第5話 光の届く場所で
この手紙は、もう誰かに宛てるものではありません。
歩いてきた日々を、静かに見つめ直すための“私から私へ”の手紙です。
珠代が見つけた「支える」という言葉の最後のかたち。
それは、“支えられること”の美しさでした。
春の終わり、庁舎の前の桜並木が、もう若葉をまといはじめていた。
四月の光はやわらかく、まるで世界全体が一息ついたような朝だった。
わたしの机の上には、封筒が三通。
差出人の欄に見覚えがある名前が並んでいる。
一通は、あの少年――ハル。
もう一通は、日和町食堂の匡子さん。
そしてもう一通は、署名のない手紙。
開く前から、胸の奥で何かがゆっくりと鳴っていた。
最初の封筒を開く。
差出人の欄には、
「映像学部一年 春野遼」
大学に進学したらしい。
手紙の最初の一行が、彼らしい。
「珠代さん、あの時の鳥、やっと飛びました。」
白い便箋に描かれたのは、小さなスケッチ。
カメラを構えた少年と、その上を飛ぶ二羽の鳥。
「映像作品にしたんです。
“空の下にも道がある”ってタイトルにしました。
あの日の言葉がずっと残ってて、
どうしても誰かに伝えたくて。」
“空の下にも道がある”――
わたしの胸の奥で、静かにその言葉が再生される。
あの灰色の冬の窓際で、
彼が折れた翼を見つめながらつぶやいたあの言葉。
いま、その翼は他の人を照らしている。
便箋の最後に、こう書かれていた。
「珠代さん。
あのときのあなたの“沈黙”が、
僕を守ってくれたんです。
何も言わない優しさって、ちゃんと届くんですね。」
私は便箋を閉じ、両手で包んだ。
“何も言わない優しさ”。
支えるとは、言葉よりも先に“在ること”。
その単純さが、あの日の自分にはできなかった。
でも彼がそれを受け取ってくれたのなら――
あの沈黙にも意味があったのだろう。
二通目の封筒を開けると、
匡子さんの丸い字が並んでいた。
「珠代さん。
例の“ありがとうポスト”ね、すごいことになってます。
子どもたちが毎日なにか入れるから、
回収が追いつかないの。
“ありがとうが渋滞してる町”って、誰かが言ってました。
いい言葉でしょ?」
思わず笑ってしまった。
渋滞するありがとう。
それはたぶん、世界でいちばん幸せな渋滞だ。
「こないだね、あの若いお母さんが来たの。
“夜が怖い人へ”って紙を書いた人。
今はスタッフ側で、夜の仕込みを手伝ってる。
『私、あの時の紙が届いたから、次は自分が書く番だと思った』って。
そう言って泣いてた。」
文章の途中で、インクが少し滲んでいた。
匡子さんの涙が落ちたのかもしれない。
「ねえ珠代さん。
“支える”って、誰かに届くと同時に、
自分の心の形を教えてくれるんだね。
この町があなたの原点でよかった。」
便箋を畳むと、味噌と出汁の香りがした気がした。
まるで手紙そのものが日和町の朝の空気を運んでいるようだった。
最後の封筒は、白無地で、差出人が書かれていない。
中には一枚の便箋と、折りたたまれた古い写真。
便箋には、ただこう書かれていた。
「あの夜、雪を見た女の子を覚えていますか。」
手が止まった。
あの病棟。あの白い静けさ。
七歳の少女の声。
「あの子の母です。
あの日、あなたが“朝になったら雪が見えるよ”と言ってくれたこと、
ずっと心に残っていました。
あなたの声は、あの子に届いていました。
あの子は、安心して眠れたと思います。」
写真には、小さな女の子が雪の中で笑っていた。
もう十年以上前のもの。
裏には、淡い鉛筆でこう書かれていた。
「珠代さんへ。あの時の朝の光を、ありがとう。」
便箋を握る手が震えた。
涙が一滴、インクを溶かして丸い跡を作る。
あの日、何もできなかったと思っていた。
救えなかった命。
でも、彼女の母の中では、確かに届いていたのだ。
あの小さな声が、いまになって私を支えてくれている。
窓の外で風が吹いた。
カーテンの隙間から、光が差し込む。
机の上の便箋の白が、朝日を受けて淡く輝いていた。
支えるとは、
“光を渡す”ことじゃない。
“光を受け取れる場所を見つける”こと。
わたしは封筒を重ね、そっと胸の上に置いた。
体の奥で、かすかな鼓動が響く。
あの病室のモニター音と同じリズムで。
光は届いていた。
ずっと前から、私の知らないところで。
午前の光が斜めに差し込む日和町駅の前。
春の風が、桜の花びらを細い渦にして舞わせていた。
わたしは封筒を三通、バッグの中にしまいながら、
一歩ずつ、ゆっくりと商店街へ歩き出した。
その道は、かつて朝市で歩いた場所と同じだった。
けれど、風景が少しだけ違って見える。
あのとき“支えようとしていた人たち”が、
いまはそれぞれの場所で“誰かを支える人”になっていた。
最初に立ち寄ったのは、「ひよりの台所」。
昼前なのに、店の前にはもう子どもたちの靴が並んでいる。
中をのぞくと、奥の厨房で匡子さんが腕を振るっていた。
「珠代さん! 久しぶり!」
白いバンダナをした彼女は、相変わらず元気で、
でもどこか以前より、声の調子が柔らかくなっていた。
「今日は見学?」
「ううん。ちょっと、お礼を言いに来たの。」
「お礼?」
わたしはバッグから、一枚の封筒を取り出した。
それは、数日前に彼女から届いた手紙。
「あなたの“ありがとうポスト”が、
この町の支えを繋いでくれてるって書いてあったでしょう?
あれ、あの言葉、私にとっての宝物になったの」
そう言うと、匡子さんは照れくさそうに笑い、
「わたしこそだよ」と言った。
厨房の奥では、高校生のボランティアが包丁を握っていた。
以前、炊き出しの手伝いをしていたあの女の子だ。
「ほら、珠代さん。この子、いま料理学校を目指してるんだよ」
「へえ、すごいね」
「珠代さんに教えてもらった“手が覚える”って言葉、
ずっと覚えてるんですって」
女の子は照れたように笑い、
「手が覚えるって、ほんとだなって思って。
何度も続けてたら、心まで覚えてくれるんですよ」
――その言葉に、胸の奥が温かくなった。
支えられた人が、いま同じ言葉で誰かを励ましている。
まるで、自分の声が遠いところで生まれ変わって届くような感覚だった。
昼下がり、商店街を抜けて公園へ向かう途中、
一本の電話が鳴った。
画面には「春野遼」の文字。
あのハルからだった。
「もしもし、珠代さん? いま駅前の公園にいます。
撮影してるから、時間あったら来てください。」
風の音が混じる声の向こうに、
かつて“空を飛べない”と言っていた少年の笑い声があった。
わたしは足を早めた。
公園の広場では、三脚とカメラが並び、
数人の学生たちが機材を調整していた。
その中心で、ハルが仲間と笑い合っていた。
黒いパーカーはもう着ていない。
明るいグレーのシャツに、カメラのストラップ。
まぶしいほど、健康的な顔つきになっていた。
「来てくれたんですね!」
「あなたに呼ばれたら、断れないもの」
わたしが笑うと、彼は少し照れたように頭をかいた。
「この短編、来月の学生映像祭に出すんです。
タイトルは“渡し舟”。」
「渡し舟?」
「日和町のことを撮ったんです。
支え合いの町っていうか、人が人を渡していく感じを。」
彼はカメラのファインダーを覗きながら続けた。
「珠代さんが言ってたでしょう。
“制度は橋、手は渡し舟”って。
あの言葉、ずっと頭に残ってたんです。」
――わたしの言葉を、
彼が“作品”という形で生かしている。
その事実が、涙よりも早く心に染みた。
カメラが回り始める。
芝生の上を、小学生くらいの子どもが紙の舟を流している。
小川を渡っていく舟の上には、
「ありがとう」と書かれた小さな紙切れ。
「これ、実際にポストに入ってた手紙の言葉を使ってるんです」
ハルの声が風に混じる。
「“知らない誰かに届くありがとう”って、
なんか、光みたいだなって思って。」
わたしは頷いた。
光――そう、光は形を持たない。
でも、確かに届く。
そして、それを信じている人の数だけ、社会は温かくなる。
撮影の合間に、彼がこちらを見た。
「珠代さん。僕、今度この映像のエンドロールに
“あなたの沈黙が、私を支えた”って入れてもいいですか?」
「もちろん」
声が震えた。
「それこそ、あなたが光を渡した証でしょう」
夕方、駅に戻る途中、
ふと視界の端に見覚えのある姿が見えた。
杖をついた長谷さんが、道路の縁に腰を下ろしていた。
その隣で、小学生の男の子が自転車のチェーンを直している。
「おじさん、これでいい?」
「うん、上出来。お前、手つきが職人だな」
「学校で習わないことばっかり教えてくれるんだもん」
「学校も町も、どっちも大事よ」
思わず声が出た。
長谷さんがこちらを見て笑う。
「やあ、議員さん。腰は相変わらずだ」
「でも、心はまだ現役でしょう?」
「はは、まあな。最近は、子どもたちが“巡回便”を手伝ってくれる。
俺たち、もう“はたらくシニア”じゃなくて“教えるシニア”だ」
男の子が得意げに言った。
「僕、次はポストのお手伝いするんだ!」
「“ありがとうポスト”?」
「うん、メッセージを回収して、誰に渡すか決めるの。
僕たち、“ありがとう係”!」
わたしは笑って、目を細めた。
「すてきな役割ね」
長谷さんが頷いた。
「この町じゃ、みんなが“係”だよ。
誰かの手紙を誰かが運んで、また次の誰かが拾う。
そうして町が回ってる。」
――支えることの正体。
それは、きっと“役割”ではなく、“流れ”なのだ。
人から人へ、静かに温度を移していく。
その流れが止まらない限り、この町は生きていける。
夜、家に戻ると、テーブルの上に一通の封筒が置かれていた。
差出人の名前はない。
ただ、宛名の下に小さくこう書かれていた。
「日和町の誰かより」
封を開けると、中には短いメッセージ。
「珠代さん。
あなたが光を探してくれたおかげで、
わたしたちは互いの影を恐れなくなりました。
ありがとう。」
便箋を胸に当てると、
まるで町の鼓動がそのまま伝わってくるようだった。
光は、もう探すものではない。
ここに、ある。
人の手の温度と同じ場所に。
翌朝、私は早く目を覚ました。
窓の外はまだ青く、夜と朝の境目が曖昧な時間。
机の上に置いた三通の手紙を、もう一度ひとつずつ撫でる。
あの手紙たちは、私の過去の点を静かに結んでいた。
支えてきたと思っていた人たちが、
今は私を支える言葉をくれる。
それは、いつの間にか誰かの中で芽吹いた“光”が、
もう一度、私に届いているのだと思った。
午前八時、私は庁舎を抜けて、日和町の丘へ向かった。
ここは町が一望できる高台で、昔から“見晴らし坂”と呼ばれている。
登りきると、朝の光がまっすぐに射し込み、
屋根のひとつひとつが鏡のように輝いていた。
「……これが、支えるってことなのね」
思わず声に出た。
支えるとは、上から差し伸べる手ではなく、
こうして“光を分け合うこと”なんだ。
ひとつの屋根が光を受け、その反射が別の屋根を照らしていく。
その連鎖が町を明るくしていく。
そんな風に、わたしたちの心もつながっているのだと感じた。
そのとき、背後から声がした。
「珠代さん!」
振り返ると、匡子さんが息を弾ませながら坂を上ってきた。
「新しい手紙、あなたに読んでほしくて。」
彼女の手には分厚い封筒があった。
封を開けると、中から色とりどりの紙がこぼれ落ちた。
子どもたち、老人会、商店街の人、看護師仲間、
――すべて、“日和町ありがとうポスト”に届いた手紙の写しだった。
「ねぇ、読んでみて」
匡子さんの声が少し震えていた。
一枚を手に取る。
「おばあちゃんが作ったおにぎり、世界でいちばん美味しかった」
別の紙には、
「学校がいやな日、食堂で笑ってくれた人がいた」
「病気の母を支えてくれた町の人へ、いつか私も誰かを支えたい」
文字は不揃いで、文法もばらばらだった。
でも、どの紙にも共通していた。
“あなたの光が、ここに届いた”という温度が。
涙がこぼれた。
拭っても拭っても、光が滲んでいく。
匡子さんが隣で笑った。
「だから言ったでしょ。
この町は“ありがとうの渋滞”なの。」
二人で笑いながら、手紙を風にかざした。
光を透かして読む文字は、まるで空に浮かぶ祈りのようだった。
その夜。
机に向かい、私は新しい便箋を開いた。
宛名は書かない。
これは、誰かひとりへの手紙ではないから。
「支えるということは、
誰かの痛みを奪うことではありません。
痛みのある場所に、静かに座っていること。
その沈黙が、光になることを信じること。」
「支える人がいる限り、世界は立ち上がれる。
そして、支えられる人がいる限り、希望は消えない。」
「もし、いま誰かが迷っているなら――
どうか思い出して。
光は遠くにあるものではなく、
あなたの隣にある“誰か”の中にあるのだと。」
ペンを置くと、外で風が鳴った。
窓を開けると、町のあちこちで灯がまたたいていた。
ひよりの台所、商店街の角、バス停の明かり。
ひとつひとつが、誰かの暮らしの灯。
私はその光を見つめながら、
心の中で静かに呟いた。
「ありがとう。
この町を、支え合う場所にしてくれて。」
そして便箋を畳み、
封筒に入れてポストへ向かった。
宛名のない手紙。
でも、きっと届く。
誰かの心の中にある、“光の届く場所”へ。
光はいつも、どこかから届いています。
それを受け取れる自分でいることが、きっと生きるということ。
この最終話を書きながら、私は何度も深呼吸をしました。
息をすること――それ自体が、支え合いの始まりなのだと感じたからです。
「支えるということ」
この章の物語は、
実際に地方議員として活動されている方の姿に触れて書きました。
その方は、私の人生の師です。
「支えること」の本質を、行動で示してくれた方です。
この物語が、その方への感謝の手紙になれば幸いです。
――草花みおん




