木曜日の反証
(差出人:藤原誠一/宛先:妻・志乃)
志乃へ。
この手紙は出さない。出すことのない手紙を書いているとき、人間は正直になれるらしい。だから、机に向かっている。封をしない便箋は海のようだ。波打つ白い余白に、言葉が少しずつ沈む。拾い上げて乾かせるうちは、まだ間に合う。
昨日、教育委員会から報告書の控えを受け取った。形式は整っている。事務的で、傷がない。傷がないというのは、つまり、だれかが血を拭いたということだ。俺は長く警察にいた。傷のない書類ほど信用ならないものはないと知っている。現場はいつも、紙よりも不器用だ。足跡は曲がるし、血は思った方角へは流れないし、声は記録されない。紙だけが、世界に直線を引く。
“本人確認は歯科記録により一致”。
この一行は正しい。正しいが、危うい。歯科記録は、本人であることを保証する。だが、それが「誰」であるかまでは教えてくれない。名は、紙に書かなければ、名にならない。記録が先か、現実が先か。長く現場にいると、順番はどうでもよくなる。順番が入れ替わっても、誰も死に返らないからだ。
お前は知らない。いや、知っていて黙っているのかもしれない。通夜の夜、俺は検視官に頼み込んで、作業台の脇に立った。顔は見られなかった。見る資格が、自分にはないように思えた。指先だけを見た。右手の人差し指の爪が、根元から剥がれていた。フェンスの縁に引っかけたときの傷だ。俺はその場で、蓮の指を思い出そうとした。思い出せない。親のくせに、と思った。蓮は左で字を書く。箸は右だったか左だったか。お前がよく笑いながら直していたのを、ぼんやり覚えている。
報告書の末尾に、“いじめの事実なし”とあった。俺はそれを読み、紙の上に手を置いた。指先が、紙の繊維にひっかかる。紙は嘘を吸い込む。十分に薄い嘘は、紙の中で真実と混ざる。俺は視線を外し、窓の外を見た。斎場の駐車場に、花屋のワゴンが停まっていた。白い菊が箱の中で揺れている。風が強かった。風は、何も選ばない。
葬儀の日、お前の手が震えていた。受付の脇の小さな封筒に気づいたか。差出人のない、白い封筒。中に、短い紙片が入っていたと後で聞いた。俺は開けていない。開けるべきだったのかもしれない。だが、俺は、あの日以来、どの封筒もまっすぐに開けられなくなった。封を切る音は、取り返しのつかない音だ。
現場検証のメモを読み返す。血痕はフェンスの左側に集中。手すりの外側の擦過痕。制服袖口の糸くず(赤)。靴跡は二種。片方は土の粒が多く、もう片方はほとんど付着なし。——この列挙は、美しい。美しさは、真実から遠い。
志乃。ここから先は、職務上知り得た事項ではない。父親として見たものを書こう。
前夜、蓮はお前の前でノートに絵を描いていた。左手で、早い線を、迷いなく引く子どもだった。俺は仕事帰りで、廊下からそれを横目に見ただけだ。声はかけなかった。かければ何かが変わったかもしれないと、後で考えた。後で考えることほど、役に立たないものはない。
事故の夜、俺は電話を受けてから校舎に向かった。階段の踊り場で、女子生徒が泣いていた。顔は見えない。肩が震えて、携帯を握りしめている。俺は通り過ぎた。声をかけるべきだった。声は、未来を一つ増やす。俺はその未来を捨てた。
屋上のドアの外に、赤い糸くずが一つ落ちていた。拾うと、指に軽く絡んだ。家庭科の課題で縫った刺繍だと、あとで聞いた。蓮の上着の袖口に縫われた、目印代わりの赤。俺は、その上着が、当夜、誰の肩にあったのかを考える。考えるだけで、答えにはしない。答えは、紙に書いた瞬間に現実になる。紙に書かない限り、現実は、まだ少し揺れている。
“死者の名は、最初に書いた者が決める”。
こんな言葉を、若い頃に先輩から聞いた。身元確認の場で、最初に口にした名が、報告書に残り、新聞に残り、墓に彫られる。もし間違っていても、直す者はいない。直すということは、誰かが最初に間違えたと紙に書くということだからだ。誰も、自分の間違いを紙に残したくない。
俺は、一行だけを書き換えた。これが、この手紙でいちばん大事な告白だ。報告書の第3項、「被疑事由」。そこにあった名詞を、俺は一つ、別の名に置き換えた。習慣的な癖で、インクの色を変えなかった。押印も、署名も、手順はすべて守った。守ったうえで、変えた。俺にできたのは、それだけだ。
なぜか。理由が必要か。父親だから、で足りるだろうか。足りるはずがない。俺は、誰かを守ったのではない。守りたいものの形が分からなくて、最も壊れにくいもの——紙——に賭けただけだ。紙は燃えるが、紙に書かれた記憶は、火よりも長く残る。俺は火よりも紙を選んだ。臆病者の選択だ。
指の傷のことを書いたな。右手の爪。お前は気づかなかったかもしれない。通夜の席で、蓮の友人の一人が、右手の指に白いテープを巻いていた。供花のリボンが照明を反射して、テープの端が灰色に見えた。あの色を、俺は忘れられない。忘れられないのは、そこに確信があったからではない。確信のかわりに、風が吹いていたからだ。風は、俺の頭の中で証拠のように振る舞う。
「いじめの事実なし」。
お前がこの一行を見て、少しだけ肩の力を抜いたのを覚えている。救われたのだと思った。紙の上の言葉に救われるとき、人は現実のどこかを手放している。それは悪いことではない。手放さなければ、生きられない日がある。だが、手放したものが何だったのかは、どこかに書いておくべきだ。俺は、ここに書く。俺が手放したのは、真実の順番だ。
この手紙は、まだ続く。だが今夜はここまでにする。便箋を封筒に入れず、引き出しに戻す。封をしないままの言葉は軽い。軽い言葉は、風に運ばれて、誰かのところへ行く。行った先で、別の名を名乗るかもしれない。名乗りを正す権利を、俺は、もう持っていない。
志乃。眠れ。
誠一
(差出人:藤原誠一/宛先:妻・志乃)
志乃へ。
ここから先は、父親としてではなく、書類に触れてきた人間として書く。紙の手触りは、皮膚の記憶に残る。長年の癖で、俺は行を撫でるように読んでしまう。インクの盛り上がり、打ち消し線の微かな段差、押印の朱が紙の繊維に飲まれる深さ——そのどれもが、言葉の意味より雄弁に見える夜がある。
報告書第3項に、俺は触れた。被疑事由。そこに列挙された事実は、誤ってはいない。だが、名が一つ、間違っていた。いや、最初から間違っていたのかもしれない。現場の混乱の中で、だれかが口にした名が、そのまま仮の正解になった。仮は、てのひらで温めると正解の形に固まる。俺はそれを知っていた。知っていて、指先をその固まりに添えた。
“藤原蓮”。
その行を、俺は一度だけ見直し、吸い込んだ息を吐かずに、打ち替えた。端末のカーソルが、名の上で点滅する。点滅は、ためらいの速さだ。ためらいに等速で明滅し、やがて、別の名に置き換わる。俺はキーを三度叩いた。三度で足りた。姓は同じ、名だけが違ったから。
“神田悠真”。
画面上の名は、すぐにまた“藤原蓮”へ戻った。戻したのは、俺だ。戻しながら、別の欄——身元欄の内部コードに、わずかな入れ替えを施した。紙面に出ない場所。印字に現れない差し替え。紙は表だけを保存する。表の裏には、別の紙が必要だ。俺は、裏のための紙を持っていた。職務の特権という名の、鍵穴の形をした紙だ。
なぜそんな迂遠なことをしたのか。簡単だ。表の名を変えずに、裏でだけ順番を入れ替えるためだ。新聞に載る名は“藤原蓮”。墓に彫られる名も“藤原蓮”。だが、倉庫の金属棚の奥のフォルダには、別の年季の入った紙が増え、そこにだけ“神田悠真”という名が静かに重ねられる。二つの名は、交わらないまま、同じ一点に刺さっている。その一点が、俺の罪だ。
お前に、あの夜の爪のことを話しただろうか。右手の人差し指。フェンスの縁で剥がれた爪は、乾くと黒くなる。皮膚の縁が白く縮み、傷は鈍い痛みを長く残す。俺は指を見て、そこに蓮の指を重ねようとして、うまくいかなかった。蓮の指は、ピアノの鍵盤に触れるとき、左から音を探る癖があった。爪は短く、白い月は小さかった。記憶は、必要なときに限って役に立たない。
現場の靴跡は二種。片方は土の粒が多く、片方はほとんど付着なし。土の少ない足跡は、どこかで靴底を拭ったものだ。誰が、どこで、何のために。俺はそれを紙に書かなかった。書けば、それは問いになる。問いは、答えを呼ぶ。答えは、名を呼ぶ。名は、誰かを傷つける。誰かを守るために、俺は疑問符を封じた。疑問符のない文章は、眠りやすい。眠りやすい文章は、よく通る。
通夜の席で、女子生徒が白い封筒を置いた。受付の脇。誰も気づかないように、しかし見つけてほしい人間だけが気づくように、絶妙な場所だった。俺はその封筒を見て、開けなかった。開けないことが、正しいと思った。いまは違う。開けなかったことが、俺の中の秤を壊した。正しいと思った選択は、正しさの形をしていただけだ。中身は、空だったのかもしれない。空であってほしかった。
“いじめの事実なし”。
この一行を紙に載せたとき、俺はお前の肩が少し落ちるのを横目で見た。紙は救う。救いは、現実のどこかを切り取る。切り取られた現実は、机の引き出しに入れられて、鍵がかけられる。鍵は、俺が持っている。だから、俺は救いの鍵を握りながら、切り取った方の現実から目を逸らした。逸らすことが、守ることだと思い込んだ。
その夜、向かいのマンションのベランダに少女が出てきた。洗濯ばさみを弄びながら、こちらを見ないふりをして、こちらを見ていた。視線の形をした風が、俺の頬を撫でて通り過ぎた。翌日、匿名の手紙が届いた。「落ちたのは右手をポケットに入れていた方」とあった。俺はそれを読んで、封を戻した。封を戻すと、言葉は現実から切り離されて、ただの紙になる。紙は、あたたかい。
——ここに、はっきりと書く。志乃。死んだのは、蓮ではない。紙の上でそうなっただけだ。
ならば、なぜ戻さない。なぜ真名を墓に返さない。答えは、いくつもあるように見えて、ひとつしかない。怖いのだ。俺は、自分が怖い。俺が握った鍵が、俺自身の首にかかっているのが、はっきり分かっている。鍵を回せば、紙の中に押し込めた空気が一気に溢れて、誰かが息を止める。それが誰か、俺は正確に知っている。だから、回さない。
父親としての俺は、臆病者だ。臆病者は、祈る。祈りは、具体を嫌う。「どうかみんな無事で」と言う。無事ではないことを知っているから、みんなと言う。みんなの中に自分も含める。含めて、分配する。責任の半分は風が持っていき、残りは紙が吸い取る。俺の掌には、乾いた繊維の粉だけが残る。
きょう、倉庫の金属棚を開けた。フォルダの背に貼られたラベルは、年月で黄ばんでいる。背表紙の間に指を入れて、一枚の薄いファイルを抜いた。内部コードは、俺が書き換えたままだ。やり直すことはできる。紙の上なら、何度でも。だが、紙の外側では、一度きりだ。一度きりのやり直しを、俺はまだ選べない。選べないことそのものが、選択だと知りながら。
帰り道、門柱の脇の花に、新しい水滴が乗っていた。誰かが置いたのだろう。花びらに指を当てると、冷たさが皮膚に移った。冷たいのに、痛くはない。この冷たさに慣れてしまうのが、いちばん怖い。慣れは、記憶を鈍らせる。鈍った記憶は、やがて紙にも書かれなくなる。
志乃。もしこの手紙を出す日が来たら、そのときは俺と一緒に名前を言い直そう。墓の前で、新聞の切り抜きの前で、職員室のコピー機の前で、向かいのベランダを見上げる少女の前で。間違っていた、と声に出して言う。間違いは、声にした瞬間に変化する。恥から、始まりに。もしそれができないなら、せめて俺の胸の中で、今、言い直す。
——蓮は、生きている。
この文を、俺は火にくべない。火は便利だ。便利すぎる。灰は軽く、風に乗る。風は、どこへでも行く。行った先で、まただれかの頬を撫でる。俺は火ではなく、封を選ぶ。封をして、引き出しに戻す。鍵は、まだ俺の手にある。
明日、金曜日。観察する目が、こちらへ向く日だ。目は、俺の嘘より正確だ。だから今夜は眠る。眠れなければ、目を閉じる。目を閉じるのは、眠る練習だ。起きていても、眠っているふりができる。ふりは、いつか本物になる。俺が長年、紙で学んだことはそれだけだ。
志乃。お前は眠れ。眠れないなら、俺のかわりに目を閉じてくれ。俺が開けているから。誰かが開けていれば、もう片方は閉じていられる。そうやって、夜を分け合おう。
誠一




