火曜日の密告
(ノートの切れ端/筆跡:右手。日付:4月14日)
俺は、もう誰にも話す気はなかった。どうせ信じちゃくれない。あいつが屋上から落ちたって聞いたとき、最初に思ったのは“やっと静かになった”だった。そう書くと俺が悪者みたいだが、違う。俺は、あいつをいじめてなんかいない。ただ、少し、調子に乗ってただけだ。
あいつ——藤原蓮は、最初から目障りなやつだった。真面目ぶって、先生の前ではいい顔して、俺らがふざけてると眉をひそめる。そういうの、ムカつくんだよ。みんなも笑ってた。俺はただ、みんなが笑えるように場を回してただけだ。なのに、教師は俺だけを呼び出して説教する。お前がリーダーだから責任がある、だとさ。笑わせんなよ。リーダーなんて頼まれた覚えはない。
俺はその日、初めてムカついたまま殴った。蓮は殴り返さなかった。だから余計に腹が立った。自分だけ被害者ぶってるように見えた。帰りの昇降口で「もうやめろ」って言われた。あの言い方が頭に残ってる。“やめてくれ”でも“もうやめて”でもなく、“やめろ”だった。命令みたいで、あいつのくせに偉そうだった。
そのとき、俺の右手の指が痛かった。たぶん軽い骨折だ。フェンスの金網を殴って、皮が剥けた。血がにじんで、ポケットの中で固まってた。絆創膏を巻いたけど、まだうまく動かない。字も少し曲がる。それでも書いてる。書かないと、頭の中がぐるぐるして眠れない。
明日、ちゃんと話すつもりだった。蓮と。ちゃんと話して、誤解を解く。俺は別にあいつを嫌ってたわけじゃない。むしろ、羨ましかった。頭も良くて、真っ直ぐで、誰にも嫌われない。俺にはそういう生き方ができなかった。だからからかった。あいつが困ると、クラスが笑う。笑いが起きると、俺が中心にいるみたいで気分が良かった。そんなくだらない理由だ。
でも最近、笑えなくなってきた。先生が「自殺の兆候を見逃すな」とか言ってるのを聞くたびに、胸がざらつく。俺は加害者じゃない。あいつが勝手に思い詰めただけだ。そう思わないと、息ができない。だからこうして書いてる。書いて、言い訳して、形にして、やっと少しだけ落ち着く。
明日は、ちゃんと謝る。屋上で待ち合わせた。場所はあいつが指定した。夕方の六時。風が強い日になるって天気予報で言ってた。風が吹くと、屋上のフェンスが鳴る。あの音、嫌いだ。鉄の匂いが鼻の奥に残る。だけど、話すならあそこがいい。誰もいないし、音が全部、風に流されるから。
俺は悪くない。そう言い切れるように、明日、全部話す。謝って、手を出したことも認める。殴ったのは一度きりだ。それ以外は冗談だ。あいつが本気にしただけだ。……いや、違うな。たぶん、俺が本気を冗談にして逃げたんだ。あいつの目を見たとき、なんか負けた気がして笑った。それが最後の笑いになった。
最近、クラスのやつらが俺を避けてる気がする。誰も何も言わない。先生も普通に授業してるけど、目が合うとすぐ逸らす。母さんは仕事でいなくて、夜は一人だ。テレビをつけてもニュースが入ってこない。無音の時間が怖い。だから、書く。書いてれば、俺はまだ誰かに話してる気になれる。
俺は、あいつを殺してない。これは誓いだ。あいつがどうなろうと、俺のせいじゃない。あいつは自分で選んだんだ。屋上に来ることも、あの場所を選んだことも。俺は、ただそこにいた。見てただけだ。手を伸ばしたのは、止めるためだった。押してない。誓って押してない。俺の右手は、血が出てたけど、触れてない。風が吹いて、あいつが——
……いや、まだ書くな。これは明日の話だ。明日話して、ちゃんと終わらせる。だから、もし俺がこのノートを破っても、誰かがこれを拾ったら信じてほしい。俺は、押してない。俺は、加害者じゃない。俺は、ただ——風に負けただけだ。
風のせいにするなって、先生なら言うだろう。でも、風は本当に強かったんだ。立っていられないくらい。あいつの上着の刺繍がひらひらして、夕日の色に見えた。赤い糸が風に舞って、光って見えた。あの瞬間、俺は——何もできなかった。
右手の指が疼く。血の匂いがまだ落ちない。風が吹くたび、金属の音が耳の奥で鳴る。あれはフェンスの音か、それとも誰かの声か。もう区別がつかない。
明日、屋上で話す。ちゃんと話す。それが終わったら、全部終わりだ。もう書かない。これが最後の手紙になる。だから、これだけは残しておく。
> 押してない。俺は、押してない。
(発見時刻不明の手紙/紙質:ノート切れ端。筆跡:右手。未日付)
風の音が強くなっている。金網のひずんだ間を抜けて、校舎の壁を打つたびに、世界の端が揺れるような気がした。屋上のドアを開けると、空は鉛色だった。夕陽は沈みかけ、雲の切れ間に赤い光が滲んでいる。あの赤が、あいつの刺繍と同じ色に見えた。胸の奥がざらつく。手の中のノートが重く感じる。
待っていた。いつも時間どおりに来るやつが、今日は少し遅れた。風が髪を乱して、目に砂が入る。ポケットの中のライターがカチャリと鳴るたびに、手の震えが伝わる。右手の包帯は少し湿っていた。指先が冷たい。書きかけのページの角がめくれて、また折れた。どうでもいいことばかりが気になる。待つというのは、こんなに長いことだったか。
ドアが開く音がした。振り返ると、あいつがいた。制服の裾が風にあおられている。いつものまっすぐな目をしていた。笑ってもいない、怒ってもいない、ただ静かな顔。
「……来たんだな」
自分の声が風に溶けていく。あいつはうなずいた。それだけで、心臓の鼓動が乱れた。どんな顔で謝ればいいか、考えてた言葉が全部どこかに消えた。
「この前のこと、悪かった」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けなかった。あいつは少し俯いて、フェンスに近づいた。夕陽があいつの輪郭を切り取って、光の縁が赤く揺れている。俺はその背中に向かって言葉を探す。
「俺、別に、お前のこと嫌いじゃなかった。冗談で……」
風が遮った。金属の音が高く鳴る。あいつが振り向いた。その目に、何かが映った気がする。恐怖か、諦めか、あるいは何もないか。俺には分からなかった。
「やめてくれ」
その声が、確かに聞こえた。けれど、どちらが言ったのか分からなかった。俺か、あいつか。風がすべてを飲み込んで、言葉が反響した。フェンスが震え、鉄のきしみが鼓膜を刺す。
気づいたら、俺は右手を伸ばしていた。止めようとしたのか、掴もうとしたのか、それとも——。手のひらに、何かの布の感触があった。滑るように離れていった。風が、強すぎた。
落ちていく影は、夕陽の赤を引きずりながら消えた。声はなかった。世界が一瞬で無音になった。俺はフェンスを掴んだまま動けなかった。右手の包帯が裂け、指先に血がにじむ。鉄の匂いと血の匂いが混ざって、吐き気がした。
何分経ったのか分からない。膝が震えて、立ち上がることもできなかった。ドアの向こうに誰かの足音が近づいてくる気がした。慌ててノートを閉じた。ページの端が風でめくれ、鉛筆の芯が折れた。俺はノートをポケットに押し込んで、ドアの影に身を隠した。足音は近づき、そして遠ざかった。
その後の記憶は曖昧だ。階段を下りたのか、それとも座り込んだまま夜を迎えたのか、分からない。風の音が耳の奥で鳴り続けている。何かを呼ぶ声が混じっていた気がする。もしかしたら、自分の声だったのかもしれない。
俺は押していない。あの瞬間、確かに手を伸ばしたけど、押してなんかいない。掴もうとしたんだ。止めようとした。だけど、風が……風が全部持っていった。俺の右手の中には、何も残らなかった。
このノートを見つけた人へ。信じてほしい。俺はあいつを殺してない。あいつは、自分で……いや、違う。そうじゃない。書きながら、もう何が本当か分からなくなってきた。風の音がまだ止まない。金属の音が続いてる。耳の奥で、誰かが笑ってる。誰の声だ?
指先の感覚がなくなってきた。紙が滲む。もう書けない。手が、冷たい。もし、これが最後のページなら——誰か、伝えてくれ。
> 俺は押してない。俺は、止めようとしただけだ。




