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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
草花みおん殺人事件

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第9話 12月28日 空白の街

【2025年12月28日/朝】


 目を開けた瞬間、世界から「濃度」というものが抜け落ちているのが分かった。


 色が消えたわけじゃない。


 もっと厄介な——「意味」のほうが薄くなっていた。


 カーテンを開ける。


 窓の外に広がるのは、見慣れたはずの街並みだった。


 なのに、ビルの輪郭は鉛筆で下書きした罫線みたいに淡く、


 道路は光だけで縁取られた白いマス目になっている。


 看板もロゴもない。


 スーパーのロゴも、チェーン店の赤い看板も、


 電光掲示板のニュースの文字さえ、すべて真っ白な長方形に戻っている。


 ——名を失った昨日の続きだ、と編集者は思った。


 ただひとつ違うのは、


 その「白」が、今朝はほんの少しだけ温度を帯びていることだった。


 冷たい紙の白ではない。


 誰かが書き損じた文字を消しゴムでこすったあとの、


 じんわりとした摩擦熱の残る白。


 胸の奥が、わずかに疼く。


 机の上のノートを開く。


 昨日まで書き連ねてきたはずの文字は、きれいに消えていた。


 ただ、ページの真ん中に、ボールペンの筆圧だけが残っている。


 ——ここに、たしかになにか書いてあった。


 そう証言する「跡」だけが、白い紙の中に沈んでいる。


 編集者はペンを握った。


 何を書けばいいのか分からない。


 この白の上に、もう一度「名前」や「タイトル」を載せていいのかどうかさえ、自信がない。


 それでも、ゆっくりと一行だけ記す。


「2025年12月28日 空白の街を歩く。」


 書き終えた瞬間、


 インクの黒がかすかに震え、その輪郭が窓のほうへとにじんでいく。


 窓の外の白が、一瞬だけ濃くなった。


 ——書いたことが、そのまま世界に反映されている。


 背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が、遅れてやって来る。


 


【2025年12月28日/午前】


 外に出ると、街は「声の消えた休日」のように静かだった。


 人影はある。


 買い物袋を下げた女性。


 携帯を耳に当てたスーツ姿の男。


 小さなリュックを背負った子どもの背中。


 でも、彼らの輪郭はすべて薄く、


 目を凝らすと、紙に描かれたスケッチの線のように頼りなくなっていく。


 挨拶は交わされない。


 けれど、すれ違うたびに胸の奥がわずかに震えた。


 ——「おはよう」に似た振動。


 音にはならない。


 それでも、言葉になりそこねた呼びかけだけが、


 この街の空気を静かに揺らしている。


 角を曲がると、白い郵便ポストが立っていた。


 形だけは見慣れたポストなのに、


 番号もロゴも消え、投函口だけがぽっかりと開いている。


 中を覗くと、白い封筒がいくつも積もっていた。


 どれも宛名は空白。


 差出人も空白。


 ただ封のところに、細い金色のインクで、


 共通の一行だけが書かれている。


「——この街を出たい人へ」


 編集者は、一通をそっと取り出した。


 封を切ると、冷たい空気が指先から腕へと登ってくる。


 中には、真っ白な便箋が一枚。


 何も書かれていない——はずなのに、


 目を閉じると、読み慣れた文体が頭の中に流れ込んできた。


『こんにちは。


 ここまで来てしまったということは、


 あなたはもう、「名のない世界」の最低限のルールを知っているはずです。


 ——書かなければ、消える。


 ——書きすぎても、消える。


 今、あなたがこの白紙を「手紙」だと思って読んでいるという事実だけが、


 この街の一部を、ぎりぎりのところで踏みとどまらせています。


 どうか覚えておいてください。


 空白は、何もない場所ではありません。


 そこにはいつも、「書かれなかった物語」が折りたたまれています。


 あなたが次の一行を書かなければ、


 この街は、ゆっくりと閉じていきます。』


 草花みおんの声だ、と思った。


 でも、どこにも名前はない。


 便箋の右下に、インクの痕跡だけが残っていた。


 消しゴムで消したあとみたいな、かすかな曲線。


 そこにかつて署名があったことを、


 紙だけが覚えている。


 編集者が顔を上げると、


 ポストの隣の白いベンチに、人影がひとつ座っていた。


 フード付きのコート。


 顔は影になって見えない。


 だが、その身体の傾け方。


 膝の上でノートを支える手つき。


 ペン先を浮かせたまま、まだ書くかどうか迷っているしぐさ——。


 見慣れた姿勢だった。


「……草花さん?」


 思わず、声にならない声で呼ぶ。


 フードの中の影が、かすかにこちらを向いた。


 唇の輪郭だけが、紙の上の線のように浮かぶ。


『この街では、名前は呼べません』


 音にはならないのに、意味だけが鮮明に届く。


『名前を呼んだ瞬間、その人は“ひとりの作者”に閉じてしまうから。


 いま、わたしたちはみんな、


 ひとつのペンネームに閉じ込められた“誰かたち”の残響なのです』


「“わたしたち”?」


 問いかけると、影は、すこしだけ首を傾げた。


『あなたも、含めて』


 そのとき、ポストの中の封筒が一枚、風にあおられて舞い上がった。


 編集者の足元に落ちる。


 他の封筒と違うところが一つだけあった。


 金色のインクで、短くこう書かれている。


「——次の語り手候補へ」


 胸が、嫌な音を立てた。


 封筒をひっくり返す。


 裏面には何もない。


 中身を確かめようと思えば、今すぐにでもできた。


 けれど編集者は、指を止めた。


 開いた瞬間、何かが「決定」してしまう。


 その予感が、指先を凍らせる。


 代わりに、ポケットから自分のノートを取り出した。


 白いページを開き、震える手で一行だけ書く。


「わたしはまだ、読者でいたい。」


 書いた瞬間、ベンチの影がふっと笑った気がした。


『そのわがままが、いちばん大事です』


 影の輪郭が、紙の端から削り取られるみたいに薄くなっていく。


『でも、この街は長くは保ちません。


 “空白の街”は、読まれなかった物語でできているから』


 最後の言葉だけが、風に刺さって残った。


 次の瞬間、ベンチにはもう誰もいなかった。


 編集者の手の中には、


 「次の語り手候補へ」と書かれた封筒だけが残っていた。


 


【2025年12月28日/午後】


 広場に出ると、街の中心に、巨大な白いビルがそびえ立っていた。


 看板もロゴもない、真っ白な塔。


 近づいてみると、その表面には、


 極細の文字が無数に刻まれているのが分かった。


 顔を寄せる。


 そこに刻まれているのは、


 すべて「途中まで書かれた一文」だった。


「もしあのとき、あなたにあの言葉を——」


「ごめん、と言えないまま、世界が——」


「来世で会えたなら、今度こそ——」


 一文ごとに、途中でぷつりと途切れている。


 どの行にも、文末の「。」がない。


 世界に投げ出されなかったまま、


 送信ボタンを押されなかったまま、


 ポストに投函されなかったまま。


 死んでいった言葉たち。


 ビルの壁一面が、


 そんな「未完の文」で埋め尽くされていた。


 編集者が指で一行をなぞると、


 細い文字が、わずかに金色に光る。


 途切れた先の言葉が、


 胸の奥に直接流れ込んできた。


「——ちゃんと好きだと言う」


 それは、見知らぬ誰かの後悔だった。


 指先がじんと痛くなる。


 すべての未完の文には、


 必ず「本当の続き」があったことを知らされるからだ。


 けれど、その続きは、


 この街のどこにも「文字」としては存在しない。


 あるのは、読み手の胸に残った、


 重たい沈黙だけ。


 ビルの壁に刻まれた無数の途切れた文が、


 静かな合唱のように見えた。


 ーーここで止まってしまった息を、


 誰が引き継ぐのか。


 広場の中央には、白い標識が立っていた。


 矢印だけが描かれた看板。


 どの矢印にも、地名はない。


 代わりに、矢印の下に、こう記されている。


「・読みかけの手紙たちの区画


 ・送信されなかったメールの区画


 ・下書き保存されたままの小説の区画


 ・『いつか書こう』と思ったままの物語の区画」


 どの区画も、同じくらい遠くて、同じくらい近い。


 どこへ行ってもきっと、


 誰かの「言えなかった」が路地裏に積もっているのだろう。


 編集者は、標識のいちばん下の余白に、小さく書き足した。


「・自分が“切り捨ててきた”物語の区画」


 書いた瞬間、その文字だけが強く金色に光った。


 次の瞬間、光はすっと引いて、


 何も書かれていなかったかのように消える。


 ——この街は、「自分だけの後悔」を、長く留めてはくれない。


 そう理解したとき、


 どこか遠くで、紙を破くような音がした。


 耳ではなく、足の裏で聞いた。


 視線を上げると、


 遠くのビルのひとつが、静かに輪郭を失っていくのが見えた。


 文字を刻まれた壁が、上から順に白い灰になって崩れ、


 空の余白に混ざって消えていく。


 ——どこかの「未完の物語」が、


 本当に誰にも思い出されなくなったのだ。


 心臓の奥が、ひゅっと冷たく縮む。


 この街は、


 誰かが「思い出し続けているあいだだけ」存在を許されている。


 誰も読まなくなった物語は、


 誰も思い出さなくなった手紙は、


 こうして静かに、空白へと回収されていく。


 それを「救い」と呼ぶか、「死」と呼ぶか。


 編集者はまだ、その判断を下せずにいた。


 


【2025年12月28日/夕方】


 日が傾くと、街全体が一枚の巨大な原稿用紙に見え始めた。


 ビルたちは段落記号。


 道路は行間。


 人々は、句読点の位置を迷っているペン先のように、あちこちをさまよっている。


 カタ……カタ……カタ……


 どこからともなく、キーを打つ音の残響が聞こえた気がした。


 聞き覚えのあるリズムだった。


 締切前、受話器の向こうで聞いた打鍵の速さ。


 草花みおんが、笑いながら「もうちょっとだけ」と言い訳したときのあの音。


 音のする方へ歩いていくと、


 そこには窓だけが並んだ、奇妙な建物があった。


 ドアはない。


 ただ四角い窓がずらりと並び、


 それぞれの窓ガラスに、別々の「途中の場面」が映っている。


 ベランダで空を見上げる女。


 病室のベッドで手紙を書こうとしている少年。


 送信ボタンの前で固まったままのSNS画面。


 一つひとつが、


 どこかで「書かれかけて、途中で止まった物語」だ。


 編集者は、ふとひとつの窓に目を奪われた。


 そこには、自分の部屋が映っていた。


 机。


 ノート。


 白いページ。


 ノートの上には、


 さっき自分が書いたはずの一行——


「2025年12月28日 空白の街を歩く。」


 その文字が、ゆっくりと薄くなっていくところだった。


 消しゴムでこすられているわけでもないのに、


 インクが紙の奥へと吸い込まれていく。


 たった一行の記録さえ、


 この街は長く留めてはくれない。


 このまま何もしなければ、


 自分がここを歩いたことさえ、「なかったこと」になる。


 吐き気にも似た恐怖が、喉の奥を駆け上がる。


 彼/彼女は編集者だ。


 これまでずっと、


 「残すべき物語」と「切り捨てるべき言葉」を選んできた。


 その判断が、


 いくつもの物語を救い、いくつもの物語を殺してきた。


 ——いま、同じことを、自分に対してもするのか。


 窓の中のノートの文字が、ほとんど見えなくなったとき、


 編集者は思わず走り出していた。


 


【2025年12月28日/黄昏】


 気がつくと、「街の端」に立っていた。


 そこから先は、何もない。


 白でも、金色でもない。


 ただの「未定義」。


 足元ぎりぎりのところで、世界が終わっている。


 その境目に、一段だけ高くなった白い台があった。


 原稿用紙の下端から、たった一行ぶん飛び出した余白のような台。


 上には、一本のペンが置いてある。


 黒でも青でもない。


 透明な軸の中に、細かな光の粒が詰まっている。


 近づくと、ペンの側面に細い文字が刻まれているのが分かった。


「——ここから先を、書いてください。」


 ペンを持ち上げた瞬間、世界がわずかに揺れた。


 ビルの輪郭がふるえ、


 空とのあいだに薄いひびが入り、


 遠くの通りで、いくつかの建物が静かに崩れ落ちる。


 ——時間切れだ。


 誰かが、最後まで書けなかった物語が、


 いまこの瞬間にも回収されている。


 編集者は、台の上の白い板にペン先を置いた。


 頭の中が真っ白になる。


 何を書けばいい。


 自分の名前か。


 草花みおんの名前か。


 あるいは、どちらでもない何かか。


 名前を刻むということは、


 そこに「境界線」を引くことだ。


 いま世界は、必死で境界線を溶かそうとしているというのに。


 迷いの中で、ペン先が勝手に動き始めた。


 自分の意志というより、


 誰かの「読みたかった一行」が、指先を通して流れ出している感覚。


 透明なインクが、板の上に文字を描いていく。


「ここにいる。


 名を持たないまま、


 それでも誰かを想っているわたしたちが。」


 書き終えた瞬間、その一行がまぶしいほどの金色に燃え上がった。


 光は炎ではなく、「灯り」のかたちをしていた。


 板の上からふわりと浮かび、


 編集者の胸の高さで止まる。


 掌で包み込むと、それは、小さなランプだった。


 音はない。


 けれど、はっきりと「鼓動」を持っている。


 ——沈黙の灯。


 名前を付けた瞬間、光がさらに強くなった。


 世界が、ほんの少しだけ色を取り戻す。


 遠くのビルの輪郭が濃くなり、


 崩れかけていた塔のいくつかが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。


 街全体が、


 「まだ終わらない」と言っているようだった。


 


【2025年12月28日/夜】


 夜が降りても、空白の街は「黒」にはならなかった。


 紙の裏側から灯りを透かしたような、


 淡い金色の夜。


 家々の窓に、小さな光がぽつぽつと灯っている。


 それぞれの光は、「言葉にならなかった祈り」の数だけある。


 編集者は、自分の胸の前で、


 黄昏に生まれた小さな灯りをそっと掲げた。


 光は静かに脈打ち、その拍動が胸の鼓動と重なっていく。


 街のどこかで、


 同じリズムで灯る光がいくつもあるのが分かる。


 ——ああ、みんな、生きている。


 名前を呼ぶこともできないし、


 顔も輪郭もあいまいなままだけれど、


 確かに「ここにいる」と言い続けている誰かたちがいる。


 ふと、空から、白い紙片がひとひら舞い降りてきた。


 雪でも、灰でもない。


 便箋の切れ端。


 そこには、たった一行だけが書かれていた。


「この物語をここまで読んでしまったあなたへ。」


 編集者は顔を上げた。


 夜空のあちこちで、同じような紙片がひらひらと舞っている。


 紙はゆっくりと光に変わり、星のように空に貼り付いていった。


 やがて、すべての紙片が集まり、


 空の上に巨大な文字を形づくる。


「——次の灯りを、ともすのは誰ですか。」


 その問いは、


 明らかに「読者」に向けられていた。


 編集者は、自分の灯りを胸に押し当てる。


「わたしは、まだ“読者でいたい”と言った。


 でも——」


 言葉を選ぶ。


 今度は、誰のためでもなく、自分自身のために。


「そのわがままを抱えたまま、


 少しだけ“書き手”にもなってみる。」


 胸の灯りが強く光る。


 世界のどこかで、


 同じ決意をした誰かの灯りが、遠く応えた気がした。


 空白の街は、もうただの「無」ではない。


 それは、


 書かれなかった物語と、


 書こうとしてまだ震えている指たちと、


 すでに読み終えたのに、まだ手放さずに抱えている読者たちの、


 集合体だった。


 街の端の白い台には、もうペンは置かれていなかった。


 代わりに、編集者の指先そのものが、


 ほんのりと光を帯びている。


 


 夜更け。


 編集者ははっきりと理解した。


 ——ここから先は、世界そのものが「手紙」になる。


 胸の灯りが、


 次の頁へと、静かに世界を押し出していった。




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