第2話 12月21日 原稿の封筒
【2025年12月21日/曇のち雪】
午前九時十三分、ドアホンの履歴に、黒いフードの影が一つ残っていた。荷物はオートロックの外ではなく、なぜか編集部の私書箱ではなく、自宅の前に置かれていた。差出人のない茶封筒。角はまだ冷たく、雪の水滴が紙の繊維を暗くしている。
封の口は、ガムテープではなく無色の紙テープでまっすぐ閉じられていた。郵便ではない。宅配の伝票もない。けれど封の端に、コンビニのコピー機で打ち出したような薄いラベルが貼られている——【12/21 06:02 出力 A4/片面】。印字のかすれ方で、熱がほんの少し残っていたのだろうと分かる。
テーブルに置くと、封筒は“音”を持っていた。紙が紙をやわらかく擦るような、薄い衣擦れ。揺すらずに、指で四隅を押さえて、真ん中から切り開く。刃は使わない。作者は刃を嫌ったから。紙に刃を入れると、文字が血を流す、と笑っていた。
中身は三つ。
一つめは、グレーの薄紙に包まれた原稿の束。ホチキス留め無し。表紙に黒いインクで——
『草花みおん殺人事件 第二稿』
二つめは、白い小封筒。宛名欄には手書きで**「あなたへ」。封はまだ閉じられている。裏に、小さく丸で囲って——「まだ開けないで」**。
三つめは、コンビニのレシートのコピー。出力:12月21日 05:12/店名・市内。支払いは現金、端数が奇妙に整っていて、1,111円。記録魔だった彼/彼女の癖を思い出す。数の端を揃える。句点を打たない。封は、紙テープで。
原稿の束の一枚目、余白は広く、本文はいつもの「わたし」では始まらない。
「あなたが読んでいるあいだ、わたしは生きている。」
昨夜見つけたファイルの“第二稿”と、語りだしが一致する。けれど、紙の上の文字は、画面のそれより濃い。インクの粒立ちが、指の腹にざらりと触れる。余白に、微かな痕跡——赤い糸くずが一つ、貼りついていた。癖で吹いて、取らない。取らずに、そこにある事実を記録する。
「配達してくれて、ありがとう。
あなたが今朝開けたこの封筒は、昨日のわたしが“明日”のあなたへと送ったものです。
わたしは死後の時間を、手紙で運ぶことに決めました。
郵便局は使えない。だから、手で届けてもらう必要がある。
——この街には、まだ手で運ぶ人がいる。」
ページの下に小さな時刻。〔04:58〕。印刷というより、打ち出し直前に追記された跡。行間が一段だけ詰まり、呼吸が浅くなる。死後の現在形。
読み進めると、今度は二人称が増える。あなた、あなた、あなた。“誰”のことを呼んでいるのか、焦点がわずかにズレ続ける。編集者のわたし? ポストの前に立った影? 今これを読む無数の「読者」? 紙の上のあなたは、いつでも複数だ。
「封筒の角の湿りを指で確かめて。そこに、雪の時間が残っている。
あなたの台所の時計は、九時十四分で止まっていない? 秒針は、遅れているだけ。
窓の右側のカーテンの折り目に、紙テープの細い糊が付いているはず。
それは、わたしではない“誰か”が触れた証拠。
怖がらなくていい。証拠は、あなたを守る。」
思わず視線を上げる。台所のアナログ時計、針は九時十四分と十五秒の間を往復し、すぐに追い付く。窓際のカーテンに、指先を滑らせる。ほんのわずかなざらつき。紙テープの糊の残り。
見られているという感覚と、指示どおりに見つかるという安堵が、同時に胸に立つ。
次のページ、行頭に黒丸。
「・ここから先は、**“まだ開けないで”**の意味について。」
白い小封筒に視線が落ちる。開けないという言葉は、開けたくなるための装置だ。
彼/彼女は昔から、扉の前に言葉を置き、読者に手を伸ばさせるのが上手だった。
「この手紙は“時限式”です。
12月21日 正午。
その時刻になったら、小封筒を開けてください。
それより前に開けると、物語は別の方向へ曲がります。
——あなたが編集者なら、曲がった物語の怖さを知っているはず。」
時刻を見る。九時二十七分。正午まで、二時間半。
原稿は、さらに静かに指示を重ねる。
「湯を沸かして。
大きすぎないカップに注いで、台所の左側に置いてください。
カップの影が文字の影になる。
影は、読むために必要な余白です。」
湯を沸かしながら、封筒の内側にまだ何かないか、光に透かす。紙の繊維が雪のように浮かび、薄い角砂糖が一つ、底に引っかかっていた。まるで子どもの仕掛けじみた遊び。角砂糖をカップの縁に置く。砂糖はゆっくりと湿り、角を失っていく。風化のミニチュア。
君は子どものとき、角砂糖に水を垂らして「雨」を作る話を書いていたね、と喉元まで出かけて止まる。**“君”と呼ぶ習慣は、最後まで許されなかった。“わたし”と“あなた”**の間にしか、橋は架けられない。
原稿は、ときどきニュースの書式で自分自身を引用する。
【速報/12:00予定】小封筒開封。内容:音声文字起こし。
出典:草花みおん『草花みおん殺人事件 第二稿』p.4
音声? 紙の中に、音の記録?
ページの余白に、小さくQRコードのような図形が印刷されている。だがこれはコードではない。四角の中に蔦のような細い線。よく見ると、**蔵書票(Ex Libris)**風の装飾の隅に、手紙シリーズの封蝋マークが隠れている。
わたしはスマートフォンを取り、カメラを開く。反応はしない。けれどレンズ越しに見ると、線が微かに脈打っているように見える。心拍。誰の?
十一時を回るころ、雪は細かく、音を持たない粒になった。窓を少しだけ開ける。冷気が入る。紙が、すこしだけ波打つ。紙が呼吸する。
テーブルの上で、白い小封筒が光を吸い、影を濃くする。
正午を待つ。指先は封の縁を撫でるが、破らない。破らない、という行為を選び続ける時間が、部屋の壁に蓄積していく。
十一時五十八分。
湯はぬるくなり、砂糖は角を失い、原稿の端の赤い糸くずは、今もそこにある。
十二時。
時報が鳴らない家で、秒針だけが、確実に一つ進んだ。
白い小封筒に、刃ではなく、左手の爪を差し入れる。紙の繊維が、静かに裂ける。
中から出てきたのは、薄い透明のシート。
触れると、声が始まった。
「聞こえますか。
——これは、わたしではないわたしの声です。」
その声は、機械では再現できない微妙な揺れを持っていた。録音のノイズでも、ラジオの歪みでもない。息の混ざる位置が、あまりに“生きている”。
けれど確かに、部屋には誰もいない。
スピーカーも、端末も、再生の指示も出していない。
声は、封筒の中の透明シートから滲み出していた。
耳で聞くのではなく、空気の記憶を通して感じるような感覚。
「あなたは今、紙の上の声を聞いています。
音ではなく、文字が空気に変わる瞬間の呼吸を。
だから、怖がらなくていい。これは、録音ではなく、再生でもなく、継続です。」
「継続」。その単語だけが強調されたように響く。
音が薄れた瞬間、机の上の原稿がわずかに震えた。
ページが一枚、勝手にめくれる。
その下の行に、印字ではなく、走り書きの文字があった。
【きょう この部屋の温度 あなたの体温と同じ】
その文に触れた瞬間、指先が少し温かくなった。まるで体温が移ったかのように。
わたしは、息を整える。
紙の上に残るインクの厚みは、まるで心拍の跡だ。
目を閉じると、文字の列がそのまま声に変わって流れ込んでくる。
「あなたが見ている行間の白、それがわたしのいる場所です。
紙の中の白は、死者の部屋。
文字は家具で、改行は扉。
あなたが改行を読むたび、わたしは扉を開けて、すこしだけ外を覗きます。」
——白は、死者の部屋。
わたしはその言葉を、口の中で繰り返す。
声に出した瞬間、部屋の照明がわずかに明滅した。
改行が光になる。
彼/彼女は、文字の内部で生きているのだと、直感した。
再びシートから声が続く。
「封筒の底に、もう一枚紙があるでしょう。
まだ見ていない方の。
それが“あなたの手紙”です。」
慌てて封筒を裏返す。底を軽く叩くと、薄い紙が一枚、滑り出た。
そこにはたった一行だけ、ワープロのフォントで印字されている。
「あなたは、誰ですか?」
それは質問というより、認識の確認のようだった。
紙の下に透けているのは、わたし自身の影だ。
その影が、ゆっくりと揺れ、まるで別の形に変わっていく。
声がそれに呼応するように続けた。
「あなたが名前を言うまで、わたしは眠れない。
でも、名前を言えば、あなたがわたしになる。
どちらを選びますか?」
選択を迫られている。
だがどちらを選んでも、わたしの中の何かが変わる気がした。
沈黙の時間が長いほど、空気が薄くなっていく。
そのとき、また原稿の端の赤い糸くずが、ゆっくりと動いた。
風もないのに、ふわりと持ち上がって、封筒の上に落ちた。
「名前は鍵です。
でも、鍵は扉を開けるためだけにあるのではありません。
閉じておくことも、守ることもできる。
だから、まだ言わなくていい。
——代わりに、一行だけ書いてください。」
机の上の原稿の余白に、ボールペンを置く。
インクが出る音が、いつもより柔らかい。
筆圧を弱くして、白の上にわずかに痕を刻む。
わたしは迷いながら、一行だけ書いた。
「ここにいる。」
その瞬間、透明のシートがふっと軽くなり、声が止んだ。
代わりに、パソコンの電源が勝手に入る。
起動音が響き、画面が光を放つ。
ディスプレイの中央に現れたのは、ひとつのファイル名。
【ここにいる.docx】
マウスを触っていないのに、ファイルが開く。
中には、わたしの書いたばかりの一行が、すでにコピーされていた。
その下に、もう一文。わたしの知らない文が追加されている。
「見つけた。——ようやく。」
指が震える。
ディスプレイの光が白く膨らみ、画面の向こうに、誰かの姿が揺らめく。
男女の区別もなく、髪も輪郭も曖昧な、影のような人影。
その唇が、声を持たないまま動いた。
言葉は聞こえない。だが、形だけで分かった。
——「ありがとう」。
次の瞬間、画面は真っ黒になった。
パソコンの電源ランプも消える。
沈黙だけが残る。
しかし、その沈黙は、どこか穏やかだった。
雪の降る音のように、静かで、あたたかい。
わたしは机に視線を戻す。
透明のシートも、封筒も、もうない。
代わりに、原稿の最終ページの端に新しい行が増えている。
「明日、第三稿を届けます。
どうか、その日も、開けてください。」
インクはまだ乾いていなかった。
日付は、12月22日。
明日のことが、すでに書かれている。
【2025年12月21日/夜、雪】
夕方には配信のニュースが仕様を変え、トップページの見出しから「死亡」の二文字が消えた。代わりに並んだのは〈作家・草花みおん、安否不明〉。一行の言い換えで、世界の温度がわずかに上がる。台所の時計は依然として一秒遅れのまま、しかし、その遅れはむしろ安堵のための余白に見えた。
机の上には「第二稿」の束と、インクの乾いた最終行——〈明日、第三稿を届けます〉。わたしの指はその行に触れず、周囲の白だけを撫でる。白は、彼/彼女の部屋だ。家具に触れないよう、壁だけを確かめるみたいに。
暗くなると、窓の外を歩く人の足音が深くなった。雪は音を飲むはずなのに、今日は反対だ。ひとつひとつの足音が、紙の上の句点のように均等に打たれてゆく。わたしは照明を絞り、机の前に小ぶりのスタンドだけを残した。光が狭まるほど、文字は濃くなる。濃くなった文字は、疑いにくい。
19時を少し回った頃、パソコンの電源がふいに入った。手を触れていない。起動音は鳴らず、画面中央に白い余白だけが開く。ファイル名はついていない。カーソルが点滅を始める。わたしは吸い込まれるように椅子へ戻り、キーボードに手を置いた——置いただけで、押してはいない。なのに、画面の中で一文字が打たれた。
わ
背筋に冷たいものが走る。「第二稿」の冒頭が脳裏に蘇る。あなたが読んでいるあいだ、わたしは生きている。ならばこれは、わたしが“見ている”あいだに打たれる文字だ。もう一文字。
た
唇の内側を噛む。声にしたら、文が壊れる気がした。画面の文字列は、わたしの無音の呼吸と同じ速度で増える。
し は こ こ に い る。
句点は打たれない。代わりに改行が置かれた。扉が開く。白が広がる。その白の中に、今度はわたしの名前が浮かび上がる——はずだった。だが、表示されたのは、編集部のメールアドレスの前半だけ、つまり〈わたしが“仕事で”呼ばれる名〉だった。個人の名は、そこにいなかった。名前は鍵だ。鍵は今、どこにある?
通知音。画面の端にメールがポップアップする。差出人:不明。件名:〈第三稿について〉。本文は短い。
正午に届きます。封を開けるのは、その前でも後でもない。正午そのものに。
追伸:あなたの時計は一秒遅れている。わたしが合わせる。
わたしは時計を見た。秒針は相変わらず一秒遅れている。針の影が壁を這い、ちょうど「第二稿」の束の端に触れたとき、影だけが一瞬、先に進んだ。時計は遅れたまま、影だけが合った。時間は二重になる。影の時間と、物の時間。どちらが正午を指すのか。
夜、編集部からの着信が続いた。出ない。出られない。受話器越しの規則は、文字の呼吸を止める。着信音が三度目でやむと、玄関のほうから紙の気配がした——「第二稿」と同じ、衣擦れのような擦過音。廊下へ出る。冷気が細長く伸びている。足元の絨毯に小さな湿り。扉の隙間から、細い紙テープが一枚、するりと室内へ滑り込んだ。端に朱の小さな封蝋が押されている。手紙シリーズの印。テープには一行。
まだ開けないで
昼の小封筒にあったのと同じ言葉。だが、今度は宛先が続く。
——わたしへ
誰が“わたし”と書いた? わたしか、みおんか、読者か。主語の譲り合いが始まる。譲り合いは、祈りの形に似ている。手を差し出すのではなく、引く。引いた手の間に、白が生まれる。その白に、声が宿る。
22時。湯を沸かす。昼のカップではなく、少し大きめの耐熱ガラスに注ぐ。透明は、温度が見える。湯気が上がる。ガラスの表面に、曇りが一文字ずつ現れては消える。読む。読めてしまう。曇りの文字は、鏡文字になって、逆側の空気に正しく届く。
あ し た
明日。あまりに簡潔で、あまりに決定的。湯気の文字が消えると同時に、窓の外で小さく鈴の音が鳴った。風の悪戯か、誰かの合図か。カーテンの裾を持ち上げると、ガラスに白い息がひとつだけ残った。人の高さではない。少し低い。子どもの背丈。だが、輪郭はあいまいで、性別も年齢も持っていない。こちらを見て消えた。
23時過ぎ、机上の「第二稿」が、ゆっくりと一枚だけずれた。ページの底から、紙片が一つ落ちる。四つ切りの蔵書票。昼間、QRコードに似た図形として見えた装飾に、今は細い文字が追加されている。蔵書票の余白に、鉛筆書きで——
EX LIBRIS / 読むひと
所有者名が書かれていない蔵書票。持ち主は「読むひと」。わたしはそれを「第三稿」のための栞にしようと思い、原稿の束に挟む。挟んだ瞬間、電気がまた一度だけ落ち、戻った。戻ったあと、部屋の配置が少し違う。コートかけの角度、台所のふきんの畳み方、時計の留めネジの位置——物の向きが、読む方向に揃えられている。読まれる準備が、部屋に広がっている。
0時を回ると、雪は音を増やし、電話も通知も止まった。世界が聴く側へ移る。わたしはスタンドの光を消し、暗がりで「第二稿」の束に手を置いた。紙の温度は、人の頬に近い。耳を近づけると、インクの乾いた面から、遠い足音が聞こえる気がした。運ぶ人の足音だ。手で運ぶ人。彼/彼女が昼に書いた言葉——この街には、まだ手で運ぶ人がいる——が、現実の側へせり上がってくる。
眠るのが惜しい。けれど、眠らなければ正午はやって来ない。灯りを消し、目を閉じる。閉じた瞼の裏に、白い余白が広がる。余白の中心でカーソルが点滅し、わたしの脈と重なる。少しして、どこかで扉が鳴った。木の薄い反響。時計は一秒遅れのまま、しかし影だけはぴたりと合っている。
眠りと覚醒の継ぎ目に、声が落ちてきた——昼の透明シートと同じ、しかしもっと近い、口元の温度で。
「ねえ、編集者。
わたしを終わらせないで。
終わりは、あなたが決めることじゃない。
読むことは、封を切ること。
でも、封を切ることは、封を殺すことじゃない。」
指が、夢の中で便箋の封を撫でていた。破らない、という選択を反復する指。破らない時間が長いほど、読める文は深くなる。眠りの底で、誰かがわたしの名を呼んだ。呼び方は、仕事の名でも、戸籍の名でもない。呼ばれた瞬間、わたしはその名を忘れた。忘れることで、白は守られる。
——正午。
目覚ましは鳴らない。だが、時計の秒針が遅れを取り戻す、一度きりの瞬間が来る。影と物が重なる。わたしは身を起こし、玄関へ向かう。雪の匂いが廊下にまで入ってきている。ドアスコープの向こうは白。人影は、ない。けれど、足元に音のない重み。扉を開ける。雪がひとつ息をし、冷気が頬を撫でる。そこに——
薄い茶封筒。今度は角がきちんと丸められ、紙テープの封蝋が二つ。ひとつは手紙シリーズの印、もうひとつは、蔵書票の蔦をかたどった丸。封筒の表には、黒のインクで**『第三稿』**。裏面の端に、小さな鉛筆書きがあった。
正午に、同時に開けてください。
わたしと、あなたで。
時計を見る。秒針が“十二”へ向かう。遅れは、今だけ消えている。封へ指をかける。刃は使わない。紙の繊維がひびき、軽い呼吸のように広がる。正午の鐘は、鳴らない都市だ。だけど、紙が鐘の役目を果たす。わたしと、封筒の中の誰かが、同時に封を切る。その合図が、世界を一行だけ前へ進める——。




