第6話 12月25日 再生
【2025年12月25日/朝】
夜明け前、窓の外で鳥が鳴いた。
その声が、ひどく遠くから響いてくる。
雪は止み、街は光を取り戻していた。
昨日の白は、今日の金色に変わっている。
冬の太陽が、凍った屋根の上で小さく反射していた。
編集者はゆっくりと目を覚ます。
机の上には、白いノート。
昨日の夜、草花みおんの便箋を見たあと閉じたはずなのに、
ページはひとりでに開かれている。
そこに、一行。
「おはようございます。」
インクではなく、鉛筆の跡だった。
筆圧の浅い文字。
それは、まるで誰かが「これが最初の一文ですよ」と手渡してくれたようだった。
窓を開ける。
冷たい風の中に、焼きたてのパンの匂いが混じっている。
街はもう、昨日の静寂を忘れたように動き出していた。
子どもたちが笑い声を上げ、カフェのドアベルが鳴る。
クリスマスの朝は、まるで“何も起きなかった世界”のようだった。
でも、空気の中に“声”があった。
聞こえるか聞こえないかの境目で、
どこからともなく囁くような声。
「書いて。」
その一言だけ。
命令でもなく、祈りでもなく、
まるで“おはよう”のように自然な響き。
編集者は机に戻り、ノートを開いた。
ページは真っ白だ。
ペンを握る。
指先が、少し震えていた。
昨日までの出来事をどう言葉にすればいいのか分からない。
何を信じればいいのかも。
でも、書かずにはいられなかった。
最初の文字を書いた瞬間、
ノートの端が微かに光った。
それは赤でも白でもない。
淡い金色の光。
まるで、雪の結晶の中に閉じ込められた太陽のようだった。
「わたしは、もう一度書く。」
書いた文字が、少しだけ震える。
読み返すと、自分の字なのに、どこかみおんの筆跡に似ていた。
彼/彼女が“残した文体”が、
もう感染でも記憶でもなく、“受け継ぎ”としてそこにあった。
そのとき、部屋の隅で小さな音がした。
パソコンが自動で起動し、画面に一つの通知。
——未送信のメール。
件名:〈手紙〉
差出人:なし
本文:
「おはようございます。
昨日までのすべてを忘れてもかまいません。
でも、ひとつだけ覚えていてください。
書くことは、呼吸です。
止めなければ、生きていけます。」
メールは途中で途切れていた。
スクロールすると、送信ボタンの横に一行、
淡く浮かぶ言葉。
「——続きは、あなたの言葉で。」
編集者はゆっくりと息を吸い、
返信欄に文字を打った。
「わたしは、今日も生きています。
そして、書いています。」
送信ボタンを押すと、画面が白く光った。
光がやがて薄れたとき、
受信トレイに新しいメールが届いていた。
件名:〈受信完了〉
本文は、たった一文。
「草花みおんは、あなたの中で呼吸を続けています。」
その行の下に、日付。
2025年12月25日 07:25。
投稿予約の時刻だった。
編集者は笑ってしまった。
まるで誰かが、もう次のページを準備しているみたいだ。
ふと、窓の外を見る。
朝の光が、ノートの上に広がっていく。
白紙の余白に、
新しい一行が浮かび上がった。
「この物語は、まだ終わらない。」
風が吹いた。
ページが一枚めくれた。
その先の空白に、
どこからともなく金色のインクがにじみ出す。
そして、見えた。
次の章のタイトル。
『12月26日 声のない手紙』
その文字を見た瞬間、
胸の奥で確かな鼓動が鳴った。
それは、草花みおんのものでも、編集者のものでもない。
**“物語そのものの心臓”**が打つ音だった。
外では、鐘が鳴っていた。
昨日よりも、少しだけ明るく、少しだけ速く。
世界がまた、呼吸を始めていた。
【2025年12月25日/午後】
午後の陽射しは、冬のくせにどこか春めいていた。
窓際のノートの白が、ゆっくりと金色に透けていく。
机の上のコーヒーの湯気が小さく揺れて、
それさえも文字のように見えた。
午前中に送信した「返信メール」――
あの一文、「わたしは、今日も生きています」。
それを送ってから、何も返ってこない。
でも、不思議と不安はなかった。
受信を待つより、
今度は自分が“送る番”だと分かっていたから。
編集者はノートの表紙を撫で、
深呼吸をして、
ペンを取った。
白いページの真ん中に、
ゆっくりと宛名を書く。
「宛先:まだ名前のないあなたへ」
ペン先が紙を擦る音だけが、部屋を満たしている。
時計の音も、外の雑音も消えていった。
「こんにちは。
この手紙を読んでいるあなたが、
誰なのか、わたしには分かりません。
でも、それでいいのだと思います。
あなたがこの手紙を開いたということは、
誰かの“終わり”が、あなたの“はじまり”に変わったということだから。」
文字を追ううちに、心臓の鼓動が穏やかになっていく。
インクは黒ではなく、やはり淡い金色のまま。
陽の光を受けると、文字がほんのり光を帯びる。
「昨日まで、世界は言葉に溢れていました。
そのどれもが誰かを傷つけ、
そして誰かを生かしていました。
わたしたちは、言葉という刃と羽を同時に持っていたのだと思います。
でも今、こうして“白いページ”に向かうとき、
そのどちらも、もう必要ないのかもしれません。」
ページをめくると、
金色の粉が舞うように光がこぼれた。
窓の外の雪の粒が反射して、
まるで世界全体が「手紙の続き」を書いているように見えた。
「草花みおんという名前を、
わたしはきっと一生忘れないでしょう。
けれど、彼/彼女が生きた証は“名前”ではなく、
誰かに受け渡された“文体”の呼吸でした。
その呼吸はいま、
わたしの胸の中で小さく拍を刻んでいます。
わたしはそれを、自分の声で言葉にします。
もう誰かの代わりに書くのではなく、
自分のために、そしてあなたのために。」
手が止まる。
ペン先の光が少しだけ揺れた。
まるで紙の中で誰かが微笑んだようだった。
「この手紙は、“草花みおん”へ宛てた最後の返信でもあります。
でも、どうか悲しまないでください。
あの人は、ちゃんと生きています。
あなたがこの文字を読んでくれている限り。
その呼吸が、あの人の居場所だから。」
行間に少し空白を残す。
草花みおんがよくやっていた書き方。
呼吸のための間。
そこに光が落ちて、小さな金の粉が浮かぶ。
「最後にひとつだけ、お願いがあります。
どうかあなたの中の“物語”を、
誰にも渡さないでください。
大切に抱えたまま、
必要なときだけ、ほんの少し漏らすように語ってください。
物語は血液です。
他人に輸血できるものじゃない。
でも、光としてなら、分け合えます。」
編集者は、手紙の最後に日付を入れた。
「2025年12月25日 午後3時45分
わたしは、いま、生きています。」
書き終えた瞬間、
ノートのページが一枚、静かに閉じた。
風もないのに、紙が自分で息をしているようだった。
インクの金色は、光の中で透明に変わり、
ページの中に吸い込まれていく。
白に戻ったノート。
でも、読む者の心には確かに残る温度。
窓を開けると、
街の上空を一羽の鳥が横切っていった。
翼が太陽の光を反射し、
軌跡が金の線を描いていく。
その線は、どこかで見たことがある。
そう――草花みおんが最後に打った改行の形。
あの“余白の線”。
世界は、もう一度“書く”準備をしていた。
編集者はノートを閉じ、
ペンを置いて、
静かに笑った。
「これでいい。
これが、最初の手紙。」
外の風が、
その言葉を拾い上げ、
どこか遠くの誰かに届けに行った。
【2025年12月25日/夜】
夜空は深い群青色で、雪はもう降っていなかった。
街の灯りが遠くまで届き、屋根の上の氷が微かに光を返している。
クリスマスの喧騒が過ぎ、
街の空気には、どこか疲れたような静けさが漂っていた。
編集者は窓際の机に座っていた。
昼に書いた“最初の手紙”を、封筒に入れたまま開いている。
封をするのが、惜しかった。
閉じた瞬間、言葉が眠ってしまいそうだったから。
部屋の中にはラジオの小さな音。
古いカセットのようなノイズの奥で、
女性の声が静かに語っていた。
「今夜は、世界中でいちばん小さな奇跡の話をしましょう。」
聞き覚えのある声だった。
——草花みおん。
声は穏やかで、昔よりも低く、
けれど確かに、彼/彼女のものだった。
「誰かが書くたびに、世界が少しだけ動きます。
その動きを、神さまはたぶん“祈り”と呼ぶのでしょう。
だから、あなたが書いたその一行も、
もう届いています。」
編集者の手が止まる。
ラジオの針がかすかに震え、
再び声が重なる。
「宛先は、わたしです。
ありがとう。」
息が詰まる。
目の前の封筒が、静かに膨らんだ。
中の手紙が、誰の手も借りずに動いた。
インクの匂いが広がり、
便箋の隅から、金色の光が滲み出してくる。
その光が、ラジオのスピーカーに吸い込まれた。
同時に、声がわずかに震えた。
「届きました。
あなたの言葉は、あたたかかったです。」
それだけ言って、放送は途切れた。
スピーカーの奥から、
微かな“紙をめくる音”だけが残った。
静寂。
外では、風が低く鳴っている。
その風の中で、何かが舞った。
窓の外――郵便受けの口が、ひとりでに開いた。
編集者は立ち上がり、ゆっくりと外に出た。
夜気が頬を撫でる。
星が降るような冷たさ。
ポストの中には、白い封筒が一通だけ入っていた。
宛名は、丁寧な筆跡でこう書かれていた。
「編集者様へ」
差出人の欄には、ひとつだけ印がある。
——草花みおんの封蝋。
けれど、インクはもう赤でも白でもない。
淡い金色の封が、光を受けて揺れていた。
封を切くと、風が優しく吹き抜けた。
中の便箋には、わずかに震える文字。
それは、昼間に書いた自分の手紙の返事になっていた。
「わたしは、あなたの中にいました。
あなたが“書く”と決めた瞬間、
わたしはひとつの姿を終え、
あなたの言葉の中に移りました。
だからもう、あなたはわたしの編集者ではありません。
——あなたが、わたしです。」
指先が震えた。
涙ではなく、胸の奥の熱が広がる。
便箋の下の余白に、小さな手書きのサイン。
「草花みおん(記録終了)」
その筆跡の下に、もう一行。
今度は自分の名前が並んでいた。
——勝手に書き足されたのではない。
紙そのものが、二つの名前を結んだ。
「**編集者名**(記録継続)」
光がにじみ、二つの名が同じ線で繋がっていく。
やがて、名前の境界が消えた。
紙の上には、たった一つの言葉。
「わたしたち。」
その瞬間、空の鐘が鳴った。
日付が変わる。
世界が静かに呼吸する。
便箋を持つ手が、
ゆっくりと温かくなっていく。
インクの跡が脈動し、
まるで心臓のように微かな拍を刻む。
遠くの街角では、誰かが笑っている。
店先では、誰かが新しい物語を口ずさんでいる。
ページを開く音、ペンを走らせる音、
そして——再びはじまるタイピングの音。
そのリズムはもう、ひとりの作家のものではなかった。
読者の指、記者の声、詩人の呼吸、
すべてが混ざり合って、一つの文体になっていた。
「草花みおん殺人事件、ここにて終結。」
そう書かれた行の下に、
もう一文が浮かび上がった。
「——ただし、物語は生き続ける。」
金色のインクが淡く光り、
便箋は空気の中に溶けていった。
光は、雪のように静かに舞い上がり、
夜空の星の一つになった。
編集者は窓を閉め、机に戻った。
白いノートを開く。
ページの中央に、金の光が薄く残っている。
それが、さっきの手紙の名残だった。
「——メリークリスマス。」
静かに呟く。
それは祝福でも、別れでもなかった。
ただ、生きている証としての挨拶。
そして、物語の息吹。
外では雪が再び舞い始めていた。
白でも赤でもない、
ほんのり金色を帯びた雪。
草花みおんの物語は終わった。
でも、“わたしたち”の物語は、今始まったばかりだった。




