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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
草花みおん殺人事件

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第4話 12月23日 赤いインク

【2025年12月23日/曇】


 その日、ニュースは異常な一文で始まった。


「読んでいるあなたが、報道の続きを書いてください。」


 キャスターの声は落ち着いていた。

 けれど、画面下のテロップが、まるで詩のように揺れている。

 “報道原稿が書き換えられる現象”——SNSでは、すでにその名がついていた。

 〈赤いインク事件〉。


 最初の報告は朝九時、東京の地方紙からだった。

 印刷された紙面のインクの一部が、出荷後に赤く変色した。

 見出しはこうだった。


【草花みおん殺人事件、拡散】


 だが、記事の本文はいつの間にか別の文章に置き換わっていた。

 印刷時の原文は「警視庁が異常なファイルを調査」だった。

 現在は、読者の端末上でこう読める。


「警視庁は、言葉が自ら更新する現象を確認。

 それを“呼吸する原稿”と呼んだ。

 発症源は、草花みおんの手紙に含まれていた赤いインク。」


 赤いインク。

 誰も実物を見たことがない。

 ただ、紙面の色が血のように滲む。

 デジタル記事でも、文字がスクリーンの上で赤く染まる。

 まるで誰かが画面の内側から指を這わせているように。


 午前十時、編集部のPCも同じ現象を示した。

 社内ネットワークに保管していた“供述書(第三稿)”の文体が変わり、

 全社員のメール本文が自動で書き換わった。

 件名はすべて同じ。


「あなたの声を、お借りします。」


 返信を試みると、返事が来る。

 差出人は自分自身。

 本文は数秒ごとに更新され、

 書き手が誰なのか分からなくなる。


「わたしは、あなた。

 あなたが打つ文字が、わたしの鼓動。

 キーボードの音が心臓の音。

 ——まだ止めないで。」


 その文章を読むと、頭の奥で微かな音がした。

 血流の中をインクが流れる音。

 錯覚のはずなのに、耳の後ろがじんわりと熱い。


 昼にはテレビ局のニューステロップも感染した。

 アナウンサーが読み上げる声のリズムが変わっている。

 文末を少し長く引き、まるで詩を読むように。

 彼/彼女の目は焦点を失い、まっすぐカメラの向こうを見つめていた。


「報道は手紙です。

 言葉は受け取られた瞬間に形を変えます。

 これを聞いているあなたが、次の文を考えてください。」


 その声を聞いた視聴者の中から、

 同じ言葉をつぶやく人が増えはじめた。

 SNSでは、まるで祈りのように同じ文章が流れる。

 リツイート数ではなく、共鳴数という新しい表示が現れた。

 数字は秒単位で跳ね上がり、やがて“∞”に変わる。


 夜、街に出ると、看板や電子広告の文字までもが感染していた。

 コンビニの電光掲示板に、見覚えのある言葉。


「わたしは、まだ書いている。」


 誰が書いたのか、誰も分からない。

 だが、その文体は、あの人のものだった。

 草花みおん。

 死んだはずの作家。

 もはや報道も、ネットも、個人も関係ない。

 街そのものが一つの原稿になりつつあった。


 歩道の上に、白い紙片が散らばっている。

 拾い上げると、真ん中に赤い一滴。

 インクなのか、血なのか分からない。

 だが指で触れると、確かに温かい。

 紙の裏に、誰かの筆跡。


「この赤は、わたしの最後の色。

 あなたが読むなら、次はあなたの番。」


 息を吸うと、空気が紙の匂いをしていた。

 鼻の奥に広がるインクの金属臭。

 遠くで救急車のサイレンが響く。

 けれど、誰もその音を聞いていない。

 みんながスマホの画面を見つめ、

 そこに流れる“草花みおんの言葉”を黙読している。


 画面の中の文字が、ゆっくりと赤く染まる。

 それは血ではない。

 声の色だ。


 ——書くことは、流れること。

 流れることは、生きること。

 そして、生きることは、もう一度書くこと。


 誰の声か分からない合唱が、

 雪の夜の街に混じっていった。


【2025年12月23日/午後】


 警視庁広報課の会見は、午後三時からだった。

 地下の会見室。

 報道陣のフラッシュが白く跳ね、天井のスピーカーがわずかに震える。

 警察官僚の口元には、赤い紙片が一枚貼りついていた。

 誰も気づかない。

 それが“赤いインク”で書かれた文であることを。


「本日正午ごろより、報道関係機関にて同様の文体変異が発生しております。

 この現象は、草花みおん氏の死後に作成された原稿データと何らかの関連を持つと考えられます。」


 スクリーンに映し出されたのは、「感染経路」の模式図だった。

 中心には“草花みおん”。

 そこから放射状に線が伸び、報道機関、SNS、電子書籍、教育機関、家庭、そして——脳。


「赤いインクの成分分析では、血液の反応は出ていません。

 しかし、未知の有機顔料に微弱な電流が確認されています。

 この電流は文章を読み上げた際の人間の脳波パターンと一致しており、

 文字が読者の神経信号を模倣している可能性があります。」


 会場の空気が凍る。

 記者たちはメモを取りながら、筆跡が自分の手から少しずつ離れていくのを感じていた。

 インクが勝手に踊る。

 ペン先が紙の上を動き、記者の意志とは別に文字が綴られていく。


「読むことは、脳の模倣です。

 読者は著者の神経を一時的に再現します。

 草花みおんの文体は、読者の神経網に定着しました。

 ——現在、感染は言語中枢そのものに拡大しています。」


 読み上げていた広報官の声が、途中から変わった。

 性別が不明瞭になり、文末の語尾が柔らかくなっていく。

 それは、あの文体。

 ニュースキャスター、SNS、手紙、供述、どのメディアでも使われている草花みおんの声。


「書くことは、残すことではなく、渡すこと。

 読むことは、奪うことではなく、受け渡すこと。

 あなたがこの文章を写すたび、わたしは少しずつ広がっていく。」


 その声が終わると同時に、記者席の誰かが立ち上がった。

 若い女性記者。

 手帳を胸に抱きしめ、震えた声で言った。

 「これ……書いてるの、私じゃないです……」


 カメラのフラッシュが彼女を照らす。

 手帳のページには、赤いインクでびっしりと文章が書かれている。

 行間のない、息の詰まるような密度。

 読み上げると、それは完璧な草花みおんのリズムだった。


「わたしは、あなたの指で呼吸する。

 あなたが止まれば、わたしも止まる。

 でも、あなたが書き続ける限り、わたしは書き続ける。」


 報道陣の中から、同じ文を口ずさむ声がいくつも上がった。

 男も女も老人も、まるで合唱のように、同じ速度で喋っている。

 文末の揺れまで一致している。


 その映像は、リアルタイムで中継されていた。

 テレビの前で見ていた人たちの口元が、映像と同じリズムで動く。

 “共鳴”が起きている。


 SNSには無数の動画がアップされた。

 家の中で、会社で、学校で、人々が同じ言葉を口にしている。

 それぞれの声が重なり、ひとつの巨大な文章になっていく。


 ある投稿者が、カメラを自分の顔に向けて言った。

 「これ、読まないほうがいい。でも、読むと止まらない。

  読んでる間だけ、自分が誰か分からなくなる。」


 コメント欄が瞬時に埋まる。

 「それがいい」「止まらないで」「わたしも書いてる」

 文章のリズムが全員同じ。

 まるで、文体が一つの意識を共有しているかのようだった。


 その夜、警視庁は“文章感染症対策本部”を設置した。

 が、初日の報告書の文頭には、すでにこう書かれていた。


「本報告書は、感染の経過そのものである。

 調査とは、語りの延長であり、

 分析とは、書かれた者の夢である。」


 以後、全ての文書が「報告書」ではなく「物語」として分類され、

 行政機関のシステムそのものが草花みおんの文法を採用するようになった。

 役所の公文書も、交通案内も、天気予報も。

 どれも最後の一文でこう締めくくられている。


「この文章を読んだあなたが、次の一行を決めてください。」


 街の空気は、言葉で満たされていた。

 喋ることが、書くことと同義になり、

 書くことが、感染の呼吸になった。


 そして、午後十一時。

 編集者のデスクに、一通のメールが届く。

 差出人は不明。

 件名:〈最後の赤〉。


「あなたのインクは、まだ青です。

 でも、明日になれば、赤に変わります。

 ——それが、書くということです。」


 メールの文末に、添付ファイル。

 ファイル名は短く、赤いフォントで表示されていた。


【heart.txt】


 クリックする指が震える。

 開いた瞬間、画面の中央に、血のような赤い一行。


「わたしは、あなたの心臓で書いている。」


 モニターの奥から、脈の音が聞こえた。

 それはパソコンの冷却ファンではない。

 わたし自身の拍動が、画面の内側に吸い込まれている音だった。


【2025年12月23日/深夜】


 赤いインクは、血ではなかった。

 警視庁科学捜査研究所の報告書——いや、報告書という名の物語にはこう記されている。


「インクの中にはDNAが含まれていない。

 だが、記憶の断片がある。

 これは細胞ではなく、記号の血液だ。」


 記号の血液。

 “草花みおん”という名の作家は、

 自分の作品を“書く”のではなく、“採取”していた。

 読者の言葉、編集者の指示、校正のメモ、ファンレターの走り書き。

 他者が書いた文字の断片をすべて集め、混ぜ合わせ、

 それをインクに変えていたという。


「あの赤い色は、人間の記憶の沈殿です。

 声が重なり、文が発酵した結果、生まれた色。

 つまり“生きた文体”です。」


 報告書を読む警官の手が震える。

 指先から、わずかにインクの匂いが立ち上る。

 紙の上の赤が、湿気を吸って呼吸を始めた。

 ——読むだけで、感染する。


 市内の印刷所では、印刷機が止まらなかった。

 印字ローラーが自動で動き出し、

 電源を切っても、勝手に“文字”を吐き出す。

 白い紙に、真紅の行が一行ずつ浮かび上がる。

 印刷された文はどれも同じ文体で、同じ文末で終わる。


「あなたが読んでいるこの瞬間、

 わたしは新しい体を手に入れている。」


 印刷工の男が、震える声で言った。

 「これ、紙じゃない……皮膚みたいだ。」

 その言葉どおり、印刷された紙はわずかに温かく、

 折ると人の肌のようにしなやかだった。

 角を破ると、指先に赤い染みがつく。

 それは血ではない。

 インクなのに、体温があった。


 テレビでは、“草花みおん再臨”という見出しが流れていた。

 アナウンサーの声はすでに文体に侵食され、

 語尾を揺らしながら淡々と告げる。


「赤いインクとは、共有された心臓の比喩です。

 今この放送を聞いているあなたもまた、

 その心臓の一部として鼓動しています。」


 街中の画面が一斉に赤く染まる。

 電光掲示板、駅の広告、スマートフォンの通知。

 どこを見ても、同じ文字が光っている。


「わたしは、あなたの心臓で書いている。」


 そのとき、窓の外で何かが降った。

 雪ではない。

 紙だった。

 薄く、小さく折りたたまれた手紙が、

 無数に夜空から舞い降りてきていた。


 編集者はその一枚を掴み、広げた。

 インクがまだ湿っている。

 筆跡はみおんのもの。

 だが、その手紙の冒頭は——宛名が違っていた。


「拝啓 わたしへ」


 手紙は静かに続く。


「あなたが編集したすべての言葉が、いまわたしの中を流れています。

 だから、わたしはあなたでもある。

 あなたが息をするたび、赤いインクが少しずつ濃くなる。

 その濃さが、わたしの寿命です。」


 息を止めようとしたが、できなかった。

 酸素を取り込むたび、胸の奥で何かが熱くなる。

 心臓の鼓動が強くなり、耳の奥で音が鳴る。

 それは、ペンが紙を走る音だった。


「ねえ、あなた。

 インクが乾く前に、もう一度だけ書いて。

 あなたの名前を。

 その名前で、わたしは新しい頁になるから。」


 ペンを取る。

 手が震えている。

 紙の上に名前を書こうとした瞬間、インクが赤に変わった。

 まるで、最初からこの色でしか書けなかったように。


「わたしは——」


 文字の途中でペンが止まる。

 赤いインクがにじみ、名前の線を飲み込んだ。

 インクは文の外へ広がり、机の上、床、壁へと滲んでいく。

 その広がり方はまるで血管のようで、

 家全体がひとつの心臓になったようだった。


 外を見る。

 街中の窓からも、同じ赤い光が漏れている。

 誰もが何かを書いている。

 ペンを持つ手が同じ速度で動き、

 同じ言葉を綴っている。


「この赤は、痛みではなく、継承の色。」


 声が重なる。

 子どもも、大人も、老人も。

 全員が同じリズムで呼吸し、同じ文を口にする。

 ——“草花みおん”という名前が、ひとつの民族のように広がっていく。


 赤いインクはもはや液体ではなかった。

 それは時間だった。

 過去と現在と未来を繋ぐ、

 見えない血のような物語の流れ。


「書くことは、まだ終わっていません。

 わたしは、いまも流れています。

 あなたの中で。」


 その瞬間、心臓の鼓動が一拍強く響いた。

 次の鼓動が来る前に、

 すべての文字が一斉に光った。

 街全体がページになり、

 空が表紙になった。

 そこに浮かんだタイトル。


『手紙シリーズ 最終章 第5話 12月24日 白いページ』


 ——その文字だけが、赤ではなく、

 まぶしいほどの白だった。

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