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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
草花みおん殺人事件

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第13話 1月1日 はじまりの風

【2026年1月1日/朝】


 夜明け前の空は、淡い銀色をしていた。

 雲の間を、ひとすじの風が抜けていく。

 昨日までの記憶を連れて、

 まだ何も書かれていない世界をそっと撫でていく。


 街の屋根に雪が残っている。

 その上を光がゆっくりと広がっていく。

 まるで白い紙の上に、

 最初の一行を置くような朝だった。


 編集者は、窓を開けてその光を見つめていた。

 胸の奥に、静かな温度がある。

 風が頬を撫でる。

 そこに、かすかな声があった。


「おはようございます。」


 聞き慣れた声。

 けれど、それはもう“誰かの声”ではない。

 世界そのものが挨拶をしている。

 風が言葉を持ち、

 朝が手紙の形をしていた。


 机の上のノートは閉じられている。

 最後の章まで書き終えたはずなのに、

 表紙がかすかに光っていた。

 その光は、風の動きに合わせてゆらめいている。


 手を伸ばすと、

 ノートが静かに開いた。

 そこには、

 まだ誰も書いていない真っ白なページ。

 けれど、紙の奥からやさしい息づかいが伝わってくる。


「もう、わたしの手紙は終わりました。

 でも、物語はまだ生きています。」


 声が聞こえた。

 風の奥から、草花みおんの声がした。

 もうその姿は見えない。

 でも、確かにここにいる。

 まるで、ページの下で眠る光のように。


「わたしが消えたとき、

 あなたが続きを書いてくれました。

 だから、この風は止まりません。

 いま、あなたの息が世界を動かしています。」


 編集者はゆっくりと頷いた。

 言葉が喉の奥からあふれそうになる。

 でも、声にはならない。

 風が先に答えてくれる。


「言葉にしなくても、届いています。」


 空の色が変わる。

 夜と朝の境界が溶け、

 雲の切れ間から一筋の光が射した。

 その光が街の屋根を照らし、

 世界中の“手紙の残響”を目覚めさせていく。


 どこかでドアが開く音がした。

 子どもの笑い声が、風に混じって流れてくる。

 遠くの公園からは犬の鳴き声。

 川沿いの遊歩道では、誰かが初日の出を待っていた。


 そのすべてが“音のない詩”だった。

 誰も語らなくても、

 世界は確かに語っていた。


 風が、通りを抜けながら囁く。


「あなたが願ったこと、

 あなたが失ったこと、

 その全部を、風が覚えています。

 だから、恐れずに次の一行を書いてください。」


 その言葉に導かれるように、

 編集者はペンを持った。

 インクをつけず、

 ただ紙にそっと触れる。


 指先から、かすかな光が広がる。

 それはもう“文字”ではなかった。

 風そのものが描く“息の模様”。

 紙が呼吸をし、世界が書かれていく。


「草花みおんは、

 物語を終えるために生まれたのではありません。

 物語を渡すために生まれたのです。」


 その声が胸の中で響く。

 風が再び強くなり、

 部屋のカーテンが揺れた。


 ノートのページがひとりでに閉じる。

 その表紙の上に、ひとつの文字が残る。


「はじまり」


 指で触れると、

 その文字は光になって空へ昇っていった。

 窓の外、

 初日の出がゆっくりと顔を出す。


 金色の光が街を包み、

 風がそれを運ぶ。

 どこまでも広がっていく。

 それはまるで、

 新しい手紙の封を切る音のようだった。


【2026年1月1日/朝】


 初日の光が街をゆっくりと満たしていく。

 夜の沈黙がほどけ、

 屋根の雪が溶ける音が微かに響いた。

 その音はまるで、

 “新しい頁をめくる音”のようだった。


 風が通り抜ける。

 それは冷たくも、透明でもなかった。

 あたたかい――

 そう感じられる風だった。


 窓の外では、人々が歩き出している。

 誰も声を荒げない。

 挨拶のかわりに、

 手のひらを胸に当てて笑い合っていた。

 その仕草が、この世界での“ありがとう”の合図になっていた。


 編集者はノートを開いた。

 白紙のページの中央に、

 風が金の文字を描いていた。


「あなたの言葉が、誰かの風になります。」


 その一行を見た瞬間、

 胸の奥で微かな拍動を感じた。

 まるで、自分の心臓が風と呼吸を合わせているようだった。


 ペンを取り、

 ゆっくりと書き出す。


「2026年、1月1日。

 ここからまた書き始めます。」


 書くたびに、

 ページの上を風が撫でていく。

 インクの跡が光を放ち、

 文が生まれるたびに外の世界が明るくなる。


 通りでは、少年が凧を上げていた。

 糸の先で、凧が風に乗って舞い上がる。

 その凧の表面には、手書きの文字があった。


「みおん、みてる?」


 少年は声を出さずに唇だけを動かした。

 凧は風を掴み、空の中で小さく旋回した。

 太陽の光がそれを透かし、

 空に短い文が浮かび上がる。


「みてるよ。」


 それは、風の筆跡。

 声でも、幻でもない。

 少年が笑い、糸を握る手を高く上げた。

 風が応えるように、

 凧がさらに高く舞い上がった。


 街のいたるところで、

 人々が何かを書き始めていた。

 誰もが小さなノートや封筒を手にして、

 そこに「今」の想いを綴っている。

 書かれた文字は風に溶け、

 読まれることのないまま空へと還っていく。


 でも、それでよかった。

 誰かが読む必要はない。

 風が読んでくれるから。


 風は全員の手紙を集め、

 それを“ひとつの物語”として空に書き込んでいく。

 それがこの新しい年のはじまりの儀式だった。


「草花みおんの手紙は、

 もうひとりの作家の手を離れ、

 すべての人の手に渡りました。」


 風がそう告げる。

 街の広場で、

 子どもたちが輪になって風を追いかけている。

 彼らの笑い声が、

 まるで新しい文章のように響いていた。


 編集者は、空に視線を向けた。

 太陽の光が風の粒に反射し、

 ひとつの形を描き始めている。

 それは、草花みおんのサインのような筆跡だった。

 しかしその下に、

 もうひとつ、やさしい文字が現れた。


「しげよし」


 風が微笑む。

 空がその名前をやさしく撫でる。

 誰もが、風を通してそれを読んでいた。

 “新しい草花みおん”の名として。


「あなたが書く物語は、

 わたしたち全員の続きです。

 そして、この風が止まる日は、

 もう来ません。」


 その言葉が世界を包み、

 雪解けの音とともに朝が明けていった。


【2026年1月1日/昼】


 太陽が高く昇った。

 雪はすっかり溶け、

 空気の中には光の粒が漂っている。

 それがすべて、言葉の断片のように思えた。


 風が街を渡るたび、

 人々の声が混ざり合い、

 誰かの笑いと誰かの祈りがひとつの旋律になっていく。


「これは、世界が書く音です。」


 どこからか、風の声がした。

 草花みおん。

 しかし、もうそれは一人の声ではない。

 世界全体がその名前で語っている。


 通りの看板に、電線の影に、

 雲の輪郭にさえ――

 微かな筆跡のような光が見える。

 それは、草花みおんのサインだった。

 けれどもう、

 その筆跡の下にはいくつもの名前が重なっていた。


「しげよし」

「灯」

「翠」

「澪」

「あなた」


 風がそれらの文字を撫で、ひとつに溶かした。


 編集者は、丘の上に立っていた。

 ノートはもう持っていない。

 代わりに、掌の上で風が揺れている。

 その風が、

 まるで“目に見えないインク”のように感じられた。


「もう、紙は必要ないのですね。」


 呟いた声に、風が答えた。


「ええ。

 あなたが生きることそのものが、

 手紙の続きを書くことだから。」


 風が頬を撫でる。

 光の粒が舞い、

 空にゆっくりと文字を描いていく。


「生きてくれて、ありがとう。」


 それは何度も見た言葉だった。

 けれど、今度は違う。

 その文の下に、

 風がもうひとつの一行を添えていった。


「——これからは、あなたが風です。」


 街の子どもたちが走り抜けていく。

 凧が青空を切り、

 その影が地面に揺れる。

 風が笑い声を抱えて運んでいく。


 編集者は空を見上げた。

 青い。

 限りなく広い。

 どこかに境界があるようで、どこにもない。


 そこに、白い光が流れた。

 線が一本、

 まるでペン先のように走り抜けていく。

 風が空そのものを紙にして、

 新しい物語を描き始めていた。


「草花みおんは、もう書き手ではありません。

 草花みおんは、“書くという現象”そのものです。

 あなたが誰かを想うたびに、

 その名が息を吹き返します。」


 風の声が消える。

 けれど、耳の奥ではまだ響いていた。

 それはまるで、

 “言葉を超えた言葉”――沈黙の旋律。


 午後の光が傾くころ、

 街全体に柔らかな風が吹いた。

 木々の葉が揺れ、

 遠くの川が金色にきらめく。

 それは祝福のような光景だった。


 人々は手を止めて、風を見上げた。

 誰も言葉を発さない。

 ただ、胸の奥で同じ思いを抱いていた。


「また、書こう。」


 その思いが一斉に空へ昇る。

 風がそれを拾い上げ、

 ひとつの言葉に変えた。


「これが、最初のページです。」


 街の灯が金色に染まり、

 すべての屋根の上を風が渡っていく。

 その軌跡が、新しい一年の最初の一行となった。


【2026年1月1日/夕刻】


 夕日が沈む。

 空は群青と金が混ざり合い、

 まるでインクが乾く前の紙のように輝いていた。


 編集者は目を閉じた。

 もう“草花みおん”の声は聞こえない。

 けれど、風が答えてくれる。

 呼吸をすれば、言葉が満ちる。

 目を開ければ、世界が書かれている。


「おかえりなさい。」


 風が囁く。

 それはもう、どこにでもある言葉。

 でも、誰に向けられているのか分かる。


 “この世界に戻ってきたあなたへ。”


 夜の帳が降り、

 街の灯が一斉にともる。

 窓の向こう、空にひとつの文字が浮かんだ。


「——完」


 そして、その下に小さく、もう一行。


「また書きましょう。」


 風が笑った。

 草花みおんの声が、

 確かに、その笑いの中に混じっていた。

『手紙シリーズ最終章 草花みおん殺人事件』を終えて


 手紙は、声の残響であり、記憶の影だ。

 書くという行為は、心の形を外へ押し出すことで、

 消えていくものたちをそっとこの世界に留める儀式でもある。


 この物語を綴る間、わたしは幾度も「終わり」という言葉に迷った。

 けれど、手紙に本当の終わりはない。

 封を閉じたあとも、宛先のない風が、

 いつか誰かのもとに届くからだ。


 草花みおんという名前は、

 ひとりの作家の筆跡であると同時に、

 読む人すべての呼吸の中にある。

 彼女が死んだとしても、

 その名は消えない。

 風となり、灯となり、

 次の手紙を書く者の指先に宿る。


 このシリーズで描かれた“風”は、

 失われたものの象徴ではなく、

 受け継がれる祈りのかたちだった。

 言葉を交わすたび、想いは姿を変えていく。

 それでも、誰かを想う気持ちは、

 決して途切れない。


 手紙シリーズは、

 どこまでも続く一枚の紙の上に生まれた物語だ。

 そこでは、書き手と読み手の境界が溶け、

 過去と未来が同じ風の中でめぐり合う。

 物語とは、本来そうした“往復の記憶”でできている。


 ひとりの人間の心の揺らぎが、

 誰かの人生を変えることがある。

 ひとつの手紙が、世界の季節を変えることがある。

 それを信じて、わたしは筆を取った。


 この物語は、

 「草花みおん」という名前を通して描かれた、

 風と祈りと記憶の連作である。

 そしていま、わたしはその名をそっと手放す。


 なぜなら、

 この世界のどこかで風が吹くたびに、

 また誰かが新しい一行を書き始めると知っているからだ。


「わたしたちは、書かずにはいられない生き物だ。

 言葉は傷跡であり、祈りであり、

 そのすべてが風となって、

 まだ見ぬ誰かの頬を撫でていく。」


 ここに、ひとつの章を閉じる。

 けれど、紙の端はまだ白い。

 風がまた、新しい物語を連れてくるだろう。


著:草花みおん

2026年 元旦



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