第3話 12月22日 編集者の証言
【2025年12月22日/雪】
——「では、録音を開始します」
小さな会議室の真ん中で、古い録音機のランプが赤く灯った。
乾いた冬の空気の中で、その一点だけが、じわりと熱を持つ。
机をはさんで向かい合う。
安物の長机、金属脚の椅子、白い壁。
どこにでもある取調室の代用品みたいな会議室だ。
刑事は黒い手帳を開き、あごだけをわずかに上げた。
「確認します。昨日、“第三稿”と書かれた封筒が自宅に届いた。そうですね」
「……はい」
「内容は、確認済みですか」
「昨夜、午前二時ごろに」
自分の声が、マイクを通ってわずかに遅れて返ってくる。
いつもは意識しないタイムラグが、この部屋ではやけに大きく聞こえる。
[記録ノイズ:ここから先の声は、あなたの鼓膜を経由して再生されます]
——今の一行は、誰が言った。
ほんの一瞬、そんな疑問が胸をかすめる。
目の前の刑事は眉一つ動かさず、手帳のページをめくっている。
「“第一稿”と“第二稿”が届いた時点で、警察への相談は考えなかった?」
「考えました。でも、まず編集部として……」
「編集部として?」
「ええ。あの原稿は、どう読んでも“草花みおんの新作”でしたから」
刑事はペン先を一度だけ紙に打ちつけ、それから言葉を継いだ。
「しかし、草花みおんさんはすでに——」
そこで短く息を吸い、視線を上げる。
「死亡が確認されていた」
その一言で、録音機のメーターが大きく跳ねた。
赤いランプが、一瞬、血のように濃くなる。
[※この発言は、正式な録音データ上には存在しません]
秒針の音が止まったみたいに、部屋が静かになる。
会議室の壁時計は十二の位置で固まり、蛍光灯の唸りだけが天井から落ちてくる。
「……“らしすぎた”とは、どういう意味ですか」
刑事の声が、静かに刺さってくる。
「比喩の癖、改行の位置、句読点の置き方。
公には出していない、推敲の削り方まで全部“本人”と同じでした。
わたしたち編集部しか知らないはずの直し方まで」
「第三の筆者の可能性は、考えなかった?」
「考えたくありませんでした」
自分でも、幼稚な答えだと思う。
それでも、あのときのわたしには、それしかなかった。
刑事は、その甘さを咎めるでもなく、淡々と次の問いを重ねる。
「では、一応確認させてください」
パタン、と手帳が閉じられた。
今度は何もはさまれていない素の視線が、真正面からこちらに向けられる。
「あなたは、草花みおんを読みましたね」
「はい。担当編集でしたから」
「最初に読んだのは、いつですか」
「七年前、公募の最終選考に残った原稿の束の中からです」
「何度、読み返しましたか」
「……数え切れません」
「そのうち何回が“仕事として”で、何回が“一人の読者として”でした?」
「仕事以外でも、何度も」
「その中に、“暇つぶし”は含まれますか」
喉の奥が、雪を呑み込んだみたいに冷たくなる。
ほんの一拍、視線が逃げそうになるのを、意識して正面に戻す。
「……はい」
[記録ノイズ:ここまでの回答は、読者の心拍数と同期しました]
刑事はペンを持ち直す。
「なら、こう問わせてください」
「あなたは一人の読者として、草花みおんの物語に、どこまで責任を持つべきだと考えますか」
編集者として、なら答えは用意してきた。
でも今、問われているのは、仕事の肩書きではなく——
“暇つぶしで読んだ回数を含めた、わたし自身”だった。
言葉が、喉の手前で固まる。
沈黙が録音されていく。
秒針が、また動き出した。
今度はさっきよりも大きな音で、チッ、チッ、と時刻を刻む。
「……封筒を開けたときのことを、最初からお願いします」
刑事の促しで、昨夜の場面が口からこぼれ出す。
眠れなかったこと。
編集部から持ち帰った原稿ファイルを、パソコンで延々と開いたり閉じたりしていたこと。
深夜二時を過ぎた頃、インターホンのモニターが勝手に点いたこと。
「チャイムは鳴っていませんでした。履歴には『手動起動』って表示されていて……」
「映像には?」
「黒いフードの人影がひとつ。顔はフードの影で見えません。
その影が、玄関の真ん前に封筒を置いて、画面の外に消えていくところだけが映っていました」
「外に出たときには?」
「もう誰もいませんでした。封筒だけが残っていて」
「宛名は」
「ありません」
「差出人は」
「ありません」
「ただ、“第三稿”とだけ」
「マジックで、大きく」
口に出した瞬間、あの黒インクの太さがまぶたの裏に蘇る。
封筒の紙の繊維に、文字がしみこんでいく手触りまで。
「中身は?」
「“編集者の証言”というタイトルの短編です。
——今日のこの取調べを、そのまま小説にしたような」
刑事のペン先が、わずかに止まる。
「つまり、“これから行われる会話”の一部も、すでにそこに書かれていたと」
「はい。ただ、一部だけです」
「どの部分ですか」
「『草花みおんはどこにいますか』という質問と、それに対するわたしの答えが」
刑事は自分の手帳を何気なく見下ろした。
そこには、まだその質問は書かれていない。
会議室の外を、人が通る。
オフィス用スリッパの擦れる音が、遠くに行って、消える。
録音機の赤いランプは、淡々と点滅を続けている。
まるで、ここだけ別の時間を測っているみたいに。
やがて、刑事は目を上げた。
「……では、今からその質問をします」
低く抑えた声だった。
自分でも、少しだけ震えを感じているのだろう。
「草花みおんは、今どこにいますか」
時計の秒針が、ふたたび十二の位置で止まる。
蛍光灯の光が、わずかに色を失う。
机の上の紙束の端が、風もないのにふるりと揺れた。
肺の奥に冷たい空気を吸い込む。
ひゅう、と目に見えない線が喉を通る感覚。
わたしは、ゆっくりと口を開いた。
「——ここにいます」
その瞬間、録音機が高く、低く、二度鳴いた。
赤いランプが青白く変わり、会議室の隅に積まれた段ボールの背表紙が、一斉にざわめく。
印刷された活字が、ゆっくりと書き換わっていく。
営業資料のタイトルも、社史の背も、過去のベストセラーの背も。
黒いインクがにじむように、新しい文字に置き換わる。
草花みおん。
草花みおん。
草花みおん——。
[記録ノイズ:証言者の輪郭が、編集者と読者の輪郭と重なり始めました]
「……っ」
刑事は立ち上がりかけて、途中で止まった。
机の上の自分の手帳の表紙にも、黒い染みが浮かび上がっている。
そこにあった「供述調書」の文字が消え、代わりに細いフォントでこう表示されていた。
【短編小説「編集者の証言」】
録音機が、第三の声を拾う。
『証言は、ここまでです』
男でも女でもない、透明な声だった。
ニュース原稿でも読み上げるみたいに、感情の起伏がない。
『——次は、あなたの番です』
赤いランプが一度だけ明滅し、音が途切れる。
時計の秒針が、何事もなかったように動き出した。
刑事は、ゆっくりと椅子に腰を戻す。
「今の、聞こえましたか」
「ええ」
「この部屋には、録音機は一台だけのはずですが」
「……一台“だった”ことは、ないのかもしれません」
自分の声が、自分のものではないみたいに遠く聞こえた。
[記録ノイズ:読者アカウントの自動登録が完了しました]
◆
後日、調書の写しを見たとき、今の部分は一行も残っていなかった。
代わりに、ファイルの最後に、見慣れない一段が足されていた。
『ここまで読んでしまったあなたも、
いま、取調室の椅子に座っています。
質問です。
——あなたは、草花みおんを読んでいましたか。
——最初に読んだのは、いつですか。
——何度、読み返しましたか。
——そのうち何回が、“暇つぶし”でしたか。
答えは声に出さなくて構いません。
録音は、もう始まっていますから。』
画面の右上に、小さな赤い丸が一つ、点滅している。
そんな機能は、この閲覧ソフトにはないはずだった。
ヘルプ画面を開いても、「録音機能」の項目はどこにも見当たらない。
それでも、赤い丸は消えなかった。
ページをスクロールすると、画面の下の端にもう一行だけ、細い文字が現れる。
[記録ノイズ:この調書の“編集者”欄には、まだ名前が入力されていません]
カーソルが、勝手にそこへ移動する。
点滅する線が、誰かの名前を待っている。
——草花みおん、と入力すれば、すべては元通りになるのだろうか。
ほんの一瞬、そんな考えがよぎる。
同時に、それが一番安易で、卑怯な選択だと分かってしまう。
わたしはマウスから手を離した。
それでも、入力欄の線はしつこく点滅を続ける。
画面のガラスに、自分の顔が映る。
疲れた編集者の顔。
そして、その少し後ろに——
椅子に座って、同じ画面をのぞき込んでいる、誰かの影。
あなたの影。
気のせいだと思うには、輪郭がはっきりしすぎている。
画面の下から、もう一つ、文字が浮かび上がる。
『——次の供述者は、あなたです』
赤い丸が、一度だけ強く光った。
その光が消える瞬間まで、
わたしは画面から目を離せなかった。




