時間。

それが“遠距離”という言葉を使うには

あまりに短い距離だと思っていた。

だから不安なんてなかった。

少なくとも、最初のうちは。


最初の週末は、毎日のようにメッセージが届いた。

「こっちは桜がまだ満開だよ」

「駅前のカフェが落ち着く」

そのたびに、スマホの画面の光が

私の部屋を小さく照らした。


その光が、あなたの代わりだった。

声も、表情も、画面の向こうにいる。

本当に、距離なんて関係ない。

そう思っていた。


けれど、季節が変わるのはあっけない。

ゴールデンウィークを過ぎたころ、

メッセージの数が少しずつ減っていった。

「今日は課題が多くてさ」「バイトが入ってて」

言葉はいつも優しかったけれど、

文の最後につく絵文字の数が減っていった。


それを“気のせい”だと思えるうちは、

まだ大丈夫だった。


夏が近づくと、通学路の街路樹の影が濃くなった。

放課後、夕立に降られても、

もうあなたと走ることはない。

傘の中で笑い合った記憶だけが、

湿った空気の中に残っていた。


「最近、あの人とはどうなの?」

舞が笑いながら言う。

「遠距離、意外といけるもんだね」

私は明るく返したけれど、

心のどこかで、少しだけ波が立った。


帰宅してスマホを見る。

未読のままのメッセージが一つ。

二日前に送った「お疲れさま」に、

返信はなかった。


既読もつかない画面を見つめながら、

私は心のどこかで薄々感じていた。

“距離”というのは、

地図の数字のことじゃなくて、

この沈黙のことなのだと。


夜、部屋の明かりを落とすと、

外の街灯がカーテンの隙間から差し込む。

その光の中で、

あなたの笑顔を思い出そうとする。

思い出すたび、

少しずつ輪郭が曖昧になる。


あなたのいる街の天気を検索するのが日課になった。

「晴れ」と表示された日には、

なんとなく安心する。

「雨」と出ると、

誰が傘を差しているのかが気になった。


そんなことを考える自分が、

少し情けなくて、

スマホを伏せた。


ある日、あなたから短いメッセージが届いた。

「こっちは暑いよ、そっちは?」

たったそれだけの文に、

私はありったけの言葉で返した。


「こっちも暑いよ。花火大会の準備してる。

今年は一緒に行けないけど、写真送るね。」


送信ボタンを押してから、

胸の奥で小さく音がした気がした。

既読がついたのは、三日後の夜。

返事はなかった。


――もしかしたら、彼はもう新しい風景の中で、

私を思い出すこともなく、

誰かと同じ空を見ているのかもしれない。


そんな想像が頭をよぎるたび、

心の中の景色がひとつずつ色を失っていった。


でも、私はまだ信じたかった。

この距離が一時的なものだと。

また会えば、何も変わらないと。


そう思いながら、

今日も電車の時刻表を見上げる。

あなたのいる街へ向かう列車は、

一時間後に出発する。


「行けば、会えるのかな」

誰に言うでもなく、

私は小さく呟いた。


指先でスマホを開く。

最後のメッセージの画面が、そのまま残っていた。

“未返信”という文字が、

まるで時が止まっているみたいに見える。


画面を閉じ、

改札の前で立ち止まる。

改札を抜ければ、

その先にあなたがいる――

はずなのに、

私は足を踏み出せなかった。


もしかしたら、

このまま行かないほうが、

まだ「続いている」ような気がした。


だから私は、

切符を買わずにホームを降りた。


夏の風が、少し冷たく感じた。


夜、電車の音が耳の奥に残っていた。

改札を抜けられなかった足は、まだ床の冷たさを覚えている。

あのとき一歩踏み出していたら、何か変わっただろうか――

そんな問いが、寝返りを打つたびに形を変えて胸に刺さった。


次の週、私は決めていた。

行く。

あの街に。


朝の空気は透き通っていて、吐く息が白い。

通学用のバッグに、いつものノートと折りたたみ傘、そして少し迷って入れたお守り。

電車の中は静かで、誰もが小さな世界に閉じこもっている。

窓の外を流れる景色が、時間の流れを可視化していく。


三時間。

あなたがいつも見ている街のビル群が近づく。

駅の看板にその名前を見つけた瞬間、

心臓が、長い眠りから覚めるように跳ねた。


ホームに降り立つと、空気の匂いが違っていた。

少し湿っていて、都会の埃と潮の香りが混じっている。

私は深呼吸をして、スマホを取り出す。

最後にあなたから来たメッセージは、

「こっちは暑いよ」――そのまま止まっていた。


指が、送信画面を開く。

「今、あなたの街にいる」と打って、消す。

何度か書き直して、

最後には何も残さず、スマホを閉じた。


誰かに連絡するためではなく、

“いまこの瞬間を確かめるため”に、私はここに来たのだ。


駅前のカフェに入る。

ガラス越しに見える人の流れ。

どの顔も似ていて、どの背中も違って見える。

氷の溶けたグラスの底で、音がかすかに鳴った。


「……来てしまったんだな」

自分でも、つぶやいた声が信じられなかった。


そのとき、通りの向こうで笑い声が聞こえた。

振り返る。

人混みの中で、見覚えのある横顔。

ほんの一瞬だけ、時間が止まった。


彼だった。

数メートル先、誰かと歩いていた。

隣の女性が、彼の腕に触れて笑う。

その笑顔を見て、

私はすぐに目を逸らした。


見つからないように、俯く。

心臓の音が耳を塞ぐ。

コーヒーの香りが、まるで別の世界のものみたいだった。


彼は気づかなかった。

それが一番自然な結末なのだと、頭では分かっていた。


外に出ると、夕立が降り始めた。

傘を広げようとして、私は立ち止まる。

バッグの中に、一本だけ。

いつも入れっぱなしの折りたたみ傘。

前に“貸さなかった”あの日から、使わずにいたもの。


差す気になれなかった。

代わりに、ポケットのスマホを開く。

メッセージ欄をもう一度見つめる。


「元気?」


その二文字が、あまりに遠かった。

送信ボタンの上で、指が震える。

押せない。

押した瞬間、この静けさが終わってしまう気がした。


傘を差さずに歩き出す。

髪が濡れて、シャツの袖が肌に張りつく。

街の光が、雨粒で滲んでいた。

すれ違う人の傘の下には、それぞれの会話と笑いがある。

私はただ、雨音の中で一人分の沈黙を運んでいた。


あの人にとって、私はもう“過去の人”なのかもしれない。

でも、私にとっての彼は、

まだ“言葉の途中”にいる。


駅のベンチに座って、息を整える。

靴からしずくが落ちて、床に丸い水の跡を作った。


ホームのアナウンスが遠くで響く。

“この電車が過ぎたら、私は帰ろう”

そう決めて目を閉じた。


その瞬間、

背後から誰かが駆けていく足音がした。

思わず顔を上げる。

遠くの改札の向こうで、

彼に少し似た人影が見えた。


――でも、それだけだった。


すぐに人の波に飲まれて、姿が消えた。

見間違いでもいい。

そう思った。


電車がホームに入る。

風が、濡れた頬を冷やす。


私は立ち上がって、改札を抜けた。

もう一度、時刻表を見上げる。

さっきと同じ行き先、同じ時間。

でも、心の中の距離は、

もうどの地図にも載っていなかった。


帰りの電車は、行きよりもずっと静かに感じた。

向かいの席の学生たちが笑い合っている。

私は窓に映る自分の顔を見て、

「誰?」と心の中でつぶやいた。


見慣れた制服、いつもの髪型。

でも、目の奥にあったものが少し違う気がした。


ガラスの向こう、夕暮れが走っていく。

街の灯がひとつずつ点いて、

遠くの高架を、別の電車がすれ違う。

その光の軌跡が、まるで“時間の分岐点”みたいだった。


ポケットの中でスマホが震えた。

画面をのぞく。

通知の文字列が、心臓を小さく跳ねさせる。


――あなたからだった。


「ごめん、最近いろいろ忙しくて。

 そっちは元気?」


それだけ。

たった一文。

だけど、いま受け取るには、少し遅すぎた。


私は返信画面を開いて、

指を止めた。


何を送ればいい?

“元気だよ”と書いたら、

この沈黙がなかったことになってしまう気がした。

“会いたかった”なんて書けるわけもない。


打っては消し、打っては消す。

そのたびに、指先に残る熱が少しずつ冷えていく。


結局、私は何も送らなかった。

画面を閉じると、

反射した窓の向こうに自分の顔がまた見えた。

そこには、少し前まで誰かを待っていた少女の姿はなかった。


風景が、灰色に変わっていく。

駅をいくつも過ぎるうち、

外はすっかり夜になっていた。


ホームに降りたとき、

冷たい風が頬を撫でた。

雨はもう止んでいたけれど、

アスファルトの上には、街灯をぼんやり映す水たまりが残っている。


その光を避けるように歩きながら、

私は思う。


――人を想うって、どういうことなんだろう。


「好き」と言葉にすることより、

「好き」と言わないまま見ている時間のほうが、

ずっと長かった気がする。

その沈黙の中に、私はいた。


メールを送らなかったことも、

傘を差さなかったことも、

多分、同じ理由だ。

“届かなくてもいい”という、

奇妙なあきらめのような優しさ。


私は、私のままで、

彼の時間を壊さない場所にいたかった。


駅を出て、

夜の風の中を歩く。

遠くで電車の音がする。

そのリズムが、心の奥の鼓動と重なった。


ふと、空を見上げる。

雲の切れ間に、薄い月が浮かんでいた。

あの日、傘を渡した時の雨も、

今日の夕立も、

きっと同じ空の下にあったのだろう。


ほんの少し違うだけで、

見える景色は変わる。

時間も、想いも。


信号の灯りが変わる。

赤から青へ。

私は一歩、踏み出す。


その足音が、

“さよなら”のかわりに夜の中へ消えていく。


家に帰ると、部屋の空気が少し冷たかった。

窓を閉めて、机の上のノートを開く。

ページの端には、

夏の頃に書きかけてそのままにしていた手紙があった。


宛名も日付もない。

読み返すと、そこには拙い言葉が並んでいた。


「あなたの街の風の匂いを、

私はまだ知らない。

でも、いつか知りたいと思っている。」


その“いつか”が来ないことを、

今ならわかる。

でも、だからこそ、

この手紙は今日、完成したのだと思う。


私はペンを取り、最後の一行を加えた。


「言葉では表せないものが確かにある。

でも、それを言えるのは、

言葉の限りを尽くした者だけだ。」


書き終えると、

胸の中に静かな風が吹いた。


伝わらなくてもいい。

届かなくてもいい。

それでも、書けたことがすべてだった。


ペンを置いて、

小さく息を吐く。

窓の外では、

遠くで電車の音が再び鳴っていた。


あの日、動けなかった改札の向こうへ、

今なら歩いていける気がした。


灯りを消すと、

部屋の中に、ほんの少しだけ温かい静けさが残った。



遠距離とは、地図の線のことじゃない。

沈黙の時間をどう受け止めるか――それが、距離の本当の姿。

彼女は届かない言葉を恐れながらも、

最後には**「言葉にしようとした自分」**を肯定した。


この物語は、誰かに届かなくてもいい。

ただ、誰かが“言葉の限り”を尽くしたその瞬間に、

きっと世界は静かに続いている。

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