表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
負けヒロイン

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/112

もう一本の傘

拝啓 あの日、傘を貸したあなたへ。


あの雨の音、まだ覚えていますか。

あなたと彼女が並んで歩いていく姿を見送った午後。

私は自分のカバンの中に、もう一本の傘をしまったまま、走って帰りました。


濡れた髪よりも、心のほうが冷たかった。

けれど、なぜか少し誇らしくもあったのです。

使えば私も濡れずに帰れたのに――使わなかったことが、

たぶん、私の好きの形でした。


あの時の私も、あの傘も、

まだ少しだけ、あなたの笑顔の中に残っている気がします。


敬具。

放課後の教室は、いつもより静かだった。

誰かの笑い声が廊下の奥に遠く響いて、

チョークの粉と雨の匂いが、まだ始まっていない湿気を予告している。

窓の外の雲が低く垂れて、

白いカーテンみたいに、光をぼやかしていた。


「降りそうだね」

彼が窓の外を見ながら言った。

黒髪の前髪が少し濡れて見える。

さっきまで外で部活をしていたらしい。


「やば、傘忘れた〜」

A子が笑いながらカバンを探る。

「私も」

彼が肩をすくめると、A子はおどけた声でため息をついた。

「ほんと似てるよね、そういうとこ」


私はノートの角をそろえながら、

カバンの中の重みを指で確かめる。

折り畳み傘が二本、いつものように入っている。

一本は自分用、もう一本は、誰かに貸すため。

ただの癖。

でも今日は、その癖が少し重たく感じた。


「帰る?」

「うん、早く出ないと降るね」

彼の声に合わせて、A子が立ち上がる。

教室のドアを開けると、湿った風が流れ込んできた。

遠くの廊下で、誰かが窓を閉めている音がする。


階段を下りる途中、

私は小さく息を吸った。

心の奥で、まだ降っていない雨の音を聞いた気がした。


昇降口を出ると、

外の空気はもう完全に雨の匂いをしていた。

アスファルトが鈍く光って、

最初の一滴が、白い丸を描いて消える。


「どうしよう、もう降ってきた」

A子が小走りに庇の奥へ下がる。

「俺、駅まで行けばなんとかなるかな」

彼が冗談めかして言った。


私は鞄の中を開け、折り畳み傘を取り出す。

金属の感触が指先に冷たい。

「一本あるよ」

「ほんと?」

A子が振り向く。

「うん。二人で入れば大丈夫」


彼が少し困ったように眉を下げる。

「でも君は?」

私は、笑って首を振った。

「平気。すぐ止むでしょ。走るの、嫌いじゃないし」


A子が「ありがとう!」と笑う。

その笑顔がまぶしくて、

私はほんの一瞬だけ目を伏せた。


黒い傘が開く音がした。

その小さな“ぱっ”という音が、

教室の鐘みたいに心の中に響いた。


庇の外は、すでに雨の線が幾重にも重なっている。

二人が傘の下に並ぶ。

彼が、少しだけA子の肩に傘を寄せた。

その仕草の自然さに、

私は何も言えなかった。


「じゃあ、また明日」

A子が笑いながら手を振る。

私は笑顔を作って、「うん、また明日」と返す。

その声が、ほんの少し震えた気がした。


傘の下のふたりが歩き出す。

肩と肩が近づいて、ゆっくりと角を曲がっていく。

私はその背中を目で追って、

小さく息を吐いた。


カバンの中には、もう一本の傘。

まだ乾いたままのその布を指で確かめる。

冷たくて、軽い。

開けば、私は濡れない。

でも、開いたら泣いてしまいそうだった。


だから、私は庇の端まで歩き、

一歩、外へ出た。

雨がすぐに頬に当たる。

髪に、肩に、スカートの裾に。

冷たさが一気に広がる。


足元の水たまりが、空を映して揺れている。

私はそれを踏みしめて、走り出した。


雨はすぐに全身を包んだ。

思っていたよりも冷たくて、

でも、その冷たさが不思議と安心に似ていた。


校門を抜けるころには、

スニーカーの中まで水がしみていた。

それでも止まらずに走る。

濡れることが、今日の自分の選択だったから。


通学路の途中、

街路樹の葉から落ちるしずくが、肩に小さく跳ねた。

その音さえ、優しく聞こえた。


「大丈夫。走れるよ」

誰に言うでもなく、

息の合間に呟く。


交差点の向こう、

黒い傘が二つの影を包んで歩いていく。

遠くて表情までは見えない。

でも、A子の笑い声のようなものが、

雨音の向こうでかすかに混ざった気がした。


私は立ち止まらなかった。

視線を前に戻して、走り続ける。

足元の水が跳ねて、

スカートの裾が重くなる。

それでも、心の奥だけは軽かった。


もし、あの傘の下で笑ってくれるなら、

それでいい。


そう思えた瞬間、

胸の中にあった痛みが、

ほんの少しだけやわらいだ。


公園の屋根の下に入ると、

一気に音が変わった。

外の雨音が薄い膜を隔てて遠のく。

私は鞄のファスナーを開け、

中のもう一本の傘に触れる。


布の感触はまだ乾いている。

指先で持ち手をなぞる。

開けば、たぶんこの雨から逃げられる。

でも、その瞬間、

私の中の何かが壊れてしまいそうだった。


だから、閉じたままにしておいた。


「……開かないでいい」

小さく笑って、

息を吐いた。


再び屋根の外に出る。

雨の粒が頬を叩く。

通学路の先で、

信号の青がぼやけて光っていた。


家に着くころには、

髪が頬に張りついて、

指の間から雫が落ちていた。

でも、その冷たさが、

少しだけやさしく感じられた。


玄関の前で立ち止まり、

鞄を抱きしめるように持つ。

中の傘が、

小さく、静かにそこにいる。


濡れたのは体だけで、

泣いたのは空だけだった。


扉を開けて、

私はゆっくりと家の中へ入った。

外の雨の音が遠ざかっていく。

それでもしばらくは、

頬を流れる水の跡が消えなかった。


翌朝、空は驚くほど晴れていた。

昨日の雨が嘘みたいに、街全体が光を弾いている。

通学路の並木道の葉にはまだ小さな雫が残り、

それが陽の光を受けてきらきらと瞬いていた。

その光を見ているだけで、胸の奥が少し痛んだ。


私はいつもより少し早く家を出た。

冷たい風が頬に当たるたび、

昨日の雨の感触を思い出す。

濡れた肩、走る音、傘を渡すときの彼の表情。

もう乾いているはずなのに、

心のどこかにまだ少し湿り気が残っている気がした。


昇降口で靴を履き替えると、

ガラス越しの陽が白く差し込んだ。

その光に目を細めながら、

私はふと、自分の鞄を見下ろす。

中には、昨日貸さなかったもう一本の傘。

まだ一度も開いていないまま、

静かにそこに眠っている。

その重さが、昨日の気持ちの続きを

そっと抱えているように思えた。


「おはよー」

背後から声がして、舞がやってくる。

「昨日、走ったんだって? びしょ濡れだったじゃん」

「まあ、ちょっとね」

笑ってごまかすと、舞は気楽に笑って続けた。

「A子のとこ、あの人と一緒に帰ってたよ。二人で傘入ってて、仲良さそうだった」

その何気ない言葉に、

心の奥の薄い膜が少しだけ揺れた。


教室に入ると、

窓際の席でA子と彼が話していた。

A子が手にしているのは、昨日渡した黒い傘。

乾いた布地が陽を受けて柔らかく光っている。

彼が「助かったよ」と笑い、

A子が「ありがとうね」と返す。

そのやり取りを聞いているだけで、

胸の奥が少し温かくなって、

少しだけ痛くなった。


席に着き、ノートを開く。

先生が入ってきて黒板に文字を書き始める。

チョークの音が乾いた朝に響く。

昨日は雨の音しか聞こえなかったのに、

今日はどんな小さな音もはっきりと届く気がした。


前の席――

彼の背中が、いつも通りそこにある。

首を少し傾けて考える仕草。

でも、手は耳に行かない。

代わりに、ペンの先がわずかに揺れた。

その仕草が、

新しい“考える”の形になっているように見えた。


私はその背中を見つめながら、

昨日の言葉を思い出していた。

「よくやるよね、それ」

あの一言で、何かを変えてしまったのかもしれない。

でも、きっとそれでよかったのだと思う。

人は誰かに見られた瞬間、

少しだけ大人になる。

私も、きっと同じように。


昼休み。

A子が彼と並んで教室を出ていく。

二人の肩の間に差す光が白く、眩しい。

舞が「お似合いだね」と笑う。

私は笑い返して、「そうだね」とだけ言った。

それ以上は、言葉にならなかった。


放課後。

夕陽が教室の床を橙色に染めている。

机の上のペンが光を反射して、

小さな線を作っていた。

帰り支度をしていると、

彼がA子と話を終えてこちらに歩いてきた。


「昨日、ありがとう」

その声がやわらかく響く。

「傘、助かったよ。おかげで濡れずに帰れた」

「ううん、よかった」

笑って返す。

それだけで、胸の奥の痛みが少しだけ和らぐ。


「今度、ちゃんと返すから」

「ゆっくりでいいよ」

そう言うと、彼は少し笑って頷いた。

その表情を見た瞬間、

昨日よりも少し遠くに感じた。

でも、その距離がやさしかった。


彼が教室を出ていくと、

窓の外の光が一気に柔らかくなった。

私は机に手を置き、

ゆっくりと息を吐いた。

昨日よりも静かで、

昨日よりも確かな空気。


帰り道、

空は茜色に染まっていた。

信号の青が街角で滲んで、

風が頬を撫でていく。

鞄の中の傘が、歩くたびに小さく揺れた。

その音が、昨日の雨の続きを

静かに歌っているように聞こえた。


私は立ち止まり、空を見上げた。

一筋の雲が、夕陽を受けて光っている。

まるであの雨の名残のように。


言えなかったことが、美しかった。


届かなくても、

言葉にできなくても、

その静けさの中に

たしかな“想い”があった。


そして今、私は思う。

昨日より少し強く、

昨日より少し優しくなれた気がする。


鞄の中の傘は、まだ開かないまま。

けれど、その重さはもう寂しくない。

あの雨の日、

渡せなかった傘のぶんだけ、

私は自分の心を守っていたのだと思う。


夕暮れの風が少し冷たくなっていく。

けれど不思議と、その冷たさが心地よかった。

私は歩きながら小さく微笑んだ。


――きっと、この想いもいつか乾いて、

やさしい記憶になる。

雨が止んだあと、

世界は少しだけ静かになる。

それは、空が沈黙しているのではなく、

音のあいだから何かが消えていったからだと思う。


この話を書きながら、

私は「誰かを想う」ということの

ほんの小さな痛みと温かさを、

自分の中で確かめていた気がします。


誰かを好きになるというのは、

必ずしも伝えるためだけの行為じゃない。

見つめること、黙っていること、

そして手を離すこと――

そのすべてが「想い」のかたちなのだと。


傘を渡さなかった彼女は、

負けたのではなく、

静かに自分を選んだだけ。

その行為が“美しさ”に変わる瞬間を

どうしても書きたかった。


「言えなかったことが、美しかった」

――その言葉が、

この物語のすべてを包んでいます。


雨はもう止んでいるけれど、

あの空気の匂いだけは、

きっと心のどこかに残り続ける。


次の“負けヒロイン”も、

きっと誰かの心に、

小さな雨音のように届きますように

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ