夏の終わりの放課後
拝啓 夏の終わりの君へ。
今年の陽射しは、少しだけ痛かった。
腕時計の跡だけが白く残って、
それを見るたびに、
あなたと過ごした時間の形が浮かぶ。
日焼けを気にしないあなたの笑顔が、
あの頃の私には眩しすぎて、
何も知らない無防備な季節の中で、
私は自分だけを少し焦がしていたんだと思う。
誰にでも、
「気づくのが遅すぎた恋」ってあるのかもしれない。
焼けた肌みたいに、
時間が経ってもすぐには戻らない、
そんな想いが一つくらいあってもいい。
――あの夏の放課後、
言えなかった言葉がまだ、
腕の奥のほうで熱を持っている気がします。
敬具。
夏の終わりの教室は、どこか湿った匂いがした。
チョークの粉と、扇風機の風が混ざって、
午後の光が白く漂う。
カーテンの影がゆらゆらと机にかかり、
その揺れが、時計の音よりもゆっくりと時を刻んでいる。
蝉の声はもう少し遠くなって、
窓の外では野球部の声が途切れ途切れに響く。
黒板の端には「文化祭実行委員」と書かれた紙。
その下に、彼と私の名前が並んでいる。
「これ、明日までに提出だってさ。」
そう言って、彼はプリントを片手に笑った。
笑うと、頬のあたりに少し濃い日焼けの跡が見えた。
腕時計の形にだけ白く残るその跡が、
まるで“夏を生きた証”みたいで、
私はつい、目を逸らした。
「手伝う?」
「うん、お願い。」
その返事が嬉しくて、
でもその嬉しさを見せたくなくて、
私はわざと少し大げさにため息をついた。
机の上にはカラーポスターの絵具、
はみ出した線、紙の裏についた指の跡。
そんなものひとつひとつが、
夏の終わりの匂いをしていた。
放課後の教室に残っているのは、
私と彼、そして風の音。
「暑いね」と誰かが言う。
「ほんとだね」ともう一人が答える。
それだけで、
世界が穏やかに続いている気がする。
扇風機の風が通るたびに、
彼の髪が少しだけ揺れる。
その下の首筋、シャツの襟元から覗く肌が、
うっすらと焼けていた。
「部活とか、よく行くの?」
「うん、バスケ。外も多いしね。」
「……だからそんなに焼けてるんだ。」
自分でも、
その言葉が少し意識的だったことに気づいていた。
彼は一瞬、驚いたように笑って、
「そっちは焼けないね」と言った。
「気をつけてるだけだよ。」
「そういうとこ、えらいと思うけどな。」
えらい、という言葉が、
なんだか遠くから聞こえた。
その距離のぶんだけ、
私は彼に近づけていないんだと思った。
作業が進むにつれて、
夕方の光は少しずつ傾いていく。
ポスターの端に筆を走らせながら、
私は彼の手の動きを目で追っていた。
指先が動くたび、
シャツの袖からのぞく腕の色が光を反射する。
その肌の焼け具合が、
どうしてか、眩しくて痛かった。
日焼けって、
気にしない人のほうが、いつも綺麗だ。
そんなことを思ってしまう自分が、
少し嫌だった。
「終わった?」
「うん、だいたい。」
「じゃあ、これ持って行こっか。」
「……うん。」
二人で立ち上がる。
廊下はすでに夕暮れ色で、
窓から差す光がオレンジに変わっていた。
汗ばんだシャツが背中に張りつく。
彼がポスターを抱えながら歩く。
その背中の影が長く伸びて、
床を滑るように揺れた。
私もその少し後ろを歩く。
同じ道なのに、
歩幅の違いで少しだけ距離が生まれる。
教室を出る前、
ふと振り返ると、
自分の机の上に絵具のしみが残っていた。
白い光の中で、
それが妙に鮮やかに見えた。
昇降口に向かう途中、
夕立の気配がした。
遠くで雷のような低い音。
窓の外では、
風が夏の匂いを集めて吹き抜ける。
「降りそうだね。」
「うん。……急ごうか。」
彼の横顔を見上げる。
光の加減で、
彼の頬の焼けたところが赤く光って見えた。
そのとき、
ほんの一瞬――手を伸ばせば触れられる距離にいた。
だけど、触れられなかった。
自分の手が少しだけ白く見えて、
その差がどうしようもなく遠かった。
昇降口に着くころ、
空が暗くなりはじめていた。
彼は外を見て、
「もうちょっと待つか」と言った。
私はうなずいて、
壁際に並んで座った。
外では最初の雨粒がアスファルトを叩いていた。
彼は腕を伸ばして窓を閉める。
その動作のあと、
肘から手首にかけての焼け跡が、
少し湿った光を受けて、やけにくっきりと浮かんでいた。
「焼けすぎて、痛くない?」
「ちょっとね。でも、気にしてない。」
「……そっか。」
「だって、夏だから。」
その言葉に、
笑ってうなずきながら、
胸のどこかが少しだけ沈んだ。
外の雨音が強くなっていく。
二人の沈黙を包むように、
教室から流れてきた風が通り過ぎた。
彼の肩先が少し濡れている。
私は言えなかった。
「好きです」と、ただそれだけの言葉を。
もし言ってしまえば、
この沈黙が壊れてしまう気がして。
だから私は、
その沈黙を守るほうを選んだ。
夕立は、すぐには止まなかった。
空は白く、雨はやさしく、
そしてどこか寂しかった。
――気づけば、私の腕も少し焼けていた。
彼ほど濃くはないけれど、
手首の内側にだけ、白い跡が残っている。
それを見て思った。
きっと私の恋も、こんなふうに残るのだろう。
痛みではなく、少しの熱を持ったまま。
雨は、あっという間に強くなった。
ガラスに当たる音が連続して、
世界が一枚の薄い水の膜に覆われる。
昇降口の屋根を打つ音が、鼓動みたいに響いていた。
外に出られないまま、私と彼は並んで座っている。
夕立特有の匂い――アスファルトの蒸気と、夏の終わりの湿気。
それが混ざって、胸の奥まで染みてくる。
「すごい雨だね。」
「うん。まさか、ここまで降るとは思わなかった。」
「傘、持ってきた?」
「ない。……朝は晴れてたから。」
「俺も。」
笑いあう。
その笑いがやけに近くて、でもどこか遠い。
雨音が強まるたびに、沈黙が深くなる。
教室から聞こえる声はもうなく、
校舎全体が静かな水槽の中に沈んだみたいだった。
彼が何か言いかけて、やめる。
私も同じように、
喉の奥で言葉をひとつ握りつぶした。
言えない。
言ったら、終わってしまう気がする。
「ねえ、夏ってさ。」
彼がふいに口を開いた。
「終わるの早いよね。」
「うん。」
「気づいたら、いつも過ぎてる。
まだ何もしてないのにさ。」
その言葉に、胸の奥がひゅっと鳴った。
何もしてない、というその一言に、
私たちのこの時間も含まれている気がした。
「……でも、なんか、いい夏だったよ。」
「どうして?」
「なんか、ちゃんと“暑かった”って感じ。」
「ふふ、変なの。」
「変かな。……でも、焼けたのも悪くない気がする。」
彼の腕を見る。
光の反射で、焼けた肌が少しだけ濡れている。
その上に落ちた雨粒が、滑るように流れ落ちた。
「日焼け、痛そう。」
「うん、ちょっと。昨日より赤いかも。」
「……触ると痛い?」
「たぶん。」
「触らないけど。」
「はは、触らないんだ。」
「痛そうだから。」
ほんの小さな会話だった。
でも、その“触らない”の一言の中に、
私の全部が詰まっていた気がした。
雨は止む気配を見せない。
窓の外はもう薄暗く、
空の色が群青と灰色の境をさまよっている。
「この雨、いつ止むんだろう。」
「わかんない。……でも、止んでほしくないかも。」
自分でも不思議なことを言ったと思った。
けれど、止んでしまえば、
この時間も終わってしまう気がして。
彼は少しだけこちらを向いて、
「なんで?」と聞いた。
「……帰りたくないだけ。」
それ以上は言えなかった。
風が吹いて、雨が少し斜めに落ちてくる。
昇降口の隙間から、風が入り込み、
足首のあたりが少し濡れた。
私は立ち上がり、窓の外を見た。
空気が白く霞んで、
遠くの木々が輪郭を失っている。
ふと横を見ると、彼も立っていた。
肩がすこし触れそうな距離。
息を吸って、言葉を探す。
“好きです”と口の形をつくる練習を、
この一週間、何度もしてきた。
でも、いざとなると声が出ない。
喉の奥で熱がこもる。
雨の匂いのせいにして、
目頭の痛みを誤魔化した。
言いたいのに言えない。
それだけで、
こんなにも息が苦しくなるんだ。
「……そろそろ、止むかな。」
彼が空を見上げて言った。
「うん。」
「明日、晴れるといいね。」
「うん。」
短い返事のくり返し。
けれど、その“うん”のたびに、
言えなかった気持ちが、
一層くっきりと形を持っていく気がした。
沈黙の中で、私は自分の腕を見る。
手首の内側だけが白く、
他はうっすら焼けている。
その白い部分を指でなぞりながら思う。
――この夏、彼の隣にいられた時間。
そのぶんだけ、私は焼けていった。
ちゃんと焦がしてしまったのは、
たぶん肌じゃなくて、心のほうだ。
外の雨音が少し弱まる。
空の向こうに、うっすらと光が差している。
雨の終わり。
そしてたぶん、
この沈黙の終わりでもある。
「行こうか。」
彼が言った。
私はうなずいて、鞄を持ち上げた。
昇降口の外、
地面は濡れて、夕陽の名残が反射している。
歩き出す足元に、二人分の影。
その影の間に、水たまりがひとつ。
彼はその水たまりを避けて歩いた。
私は、避けられなかった。
足元が濡れて、
焼けた肌が少し冷たくなった。
夕立のせいにした。
言えなかったことも、
言わなかったことも、
ぜんぶ、あの雨のせいにして。
でも本当は――
恋が終わる音を、
ちゃんと聞いていたのかもしれない。
翌朝、窓を開けると空は嘘みたいに晴れていた。
昨日の雨がすべてを洗い流したみたいで、
街路樹の葉はつややかに光り、
アスファルトにはまだ、雨の名残が薄く残っている。
腕を伸ばすと、肌が少しひりっとした。
昨日よりも、日焼けの赤みが濃くなっている。
あの雨で冷やされたはずなのに、
触れるとまだ熱が残っていた。
――きっと、あの沈黙の熱がまだ冷めていない。
制服の袖を通しながら鏡を見る。
うっすらと残った焼け跡。
もうじき秋が来れば、この色も少しずつ戻るのだろう。
でも、完全には消えない気がした。
学校に着くと、
昨日のことなんて何もなかったみたいに、
クラスは賑やかだった。
夏休み明けの雰囲気。
友達が笑いながら、
「昨日の雨、すごかったねー!」と話している。
彼は、教室の前の席にいた。
いつも通りの笑顔で、
誰かと話している。
その「誰か」は、
昨日よりも少し髪の短い女の子だった。
体育祭の練習で日に焼けていない、
透けるような白い肌。
ふたりの笑い声が、
晴れた光の中に混じって、
空気を明るくしていた。
私は自分の腕を見た。
焼けた肌が、少しだけ茶色く沈んでいる。
その色が急に、
“昨日の私”の証みたいに見えた。
太陽の下で、まっすぐ彼を見ていたのは私。
でも、彼の視線は私のほうを向いていなかった。
そう気づいたとき、
胸の中で何かがすっと小さく崩れた。
授業中、彼が何かに手を挙げて答えた。
笑いながら、軽く腕をさする仕草をした。
「昨日、焼けすぎて痛い」って言っていたその腕。
私の視線は、そこに吸い寄せられた。
机の上に落ちた光が、
彼の横顔の輪郭を淡くなぞる。
あの夕立の匂いが、一瞬よみがえる。
でも、もう彼は私を見ていない。
――それでいい。
心のどこかで、そう思った。
放課後。
窓の外には、また違う色の空。
夏の青よりも少しだけ浅くて、
季節が確実に動いているのがわかる。
帰り支度をしていた彼が、
ふいにこちらを見た。
「昨日、ちゃんと帰れた?」
「うん、なんとか。」
「よかった。」
それだけの会話。
でも、最後に見た彼の笑顔は、
昨日よりずっとやわらかかった。
「もう、夏終わるね。」
そう言うと、彼は軽くうなずいて、
「また来年も、暑いといいな。」と笑った。
“また来年”
その言葉が、
もう私の季節には届かない気がした。
家へ向かう帰り道。
照り返しの中を歩きながら、
手首の白い跡を見つめた。
昨日よりもくっきり残っている。
それを見たとき、
ようやくわかった気がした。
私が負けたのは、
“言えなかった”ことじゃなくて――
“言わなかった”こと。
あの沈黙を選んだのは、私自身だった。
でも、それを後悔していない。
言えなかった言葉の中には、
たしかに私の気持ちがあった。
あなたに届かなかったとしても、
あの夏の光と一緒に、
私の中ではまだ、生きている。
夕陽が差し込む。
焼けた腕にその光が触れる。
もう痛みはない。
だけど、少しだけ温かい。
拝啓 夏の終わりの君へ。
昨日の雨も、今日の晴れも、
どちらもあなたを思い出す理由になりました。
あなたの隣で笑っていたあの子の白さが、
私の焼けた肌を、やさしく責めてくれます。
でも、それでいい。
だって、あの日々の太陽の下で、
私はたしかに生きていたから。
言えなかったことが、
いちばん美しかった。
敬具。




