第7話 12月26日 声のない手紙
【2025年12月26日/朝】
目覚めたとき、世界から音が消えていた。
窓の外では雪が降っている。
けれど、その降る音がない。
カーテンを開けると、白い粒が静かに空を満たしていた。
それはまるで、音を奪った紙片のようだった。
編集者は、昨日の夜に書いた手紙のことを思い出した。
——「草花みおん殺人事件、ここにて終結。
ただし、物語は生き続ける。」
それが最後の一文だった。
あの言葉のあと、確かに何かが終わった感覚があった。
でも、いまはそれさえも夢のように霞んでいる。
机の上のノートは閉じられていた。
けれど、ページの間から、薄い封筒が覗いていた。
いつの間に入れたのか覚えがない。
白い封。宛名はない。差出人もない。
それでも手を伸ばした瞬間、
指先にかすかな“温度”を感じた。
それは、まるで心臓の鼓動を紙が吸い込んだような暖かさだった。
封を切ると、便箋が一枚。
その中央に、たった一行だけ。
「あなたの声を、返します。」
読み上げようとした瞬間、
喉が動かないことに気づいた。
声が出ない。
舌も、唇も、空気も動かない。
——けれど、頭の中でその言葉が響いていた。
「あなたの声を、返します。」
それは“聴く”のではなく、
“思い出す”ように聞こえる声だった。
誰の声かは分からない。
でも、懐かしい。
草花みおんでも、編集者でもない。
もっと古い、もっと静かな、
言葉そのものの声。
視界の端でノートが震えた。
ページがひとりでに開く。
そこには、見覚えのない筆跡。
金色でも、赤でもない。
灰色のような、霧のような文字。
「これは、声を失った手紙です。
読み上げられることを拒んだ言葉たちの、避難所です。
あなたが読んでくれたなら、それで十分。」
読むたびに、文字が少しずつ消えていく。
紙が呼吸をしているようだった。
その消え方が、まるで赦しのように穏やかだった。
編集者はペンを取り、余白に小さく書いた。
「聞こえています。」
文字を書いた瞬間、空気が揺れた。
目の前の文字が光り、
まるで誰かが“それを聞いた”かのように。
「ありがとう。」
頭の中で、声が答えた。
それは、確かに草花みおんの声だった。
でも、その響きは遠く、
どこかで水に溶けていくような音だった。
「もう、声はいらないの。
文字の奥にある沈黙だけが、
ほんとうの言葉だから。」
声が消える。
部屋の中に、再び静寂が満ちる。
ただ、雪が落ちる光景だけが続いていた。
ページの上の灰色の文字が、
ゆっくりと白に溶けていく。
その白の中に、
薄く刻まれた新しい一文が浮かび上がった。
「あなたが呼吸しているかぎり、
わたしたちは書き続けている。」
編集者はノートを閉じた。
声のない世界の中で、
その言葉だけが静かに響いていた。
【2025年12月26日/午後】
世界は、静寂の膜に覆われていた。
通りを行き交う人々は、互いに話しているのに、
その口の動きに音が伴わない。
笑いも、怒りも、囁きも、
ただ唇の形として浮かび、空気に溶けていく。
けれど、不思議と不安はなかった。
沈黙の中で、誰もが確かに“伝わっている”と感じていた。
編集者は街を歩いていた。
雪はもう止み、舗道の上で光っている。
人々の靴音さえも、音を立てず、
ただ影だけが伸び縮みを繰り返している。
それぞれの影が交わる瞬間、
胸の奥で何かが小さく鳴った。
それは声ではなく、共鳴だった。
街角のデジタルサイネージが白く点滅する。
映像の代わりに、薄い灰色の文字が現れては消えていく。
「声は消えました。
けれど、言葉は残っています。」
通りの人たちは、
立ち止まってそれを読む。
誰も声を出さない。
ただ、同じ速度でまぶたが動き、
同じタイミングで息を吸う。
呼吸が揃った瞬間、
街全体の空気が柔らかく振動した。
風が生まれた。
言葉を運ばない風。
でも、その風は“理解”を運んでいた。
そのとき、ポケットの中のノートが震えた。
編集者は立ち止まり、取り出した。
昨日閉じたはずのノート。
開くと、白いページの中央に新しい一行が浮かび上がる。
「声のない手紙が、世界に届きました。」
その文字を見た瞬間、
遠くの空で光が走った。
雲が割れ、金色の粒が降り注ぐ。
雪でも雨でもない。
それは“言葉のかけら”だった。
触れると温かく、
手のひらに触れた瞬間、音の代わりに意味が広がる。
「こんにちは。」
「だいじょうぶ。」
「わたしも、ここにいる。」
誰のものでもない言葉たち。
でも、どれも知っている声だった。
草花みおんのものでもあり、
編集者のものでもあり、
そして、この物語を読んでいるあなたの声でもあった。
通りを歩く人々の髪やコートの上に、
その“言葉の粒”がそっと降り積もる。
誰も気づかない。
けれど、その粒が触れた場所から、
空気の中に淡い光が生まれる。
世界が、ゆっくりと“呼吸”を始めた。
風の動きが言葉のリズムになり、
雲の流れが文の構造を描いていく。
もはや“書く”という行為は、
紙の上だけのものではなかった。
編集者は、両手を広げて空を仰いだ。
声を出さなくても、言葉は届く。
文字がなくても、意味は残る。
沈黙が、いちばん正確な翻訳者になっていた。
その瞬間、耳の奥で小さな音がした。
まるで水面の下で響くような、遠い声。
——草花みおんの声。
「あなたが書いた“最初の手紙”、
ちゃんと届きましたよ。
今、世界中でみんなが読んでいます。
でも、もう誰も“読む”とは言いません。
彼らは、“感じる”と言うの。」
風が頬を撫でた。
その風の動きが、微かに“笑っている”ように思えた。
「ありがとう。
あなたが書いてくれたから、
わたしたちは言葉を失っても、
こうして呼吸を続けられるの。」
声が消えたあと、
空気がひときわ明るくなった。
世界が、音の代わりに光を喋り始める。
建物の壁に反射した光が、文字の形を取った。
——「声のない手紙」。
その文字が街中の壁に次々と浮かび上がる。
それを見た人々が、同時に笑った。
誰も声を出さない。
でも、確かに笑いが“伝わる”。
それが“会話”だった。
夕暮れになるころ、
編集者は橋の上に立っていた。
川の流れが金色に光っている。
水面に映る空の模様が、
まるで誰かの手紙のように見えた。
ポケットの中のノートが、最後にもう一度だけ震えた。
開くと、たった一文。
「次の手紙は、あなたの番です。」
筆跡はもう、誰のものか分からなかった。
けれど、その文字は優しく、確かな温度を持っていた。
編集者は静かに頷いた。
そして、ノートを閉じた。
【2025年12月26日/夜】
夜になっても、街は静かだった。
風は止まり、雪も落ちない。
灯りの一つひとつが心臓の鼓動のように瞬いている。
世界全体が、何かを聴こうとして耳を澄ませているようだった。
編集者は部屋の窓を開けた。
外の空気は冷たく、
でもその冷たさの奥に、確かに何かが“生きている”と感じられた。
世界はもう言葉を持たない。
けれど、沈黙の中には確かな呼吸があった。
机の上のノートを開く。
昼間に書かれた最後の一文が、
光の残像のようにページの中央に浮かんでいる。
「次の手紙は、あなたの番です。」
その文字が、ほんの少し震えていた。
まるで、まだ誰かの指先を待っているように。
ペンを取る。
インクはない。
けれど、書こうとすると、文字が光で浮かび上がる。
音もなく、かすかな呼吸のリズムで綴られていく。
「こんばんは。」
書いた瞬間、外の空気がわずかに震えた。
窓の外に、光の粒が浮かぶ。
それは雪ではない。
“声のない手紙”だった。
小さな光が、夜空の中をゆっくりと漂っていく。
ひとつ、またひとつ。
無数の光が生まれ、街の上を流れていく。
屋根の上を、川の上を、人々の家の窓辺を通り抜けていく。
それを見上げた人々は、
言葉を交わさずに、ただ微笑んだ。
沈黙のなかで、すべてが“伝わっていた”。
光の中に、誰かの影が立っていた。
草花みおん。
声はない。
けれど、その唇の動きが語る。
「ありがとう。」
その形だけで、意味が伝わる。
声を失っても、言葉は死なない。
“声のない手紙”とは、
この世界そのもののことだった。
みおんの影が、ゆっくりと崩れていく。
風に溶け、光に溶け、
空気の一部となって夜の中に消えていく。
その姿が完全に消える前に、
最後の一文字が空に浮かんだ。
「わたしたち。」
その言葉が、
街全体の灯りと呼吸を同じリズムにした。
ビルの窓が一斉に明滅し、
遠くの教会の鐘が鳴る。
音は聞こえない。
でも、響いていた。
胸の奥で、確かに。
夜が更けるにつれ、
光の粒はゆっくりと数を減らしていった。
ひとつ、またひとつ、
白い雪と混ざり、星と区別がつかなくなる。
編集者はその光景を見ながら、
ノートを閉じた。
白い表紙の上に、指を置く。
指先が温かい。
それは血の温度ではなく、
物語の体温だった。
その瞬間、頭の奥で小さな声がした。
——もう、あなたの声です。
誰のものでもない、
けれど確かに自分の中に響く声。
音ではなく、意味だけが伝わる。
それは草花みおんが遺した“声のない声”だった。
「わたしたちは、もう、ひとりじゃない。
言葉がなくても、届く場所がある。
書かれなくても、残る想いがある。
それが、手紙という祈りです。」
窓の外を見る。
最後の光が遠くで瞬き、
やがて夜空に溶けていった。
沈黙が戻る。
でも、もうそれは恐怖ではなかった。
静けさの中に、
確かに“世界の声”があった。
午前零時、
編集者は白い封筒を取り出した。
何も書かれていない。
差出人も宛先もない。
けれど、封を閉じる前に一行だけ記した。
「この手紙を、読むすべての人へ。」
ペンを置く。
それ以上、何も書かない。
それだけで、
すべての意味が詰まっていると分かっていた。
窓を開け、夜空へ封筒を差し出す。
風がやさしく封を持ち上げ、
光の粒と共に空へ舞い上がる。
それはゆっくりと上昇し、
星と星のあいだに溶け込んだ。
遠くで、微かな光の瞬き。
それが最後の“手紙”だった。
「声のない手紙、確かに受け取りました。」
その言葉が、
どこからともなく胸の奥に届いた。
誰の声でもない。
読者でも、作者でもない。
“物語そのもの”が囁いた声だった。
そして、世界は完全な静寂の中で、
静かに次の頁をめくった。




