第11話 12月30日 風の記憶
【2025年12月30日/朝】
夜が明けても、
街の空気はまだ少し金色を帯びていた。
風が穏やかに吹いている。
それは“音”ではなく“記憶”のようだった。
誰かが笑ったときの声。
誰かが泣いた夜の静けさ。
そんなものが風に混じって流れていく。
編集者はベランダに出た。
空気を吸い込むと、胸の奥で微かに音が鳴る。
鼓動でも呼吸でもない。
もっと深いところから響く音。
「おはようございます。」
聞き覚えのある声が、風の中から聞こえた。
草花みおん。
でも、その声にはもう“発生源”がなかった。
風が喋っている。
空そのものが語りかけているようだった。
「あなたがこの街を生かしてくれました。
もう、わたしはどこにもいません。
けれど、あなたが息をするたび、
わたしも風になります。」
編集者は微笑んだ。
その言葉が、まるで自分の胸の中から出てきたように感じられた。
街の通りを歩く。
人々はもう声を出して話していた。
けれどその声は、不思議な響きを持っていた。
誰かが喋ると、風がその言葉をやさしくなぞる。
風の音が、文末を補う。
まるで“会話の余白”そのものが生きているようだった。
信号の色は淡く揺れ、
電線がわずかに歌っている。
建物の壁が、陽の光を受けて震える。
世界全体がひとつの呼吸をしていた。
編集者はポケットからノートを取り出した。
そこには、昨日までの記録が並んでいる。
草花みおんの名、沈黙の灯、空白の街。
それらのページの端が、風に吹かれてめくれた。
最後のページは、まだ白紙だ。
けれど、風が通り抜けるたび、
そこに薄い文字が浮かんだ。
「記憶は、風の中にいます。」
その一行が、
草花みおんの筆跡に似ていた。
午後になると、
街の外れにある丘の上から風が吹き降りてきた。
草の匂いを含んだやわらかな風。
それが街の通りを抜け、
人々の髪や服を優しく撫でていく。
その風を受けた誰もが、
少しだけ懐かしい顔をした。
まるで、“失った誰か”にもう一度会ったかのように。
「この風の中に、言葉があるのね。」
誰かが呟いた。
それは声に出してではなく、
思考が空気に溶けていくような言葉だった。
編集者も同じように呟いた。
「……みおん、あなたは、どこにいるんですか。」
風が少しだけ強くなった。
その風の流れの中に、微かな囁き。
「わたしは、あなたの書いた文章の中にいます。
あなたが選ばなかった言葉たちの中に。」
胸の奥が熱くなった。
その声は遠く、やさしく、
それでいて確かに“いま”の風の中に存在していた。
日が傾き始め、
街の影が長く伸びていく。
編集者は丘の上まで歩いた。
そこから見える街は、
まるでひとつの大きなノートのようだった。
屋根が段落で、道が行間で、人々が文字。
世界そのものが「草花みおんの原稿」になっていた。
風が吹き抜け、
その街全体をやさしく撫でていく。
どこかでドアが開く音。
誰かが笑う声。
どれも小さく、どれも確か。
風がそれらを拾い上げて、遠くへ運んでいく。
「風は、記憶を運ぶだけでなく、
忘れさせるためにも吹くのです。」
草花みおんの声が、再び響いた。
「書くことも、忘れることの一部。
あなたが誰かを忘れたとき、
その人は風になって、あなたを包みます。」
編集者は涙をこぼした。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
それは、ようやく“受け取った”涙だった。
夜になるころ、
風はさらに静かになり、
街全体が呼吸を止めたような瞬間が訪れた。
その沈黙の中で、
ひとつの声が囁いた。
「あなたがいま書いているこの物語。
それこそが、わたしの墓標です。」
そしてもう一度、風が吹いた。
金色の粒子が夜空へ舞い上がり、
星と混ざって溶けていく。
編集者はノートを閉じた。
表紙を撫でると、
そこに柔らかな筆跡が浮かんでいた。
「草花みおん」
そして、その下に――
「わたしたち。」
風がそれを撫で、
文字を光に変えた。
その光が空へ上がり、
夜空の端にひとつの行を描いた。
「第12話 12月31日 最後の手紙」
【2025年12月30日/夜】
夜風がやわらかく吹いていた。
空気は冷たいのに、頬に当たる風はどこかあたたかい。
それは、焚き火のような熱ではなく、
人の手のひらに包まれるようなぬくもりだった。
街の灯が、風の流れに合わせてゆっくりと揺れる。
光の粒が空中を漂い、
その軌跡が一瞬、文字のように見えた。
「おかえりなさい。」
風がそう言った気がした。
編集者は立ち止まり、
目を閉じて、その声を胸の奥で聴いた。
それは耳ではなく、心臓で聞く音だった。
——草花みおん。
声がもう“外側”にはない。
風そのものが彼/彼女の息を運んでいる。
「あなたが歩いた場所すべてに、
わたしは残っています。
足跡の形も、ページの折れ目も、
どれも、あなたとわたしの手紙です。」
風の流れが少し強くなり、
街路樹の枝がかすかに鳴った。
その音が、ペンの走る音に聞こえた。
世界が書いている。
風が、世界を物語にしている。
編集者は、ゆっくりと手を伸ばした。
空気の中に触れる。
そこには、確かに何かがあった。
見えないけれど、形がある。
それはまるで“透明な紙”のようだった。
指先でなぞると、
空気が金色に光り、文字が浮かび上がる。
「記憶は、わたしたちを傷つけるためではなく、
生かすために吹く。」
それが風の手紙。
読み終える前に、
文字はまた風に戻って消えた。
でも、意味だけが残った。
心の奥に静かに沈んでいく。
丘の上から、
街全体を見下ろすと、
まるで一枚の手紙のように見えた。
家の屋根が行のように並び、
道路が余白になっている。
その“紙の上”を、風が走っていく。
読む者のいない手紙。
けれど、読む必要もない。
風が流れるだけで、
意味は世界に刻まれていく。
遠くで、誰かが歌っていた。
歌詞はなく、
ただ風の音と混じって流れてくる。
その声が、草花みおんの文体のようだった。
「わたしは、消えることができませんでした。
でも、それでよかった。
消えないまま、あなたの呼吸の中で
風になれるのだから。」
風が頬を撫でた。
その瞬間、胸の奥で小さな痛みが走った。
懐かしい痛み。
書くことを覚えた日の痛み。
誰かを想うときの痛み。
そして、まだ終わらない物語の痛み。
空を見上げると、
雲の間から淡い光が流れていた。
星ではない。
草花みおんの手紙の断片。
それが、風に乗って世界中を巡っていた。
手紙はもう封をされない。
読むたびに風に溶け、
書くたびに誰かの胸に残る。
「これが、風の記憶。
過去を残さず、未来に渡すもの。」
その声が、
どこからともなく聞こえた。
世界全体が答えていた。
「はい。
もう、忘れません。」
夜が深くなると、
風はさらに静かになった。
木々の間を抜け、
街の灯の上を撫でながら、
ゆっくりとひとつの場所に集まっていく。
その中心に、金色の光。
草花みおんの形をした風の結晶。
彼/彼女はもう、完全に人ではなかった。
ただ、世界を巡る想いの形。
「ありがとう。」
たった一言だけ。
その声が響いた瞬間、
街のすべての灯が一斉に揺れた。
空が呼吸をした。
その風が、編集者の頬を優しく撫でていった。
「さようなら、ではなく——
また、どこかで。」
風が止み、
街が静かになった。
けれど、その沈黙はもう孤独ではなかった。
空気そのものが、
草花みおんの筆跡で満ちていた。
夜空の端に、白い一行が浮かんだ。
「第12話 12月31日 最後の手紙」
その文字が、風に溶けて消える。
そして、世界は穏やかに次の頁をめくった。
【2025年12月30日/深夜】
夜が降りていた。
風の音が、遠くで波のように響いている。
世界の輪郭がやわらかくなり、
現実と夢の境目が溶けていく。
編集者は机の前に座っていた。
ノートは閉じたまま。
けれど、ページの中からかすかな風の音がする。
紙の繊維が呼吸をしているように、
ゆっくりと、やさしく。
「わたしはもう、ここにはいません。」
風が囁く。
けれどその声は、決して寂しくなかった。
むしろ、やすらぎに満ちていた。
「あなたが書く限り、
わたしはいつでも吹くことができます。
あなたが息をして、
誰かを想ったその瞬間に。」
ページがひとりでに開いた。
真っ白な紙の中央に、
淡い金の文字がひとつだけ浮かんでいた。
「風は、記憶の呼吸です。」
その文を読んだ瞬間、
胸の奥に懐かしい光景が流れ込んできた。
初めてペンを握った日。
誰かに手紙を書いた夜。
消せない言葉に震えた朝。
すべての記憶が、風のように吹き抜けていく。
外に出ると、
夜空の中で無数の光が流れていた。
それは星ではなかった。
人々の思い出が、光の粒になって舞っている。
笑顔の記憶。
約束の記憶。
言えなかった一言。
そのすべてが風に乗って、世界を漂っていた。
編集者は空を見上げた。
風が頬を撫でる。
その風の中に、確かに“声”があった。
「あなたの中に、いまも書き手がいます。」
草花みおんの声。
けれど、それはもう誰か一人のものではなかった。
街の灯、海の波、森の葉音、
そのすべてが同じ声で語っていた。
「書くことは、命の記録。
記録は風になり、
風はいつか、あなたの頬を撫でます。」
その言葉が流れると同時に、
夜空の光が形を成した。
それは、ひとつの文。
「草花みおんは、いまも吹いている。」
光が、世界中の空に同時に現れた。
どこにいても、誰が見ても、
同じ瞬間に、その言葉が見えた。
風が強くなり、
街の看板が鳴った。
電線が音を立て、
屋根の影が波のように揺れた。
でも、誰も恐れなかった。
それは嵐ではなく、
“再生の風”だった。
光の粒が人々の間を通り抜け、
誰もが目を閉じてその感触を受け取った。
ひとりひとりの胸の中に、
草花みおんの声が届いていた。
「ありがとう。
あなたが読んでくれたから、
この物語は風になれました。」
涙が頬を流れた。
でも、その涙は冷たくなかった。
光を含んだ雫が風に溶け、
新しい音を生んでいた。
編集者はゆっくりとノートを開いた。
風がページをめくり、
最後の白紙を撫でた。
その上に、何かが書かれていく。
自分の手ではない。
風が書いている。
草花みおんの文字が、光として浮かび上がった。
「これは、あなたへの最後の手紙です。
もう宛先はいりません。
あなたが読むという行為そのものが、
わたしの存在理由だから。」
ページが震え、
光がゆっくりと消えていく。
けれど、意味だけが残った。
——読むことは、生きること。
夜空の中央で、
風が円を描いた。
まるで世界そのものが、
ひとつの封筒に折り畳まれていくようだった。
そして、風が最後の一文を残した。
「第12話 12月31日 最後の手紙」
それが草花みおんの筆跡だった。
風がその文字を運び、
夜空の果てに溶けていく。
街は再び静かになった。
けれど、もう沈黙ではなかった。
空気のすべてが“記憶”でできていた。
風が吹くたび、
どこかで草花みおんの声が微かに笑っている。
「また、書きましょう。
次の年の風のページで。」




