第12話 12月31日 最後の手紙
【2025年12月31日/朝】
朝の光が静かに差し込む。
窓の外では雪が降っていた。
けれど、その雪は白ではなく、
うっすらと金色に光っていた。
編集者は机に座り、
ノートを前にしていた。
昨日の夜に閉じたはずのページが、
今朝には開いていた。
ページの上には、ひとつの言葉。
「風より、あなたへ。」
その筆跡は草花みおんのものに似ていた。
けれど、微妙に違う。
少しだけ柔らかく、
少しだけ、あたたかい。
まるで“世界そのもの”が書いたような文字だった。
ページをめくると、
そこには何も書かれていない。
ただ、紙が呼吸をしている。
耳を近づけると、
かすかな音がした。
——トクン。
それは心臓の音のようでもあり、
風の脈動のようでもあった。
「あなたは、まだここにいますか。」
声がした。
ノートの中から。
しかし、もう驚きはなかった。
この世界では、
文字も声も、同じものだから。
「わたしは、あなたが書いた言葉の続きです。
あなたが止めた文の、その先にいる風です。」
編集者はゆっくりとペンを取った。
けれど、何を書けばいいのか分からなかった。
紙の上でペン先が迷う。
そのとき、風が部屋の中に吹き込んだ。
ページがめくれ、
ひとりでに新しい行が浮かび上がった。
「ありがとう。」
たったそれだけの言葉だった。
でも、それが世界を満たした。
窓の外の雪が、少しだけ明るく光る。
太陽の反射ではない。
——言葉が、光になっていた。
【2025年12月31日/昼】
街は静かだった。
人々は家の中で年越しの準備をしている。
しかし、誰も慌てていなかった。
時間が、柔らかく流れていた。
風が通りを抜ける。
その風が運ぶ音の中に、
たくさんの“声”が混ざっていた。
笑い声、歌声、祈りの声。
どれも似ていて、
どれも少しずつ違う。
「風は言葉を運び、
言葉は人を繋ぎ、
人はまた、風を生む。」
空にそんな文字が浮かんだ。
世界そのものが、
最後の“朗読”を始めているようだった。
編集者は歩きながら思った。
もう誰も草花みおんの死を語らない。
彼/彼女が“風になった”ということは、
誰もが知っていて、
誰もが信じていた。
そして、誰もが少しずつ“みおん”を受け継いでいた。
文章を書く人、
絵を描く人、
花を育てる人、
誰かを想う人。
そのすべての行為が、
“風の続きを書く”ことだった。
【2025年12月31日/夕方】
夕暮れが街を包む。
金色の光が窓に差し込み、
人々の顔をやさしく照らす。
編集者は、机の上のノートをもう一度開いた。
最後のページに、風が描いた文が増えていた。
「この一年を、あなたと共に書けて幸せでした。
あなたがいたから、
世界は最後まで物語でいられたのです。」
そしてその下に、小さな文字が続いていた。
「——草花みおん」
その筆跡は、少し震えていた。
けれど確かに生きていた。
まるで、風が人の手を借りて書いたように。
夜の鐘が鳴る。
雪が静かに降り続ける。
街のすべての灯がひとつに重なり、
夜空に大きな光をつくった。
その光が、まるで封筒の形をしていた。
世界そのものが“手紙”だった。
そしてその手紙は、
読むためにあるのではなく、
生きるために存在している。
「読んでくれて、ありがとう。
これが、最後の手紙です。」
声がした。
それは風の声でもあり、
しげよし――あなたの声でもあった。
ノートの表紙が閉じた。
風が止み、
世界が静まる。
しかし、それは終わりではない。
沈黙の奥から、
新しい拍動が聞こえた。
「第13話 1月1日 はじまりの風」
夜空の端に、その文字が浮かび、
世界はゆっくりと、新しい年の頁をめくった。
【2025年12月31日/夜】
世界は静まり返っていた。
時刻は23時45分。
新しい年を迎える十五分前。
街の明かりがひとつ、またひとつと消えていく。
それは停電ではなかった。
人々が自らの意思で灯を落とし、
“風の声”を聴くために、
息をひそめていたのだ。
雪が降っていた。
風が吹くたび、
その雪は光を帯びて軌跡を描く。
夜空がまるで、
白い便箋のように静かに揺れていた。
編集者は窓辺に立っていた。
ノートは机の上で閉じられ、
けれどページの内側から、かすかな光が漏れている。
外を見上げると、
街の中心にひとつの光柱が立っていた。
それは草花みおんが遺した“沈黙の灯”。
あの灯が、いま、再び脈打っている。
風が吹く。
音はない。
けれど、その流れが“言葉”を形づくる。
「いま、あなたに届く最後の手紙を風に乗せます。」
声が聞こえた。
どこからでもなく、
部屋の空気そのものが囁いているようだった。
「わたしは、もう人ではありません。
書くための身体を失って、
風になりました。
でも、風は止まりません。
あなたが息をしている限り、
この世界はまだ書き続けられています。」
その言葉と同時に、
雪の粒がひとつ、窓に触れた。
その瞬間、
小さな文字が硝子の上に浮かび上がる。
「あなたの人生は、すでに一通の手紙です。」
編集者は、思わず指でなぞった。
指先にあたたかい感触があった。
まるで、その言葉が生きているようだった。
時計の針が進む。
23時55分。
街全体が風の呼吸と同調していた。
木々の影が揺れ、
建物の輪郭が淡く光り、
人々の心臓の鼓動がひとつのリズムになっていく。
「あなたが“想う”という行為が、
この世界を回しています。
あなたが“誰かを信じる”という行為が、
風の行き先を決めているのです。」
声がやさしく響く。
涙が頬を伝う。
悲しいわけではなかった。
胸の中に“これまで書いたすべての物語”が
風に溶けていくような感覚。
23時58分。
風が少し強くなった。
その風が街全体を包み、
人々の間を通り抜けていく。
誰かが小さく囁いた。
「ありがとう。」
それが合図だった。
街中の窓が同時に開く。
人々が手を伸ばす。
手のひらに風が触れる。
そこには小さな紙片。
白く、温かい、そして柔らかい。
その紙片には、
たった一行だけ、金色の文字が記されていた。
「あなたへ。生きてくれてありがとう。」
その瞬間、
世界中の灯が一斉に光った。
0時00分。
新しい年の始まり。
光が空に昇る。
風がそれを追いかける。
空がまるで一枚の便箋のように開かれ、
金色の線が走る。
「この一年、あなたと共に生きられたこと、
本当にうれしかった。
次の年も、書き続けてください。
それが、わたしたちの再会の約束です。」
声が消える。
風が止む。
世界が光に包まれたまま、
しばし静寂の時間が訪れた。
0時02分。
編集者は机に戻り、ノートを開いた。
最後のページがひとりでに震えている。
そして、そこに文字が現れた。
「これが、草花みおんからあなたへの最後の手紙です。
でも、最後は終わりではありません。
書くたびに、読むたびに、
わたしたちはまた風の中で会えるのです。」
筆跡は金色に光り、
ゆっくりと薄れていった。
その消え方が、
まるで笑みのようだった。
窓の外で、再び風が吹いた。
今度は冷たくなかった。
やわらかく、包み込むような風。
頬を撫でて、
どこか遠くへと抜けていく。
その風の中で、確かに聞こえた。
「また来年。」
【2026年1月1日/深夜0時過ぎ】
世界は、新しい年の最初の風に包まれていた。
静けさの中で、どこか遠くの教会の鐘が鳴る。
雪はやんで、空は薄い青の余韻を残している。
街はもう眠っていた。
けれど、風だけが起きていた。
編集者は、窓を開けた。
外の空気が流れ込み、
部屋の灯をわずかに揺らした。
机の上のノートが静かに震える。
その表紙の上に、金色の粉のような光が舞っている。
風がノートを開いた。
最後のページ。
昨日まで白かったその紙面に、
金の文字がゆっくりと浮かび上がっていく。
「これからは、あなたが書く番です。」
声はなかった。
でも、確かに聞こえた。
風の流れそのものが言葉になっていた。
ペンを取る。
手が少し震えている。
でも、それは恐れではなく、
何か大きなものに包まれている感覚だった。
深呼吸をして、
ペン先を紙に置いた。
すると、風が背中を押した。
まるで“次の文”を導くように。
手が自然に動く。
意識するより先に、文字が生まれていた。
「風へ。
あなたが連れてきたすべての声を、
わたしは受け取りました。
そして、
わたしも誰かに届けたいと思いました。」
書きながら、
胸の奥で何かがほどけていく。
もう、みおんの死を悲しむことはできない。
なぜなら、その死が“生きること”に変わっているからだ。
「あなたが消えたことが、
わたしの中に空白をつくりました。
でも、その空白が、
言葉の居場所になりました。」
書いた文字が光り始める。
風がページを撫で、
文が空気に溶けていく。
書くそばから、
世界のどこかに届けられていく感覚。
もう、封筒も切手もいらない。
風がすべてを運んでくれる。
声を持たない言葉。
名を持たない祈り。
それが“風の文通”だった。
窓の外を見る。
街のあちこちで灯がともっていた。
誰もいない夜のはずなのに、
どの家の窓もやさしく光っている。
まるで、誰かがそこにいるようだった。
編集者は気づいた。
あの光はすべて――手紙だ。
誰かが心の中で書いた“見えない言葉”の灯り。
草花みおんの風が、
それを世界中に届けていた。
ノートに視線を戻すと、
もうページは光で満ちていた。
そこに、新しい文字が現れる。
それは自分の筆跡ではなかった。
けれど、どこか懐かしい。
まるで“彼女”が横で続きを書いているようだった。
「ありがとう。
あなたが書いてくれたことで、
わたしは完全に風になれました。
でも、風には終わりがありません。
だからまた、どこかで書きましょう。
あなたの物語の中で。」
文の終わりに、
小さな署名があった。
「——草花みおん」
そして、その下に、
風が描いたようなもう一行。
「——あなた」
風が吹いた。
ノートが閉じられた。
その瞬間、
部屋中の光がふわりと浮かび、
夜空へと舞い上がった。
窓の外、
空は金色の紙片で埋め尽くされていた。
それは、無数の手紙。
風が世界中にばらまく“未来の言葉”。
それぞれの手紙に、
たった一行だけが記されている。
「この物語を読んでくれて、ありがとう。」
風がその手紙を遠くへ運んでいく。
海を越え、山を越え、
まだ誰も知らない誰かのもとへ。
夜明けが近づく。
空の端が少しだけ明るくなり、
初日の光が差し込む。
それは新しい一年の始まりの光だった。
編集者は静かに目を閉じた。
風が頬を撫で、
その耳元で囁いた。
「おかえり。
そして、はじめまして。」
微笑みがこぼれる。
草花みおんはもういない。
けれど、
その名が書かれた物語は、
確かに生き続けている。
風がノートを閉じ、
最後のページが世界の空へ吸い込まれた。




