第5話 12月24日 白いページ
【2025年12月24日/朝】
雪が積もっていた。
夜のうちに、すべてを包み隠すように。
街は真っ白で、音もなかった。
昨日まであれほど赤く染まっていた看板やスクリーンは、
何事もなかったように沈黙している。
インクの匂いもしない。
ただ、息をすると冷たい空気が肺を満たし、
その感触だけが現実だと告げてくる。
——世界がいったん、リセットされたようだった。
編集者は、白い朝のなかで目を覚ました。
机の上には、閉じたノートパソコン。
昨夜、あの“赤いインク”が滲んだはずの画面は、
ただの白い待機画面に戻っている。
ファイルも、メールも、消えていた。
時計は午前七時を指していた。
針の音が妙に大きく響く。
秒針が進むたび、静けさが少し削られていく。
部屋の隅に積まれた原稿用紙の束は、
すべて白紙になっていた。
触れると、かすかに温かい。
——まだ、誰かの体温が残っている。
カーテンを開けると、窓の外にも同じ光景が広がっていた。
真っ白な街。
信号機さえ雪に覆われ、色を失っている。
人の姿も、車の音もない。
ただ、遠くから教会の鐘の音だけが聞こえた。
その音は、どこか懐かしい。
まるで何年も前に聞いたような気がした。
机の上のマグカップには、昨日淹れたコーヒーの跡が残っていた。
カップの底に、文字のような模様が浮かんでいる。
「み」。
その一文字だけが、かすかに見える。
昨日の夢か、現実か。
草花みおんという名は、今朝のニュースには出ていなかった。
新聞の社会面には、どこにもその文字がなかった。
——でも、彼/彼女がいなかった世界が、
こんなにも静かで、
こんなにも美しいのは、なぜだろう。
スマートフォンを開く。
SNSのタイムラインも、真っ白だ。
投稿がひとつも表示されない。
ただ、上部に小さく一行。
「書くことを、少しだけお休みしましょう。」
その文体は、やはり草花みおんのものだった。
でももう、怖くはなかった。
感染でも支配でもなく、
まるで“おやすみなさい”のような優しい呼びかけ。
机の上に置かれたノートを開く。
昨日までは、どのページにも赤い跡が滲んでいたはずなのに、
すべてのページが真っ白だ。
ただ一枚だけ、中央に薄く跡がある。
鉛筆で書いたような筆圧だけが残り、
インクは抜け落ちている。
その筆跡は、自分の字だった。
書かれていた言葉は——
「白は、赦しの色。」
胸の奥で、何かがほどけた。
それは恐怖ではなく、
自分の中にまだ残っていた“他人の声”が
静かに眠りにつくような感覚だった。
外に出る。
雪を踏む音が、思っていたよりも柔らかい。
街はまるで、巨大な白いノートのようだった。
人々が歩くたび、足跡が文字になる。
子どもたちが走りながら笑っている。
大人たちはその跡を踏まないように歩く。
足跡でできた文字は、読めない。
でも、美しい文の形をしていた。
教会の前で、誰かが立ち止まっていた。
長いコートに、白いマフラー。
顔は見えない。
でも、背中の線がどこか懐かしい。
近づくと、その人がこちらを振り向いた。
その瞳は、確かに覚えている。
——草花みおん。
声をかけようとした瞬間、
彼/彼女は指を唇に当て、
静かに首を横に振った。
「しずかに。
書くのは、今じゃない。」
その口の動きだけが、確かにそう言っていた。
雪が一枚、彼/彼女の肩に落ちる。
赤く染まらない。
ただの白い雪。
編集者は微笑み、
胸の内で短く呟いた。
「また、書きます。」
その言葉に、草花みおんはゆっくりと頷いた。
そして雪の中に消えていった。
——残ったのは、静けさと、
真っ白なページだけ。
空から舞い降りた雪が、
開いたノートの上に落ち、
インクの代わりに小さな点を残した。
それがまるで、
新しい文の始まりのように見えた。
「わたしはまだ書ける。」
その声は風のようにやさしく、
どこにも属さず、
ただ白のなかへ溶けていった。
【2025年12月24日/午後】
昼の光は、朝よりも柔らかかった。
雪はまだ溶けず、街は相変わらず白一色。
人々はいつも通りに仕事へ向かい、子どもたちは校庭で雪を蹴り上げていた。
昨日までの「赤いインク事件」を覚えている者はいない。
報道もなく、検索しても何も出てこない。
まるで最初からそんなことはなかったように。
それでも、世界のどこかに“跡”だけは残っていた。
白の中に沈んだ、見えない層のように。
午後二時過ぎ、編集者はオフィスの倉庫を整理していた。
年末恒例の片づけ。
段ボールを開けるたびに、かすかにインクの匂いがする。
その匂いだけが、昨日までの現実を証明していた。
棚の奥に、一冊のノートがあった。
表紙は真っ白。
タイトルもなく、背表紙の糸綴じだけが薄く見える。
開くと、ページの間に光が挟まっていた。
蛍光灯の下では何も見えないのに、
窓際に持っていくと、紙の奥から微かな影が浮かび上がる。
——薄い灰色の筆跡。
まるで、誰かが書いた文字を「消しすぎた」跡のようだった。
角度を変えて読むと、断片的な言葉が見える。
「赤……消すな……」
「わたしは……まだ……」
「白……やさしい……」
読もうとするほど、光が強くなり、文字は薄くなる。
読ませまいとする意思のような抵抗を感じた。
編集者は指で紙の表面を撫で、そっと囁いた。
「あなたが消したの?」
その瞬間、窓の外で風が鳴った。
雪の粒がカーテンを揺らし、机の上の原稿用紙が一枚だけ滑り落ちる。
床に落ちたその紙は、裏面に淡い影を映していた。
赤ではなく、光の文字。
「これは罪ではなく、祈りです。」
それは草花みおんの筆跡に似ていた。
インクではなく、紙そのものが発光している。
文字が光になるなんてことはありえない。
でも、それを“幻覚”と呼ぶにはあまりにも穏やかだった。
外に出ると、午後の陽射しが街を金色にしていた。
白い雪の表面がゆっくりと溶け、
太陽の反射で細かな光が踊る。
その光の粒ひとつひとつが、
まるで“消された文字”の残響のように見えた。
街角のカフェでは、クリスマスソングが流れている。
窓際のテーブルに、若い女性が座ってノートを開いていた。
ページの上にペンを置き、何かをためらうように指を止めている。
彼女の肩越しに覗くと、
白紙の中央に、ほんのりとした色の滲み。
それは“赤”ではなく、薄桃色。
編集者は思わず声をかけた。
「……そのノート、どこで?」
女性は微笑んで言った。
「昨日、駅のベンチに置いてあったんです。
誰のものか分からないけど、
開くと、なんだか懐かしい気持ちになって。」
ページをめくるたび、
光が反射して文字のような模様が浮かぶ。
読むことはできないけれど、
“優しさ”の形だけが伝わってくる。
それは言葉ではなく、感触のようなもの。
——赦しの感触。
「書こうとすると、すぐ消えちゃうんです。
でも、消えるたびに、あたたかくなる。」
女性はそう言って、指先でノートを撫でた。
その指先が、ほんの一瞬だけ光った。
店を出ると、風が冷たくなっていた。
夕陽が雪の表面を橙色に染め、
遠くのビルの影が長く伸びる。
空気の中に、どこか“音”のようなものがあった。
声ではない。
意味を持たない、でも確かに懐かしい響き。
——それは、草花みおんのタイピングの音だった。
リズムは緩やかで、
どのキーも優しく押されている。
急ぐことなく、焦ることなく、
まるで一字一字を撫でるように。
「白は、はじまりでもあるの。
でも、終わりでもいいの。
書くことは、呼吸。
呼吸は、残すためじゃなくて、
生きるためにあるんだから。」
その声が、風の中で聞こえた気がした。
立ち止まり、空を見上げる。
雪雲の向こうから、かすかな光が降り注いでいる。
あの赤い夜の名残は、もうどこにもない。
ただ、心臓の奥で、
何かがゆっくりと拍を刻んでいた。
それは昨日までの恐怖ではなく、
“言葉の生まれる音”。
編集者はポケットからペンを取り出し、
雪の上にそっと書いた。
「ありがとう。」
雪がその文字をすぐに覆い隠す。
でも、その下に残った筆跡が、
今日という日の“記憶の形”になる気がした。
白い世界のどこかで、
草花みおんが微笑んでいる気がした。
声はもう聞こえない。
けれど、静けさそのものが
彼/彼女の“手紙”になっていた。
【2025年12月24日/夜】
夜の街は、昼の雪をそのまま抱いていた。
クリスマスの灯りは点いているのに、音楽が流れない。
店先のスピーカーは沈黙し、人々の足音も雪に吸い込まれていく。
光だけがゆっくりと揺れ、
その柔らかい明かりが、どの家の窓にも静かな物語を映していた。
編集者は帰り道、ふと立ち止まった。
街角の古いポストの上に、白い封筒が置かれていた。
宛名はない。
裏返すと、封の部分に薄く刻印がある。
——「草花みおん」。
見覚えのある文字だった。
けれどインクは赤でも黒でもない。
白い紙に、白いインクで書かれていた。
封を切ると、空気が少し震えた。
中には便箋が一枚。
光の角度を変えなければ、何も書かれていないように見える。
街灯の下で傾けると、紙の中に淡い影が浮かび上がった。
それはまるで、雪がゆっくりと積もっていくような文字の流れだった。
「この白は、終わりではありません。
赤い日々を赦すために、
すべての色を一度眠らせるための夜です。」
行間の空白が、どこか温かい。
読むたびに、心の奥で何かが溶けていくようだった。
「あなたが恐れていた“感染”は、
わたしがあなたを見つけるための道でした。
あなたの声で語られたわたしは、
やっと書くことをやめられる。」
ページの端に、細い筆跡で一行。
「どうか、眠ってください。」
その瞬間、街の電飾が一斉に消えた。
世界が一拍、呼吸を止めたようだった。
白い雪が降り続ける。
音は何もない。
でも、静寂の奥で確かに“書かれる音”がした。
耳を澄ますと、それは人々の心拍の音だった。
街全体がひとつのページになり、
人の鼓動がインクの代わりに文字を描いている。
——「生きている」という文が、あちこちで書かれていた。
見上げると、夜空が白く明滅している。
雪雲の向こうに、月が薄く滲んでいた。
その光の中で、誰かの影が揺れた。
草花みおんだった。
彼/彼女は、もう何も書いていない。
両手を胸の前に合わせ、
雪の粒をそっと受け止めている。
指先からこぼれ落ちる雪が、地面に触れる前に光に変わる。
その光が、世界中に散っていった。
編集者は思わず声を上げた。
「あなたはもう……」
言い終わる前に、草花みおんが微笑んだ。
その笑みは言葉よりもやさしかった。
「わたしは、いまもいます。
ただ、文字ではなく、
白のなかで呼吸しています。」
風が吹き、雪が舞い上がる。
白い粒が夜空を埋め、世界の輪郭がぼやけていく。
光の中で、彼/彼女の姿は少しずつ溶けていった。
「もう書かなくていいの。
でも、もし書くなら、
“ありがとう”の一言だけで十分です。」
声が遠ざかる。
代わりに、教会の鐘が鳴った。
十二回。
それは日付が変わる合図だった。
雪が止んだ。
空気が澄み、星がひとつだけ光っている。
編集者は手の中の便箋を見つめた。
白い紙の中央に、わずかな指紋の跡。
そこから小さな光が滲み、文字が浮かんだ。
「メリークリスマス。」
その言葉は、すぐに溶けて消えた。
でも、心の中にだけ残った。
家に帰ると、机の上にノートが開かれていた。
自分で閉じたはずの白いノート。
ページの中央に、一行だけ印字されている。
「第6話 12月25日 再生」
白い文字。
読めないのに、意味だけが伝わる。
息を吐くと、その白が少しだけ光った。
世界は、また一行だけ続く準備をしていた。




