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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
七日間の真実

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月曜日の沈黙

 手紙は、いつも朝より先に届く。まだ誰も目を覚ましていない時間、ポストの中で紙が静かに呼吸している。冷たい空気の中で、封筒の端がわずかに膨らむとき、世界はほんの少しだけ温かくなる。書かれた言葉が、誰かの指先から離れた瞬間に、物語は始まっている。


 これは、七通の手紙がたどる一週間の記録だ。月曜日から日曜日まで、ひとつの出来事を、それぞれの視点がすこしずつ異なる角度から見つめていく。誰もが同じものを見て、同じように沈黙し、そして違う言葉を選んだ。七通の手紙は、まるで風のように交わりながら、やがて一つの真実に収束していく。


 けれど、この物語は事件の解明だけを語るものではない。真実とは、いつも複数形で存在している。誰かにとっての“事実”が、別の誰かにとっての“赦し”であることもある。手紙はその狭間を縫うようにして、静かに世界のかたちをなぞっていく。語られなかった言葉の中にこそ、人の心が宿る。沈黙は、嘘の隣にあるものではなく、祈りの隣にあるものだ。


 この七日間に書かれた手紙のいくつかは、宛先に届かない。あるものは捨てられ、あるものは燃やされ、あるものは風に攫われる。けれど、どんな手紙も確かに存在した。存在したという事実が、もう一つの真実になる。たとえ誰も読まなくても、書くという行為そのものが、世界とつながる最後の糸になるのだ。


 風、沈黙、名前、赦し、そして祈り。 この五つの言葉を胸に、七つの手紙が順番に封を開いていく。 それぞれの一日が、それぞれの沈黙を抱えて。 そして、最後の日曜日に、すべての沈黙が一つの声になる。

(浅倉浩一・教育委員会報告書(未提出)/個人書簡)


夜明け前の職員室は、まだ暖房も入っておらず、紙の擦れる音だけが響いていた。

浅倉浩一は、指先の感覚を確かめるようにペンを回し、机の上の報告書を見つめていた。

「藤原蓮、自殺。」

たった九文字。それだけで、全てが終わったように見える。だが、書き終えるたび、どこかに書き直したくなる。

“これは本当に、終わりなのか?”


窓の外、校庭の砂が風で薄く動く。昨日は通夜、今日が告別式。

教師という立場で参列しながら、浅倉は遺影の中の少年が静かに笑っているのを見ていた。

藤原蓮――二年三組、成績は中の上、友人関係に大きな問題なし。

だが、彼が屋上から落ちた夜、浅倉は職員会議を終え、最後に校舎を見回っていた。

そのとき確かに、屋上から「声」を聞いた。二人分。

だが暗闇の中、誰が話していたのか分からなかった。

あれから警察の聴取で何度も同じ質問をされたが、彼は一度も「二人いた」とは言っていない。


理由は分からない。ただ、言葉が喉で止まった。

もし「もう一人」が存在したとしても、それを証明するものは何もない。

フェンスの手すりに付着していた血痕は左側に集中していたという。

自殺なら十分ありえる形だと捜査員は言った。

だが――浅倉の記憶の中で、転落した影は右手を伸ばしていた。

その一瞬が、頭から離れない。


机の引き出しには、未提出の「教育委員会報告書」が一通残っている。

そこには“転落の際、複数の声を聞いた”と書いてある。

だが、同僚の教頭に止められた。

「余計なことを書くな。マスコミが騒ぐ。」

それで、浅倉はその一文を削った。

削除線も残さず、ただ“沈黙”で上書きした。


午前七時を回ると、窓の外の光が白く強まっていく。

蓮の母親が校門に花束を置きに来る時間だ。

浅倉はいつもより早くネクタイを締め、上着を羽織った。

鏡の中の自分の顔が、思ったより老けて見える。

一夜で十年分、年を取ったような気がした。


蓮の机には、まだ教科書が残っている。

誰も触れられないように、透明なビニールで覆われていた。

机の中に入っていたノートの一冊――そこに「おれは悪くない」という落書きがあった。

黒いマジックで力強く書かれた一文。

“おれ”。

蓮は普段、作文では「ぼく」を使っていた。

それが浅倉には引っかかった。

だが、母親が言うには「最近、少し荒れていた」と。

本人の筆跡に間違いないと、そう結論づけた。


書類の束を閉じながら、浅倉はため息をついた。

同僚の何人かは早くも「卒業アルバムの写真どうする?」と話している。

日常は、誰かの死を待たずに進む。

だが、彼の心だけが、あの日の屋上に取り残されたままだ。


放課後。

生徒の一人――神田悠真が呼び出しを受けてやってきた。

「先生、もう終わったことっすよね?」

挑むような声だった。

浅倉は笑ってうなずいた。

「そうだな。終わったことだ。」

だが、神田の靴の泥がまだ乾いていなかった。

あの屋上にいたのは、彼だったのではないか。

その思いが頭をよぎる。

けれど、証拠はない。

疑いを持つことはできても、断定はできない。

教師という立場は、真実よりも秩序を優先させる。

そうしてまた、彼は一つ嘘を重ねた。


夜、家に帰ると机の上に一通の封筒が置かれていた。

差出人のない白い封筒。

裏には、見覚えのある文字でこう書かれていた。


「先生は、本当のことを言わない。」


中身は便箋一枚。

そこにはただ、“あの夜、屋上には二人いた”とだけ書かれていた。

筆跡は、蓮のものに似ていたが、完全には一致しない。

浅倉は震える手で便箋を折りたたみ、引き出しにしまった。

翌日、教育委員会へ提出した報告書には、何も書き加えなかった。


「転落の原因、いじめの事実なし。」

それで一件落着。

校内も静かに落ち着きを取り戻していく。

だが、浅倉の耳には――夜ごと、風の中で“もう一人の声”が蘇る。


「やめろ、押すな!」


その声が誰のものか、今でも分からない。

けれど彼は知っている。

“あのとき、助けられたのは一人ではなかった”ということを。


 便箋をしまった引き出しは、夜になると音を立てて膨らむように思えた。冷蔵庫のモーター音と、窓のサッシを撫でる風の鳴りが、あの夜の屋上へと耳を連れ戻す。私は湯を沸かし、湯気を眺め、カップの縁に指を当てる。熱さを確かめるこの儀式で、私は現実に繋がろうとする。


 だが、現実は静かすぎる。静けさは、ときに証言よりも雄弁だ。私は机へ戻り、下書きの報告書に赤いペンで線を引いた。——「複数の声を聴取」。その文言の上を、何度も往復する。インクが滲み、紙が毛羽立つ。最終的に、私は線ごと切り抜き、灰皿の上で燃やした。火はすぐに小さな輪を作り、灰は簡単に崩れ、跡形もなくなった。あの声も、こうして消せるだろうか。


 翌朝、校門の前に立つと、空気は冬の手触りに似ていた。季節は春のはずなのに、息が白く見える気がする。蓮の母親はいつものように花を持ってきた。白い小菊、薄いリボン。私は声をかけようとしたが、喉の奥がぎしりと固まって何も出なかった。彼女はこちらを見ず、花束を門柱の脇にそっと置く。指の関節が細く震えていた。あの指は、遺影の前で線香を持つたび、微笑むように曲がる。


 ホームルーム。空席は教室の空気を歪ませる。席札に触れる者はいない。私は挨拶をし、授業の段取りを説明する。声はいつも通りの高さで、文法も間違えない。だが、黒板にチョークで書いた日付の「15」の「5」が妙に右へ流れた。黒板を見つめていた数名の視線が、ほんの一瞬だけそこに集まる。


 休み時間、神田悠真が廊下で私に話しかけてきた。昨日とは打って変わって、軽い調子だ。


「先生、今日の小テスト、範囲はどこですか」


「配布したプリントどおりだ」


「了解っす」


 彼は私の肩越しに教室の空席を一瞥し、ふっと笑うでもなく口角を揺らした。そのとき、彼の右手の人差し指に白いテープが巻かれているのに気づく。テープの端は少し剥がれ、汚れた灰色が指先に滲んでいた。——屋上のフェンスは、硬い。金属の目地は指の爪を簡単に奪う。


 放課後、私は生活指導の名目で数名の生徒を呼び、短い面談を行った。言葉を選ぶ。いじめ、という語を避け、配慮、という語を多用する。言葉は形を変え、意味を削ぎ、輪郭をぼかしていく。やがて言葉は、沈黙と区別できないほど薄くなる。薄くなった言葉は、だが、いつまでも耳に残る。


 職員室に戻ると、机の上に、封筒がもう一通置かれていた。誰が置いたのか、見ていない。差出人は書かれていない。裏面の糊付けが甘く、封は軽く触れただけで口を開いた。中には一枚のコピー紙。そこに、走り書きのような文字でこう記されていた。


屋上で「押すな」と言ったのは僕じゃない。


 私は椅子に座り直した。コピー紙のトナーはまだ新しく、指に軽く黒が移る。文末の止めが、紙の端で不自然に鋭く切れている。右手で書かれた字だ、と直感した。根拠は曖昧だ。だが、左手で書く者の線は、たとえ達者でもどこか曲線に甘さが残る。私は、学級の書写の授業で、その違いを何度も見ている。


 夜、教育委員会への提出用に整えた報告書を、封筒へ入れ直す。封を閉じる前、ふと窓の外に目をやる。向かいのマンションのべランダに、人影が動いた。こちらを見ている気配。すぐにカーテンを引いた。視線は、事実を生成する。視線があるだけで、起こらなかったことが「起こったこと」になる。私は視線を遮断した。私自身が、事実を作らないために。


 その夜は浅い眠りが続いた。夢の中で、金属の縁が歯に触れる。歯科記録、という言葉が、白い照明の下でちらつく。「本人確認は歯科記録で一致しました」——検視官の声は平板で、冷蔵庫のモーター音に似ている。私は夢の中でうなずき、そして目を開けた。


 翌朝、通夜の席で見たものを思い返す。蓮の母親が持っていた紙片——透明な袋に入れられた、一枚のメモ。彼女はそれを宝物のように撫でていた。「あの子の遺書です」と、彼女は言った。私は紙越しに、その筆跡を一瞬だけ見た。迷いの少ない、筆圧の強い線。右下がりの癖。私は、何も言わなかった。「立派な遺書でした」とだけ言った。その瞬間、彼女の肩の震えは止まった。言葉は、麻酔にも刃物にもなる。


 告別式の後、私は校舎に戻った。昇降口を入ってすぐの掲示板には、生徒会の連絡と、生活指導の注意書きと、誰かの落書きが重なっていた。私は画鋲で留められた紙の角を整え、不要な張り紙を外した。右側の端に小さな赤い糸くずが付着している。私はそれを指先で摘み取る。制服の糸色と同じ、深い赤。蓮の上着には、家庭科の授業で縫われた小さな刺繍があった。夏帆が縫った、と聞いている。——その上着は、事故の夜、どこにあったのか。


 私は報告書の余白に、箇条書きでメモを書いた。


声は二つ。片方は掠れて低い。


血痕は左側に集中。


遺書の筆跡、右手の線。


指先のテープ。右手人差し指。


赤い糸くず。


 列挙すればするほど、語らない方が整って見える現実があると、私は学ぶ。整合性は、真実とは限らない。むしろ真実は、常にわずかに歪んでいる。歪みは、生活の中で見えなくなる。その見えなくなった歪みが、ある日、誰かを落とす。


 夕方、教頭から電話が入った。「報告書、提出したかね」


「はい。今日付で、簡易のものを」


「よろしい。メディアが来る。余計なことは言わないでくれたまえ」


 ——余計なこと。私は受話器を置き、窓を少しだけ開けた。冷たい風が書類の角をめくり、便箋の端を持ち上げる。差出人のない手紙が、そっと私に顔を見せる。私はそれを取り上げ、裏返す。何も書かれていない。空白がある。空白は、書かれていないが、確かに存在する。


 私はペンを持ち、便箋の端に小さく書いた。


「私は、知っている。」


 そして、その下にさらに小さく書いた。


「だが、証明はできない。」


 夜が来る。窓の外、向かいのマンションのベランダに少女が出てきて、洗濯ばさみをいじっている。こちらを見ているのか、見ていないのか判然としない視線。私はカーテンを半分だけ閉じた。そのわずかな隙間から、少女の手が右ポケットを探るように動いたのが見えた。——私は息を呑む。右手。


 私は報告書の最終ページに、決定的な一文を追加しかけ、そしてやめた。紙の上で、インクの点だけが残る。点は、何も語らない。だが、点は存在の証拠だ。私はその点の上に、封筒を落とした。点は見えなくなる。封をした。封は、開けられるためにある。


 夜半、机の引き出しがまた音を立てる。私は耐えかねて引き出しを開け、便箋を取り出し、ベランダへ出る。ライターの火を点けようとして、ふと指を止める。火は、都合のいいものを選んで燃やす。だが、灰は、風に混じって必ず戻ってくる。私は火を消し、便箋を折りたたんで封筒に戻した。戻したことで、私の中で何かが確定する。私は、沈黙を選んだ。


 それでも、眠りは浅かった。午前三時過ぎ、玄関の方から音がした。新聞ではない。もっと軽い、紙一枚の落ちる音。私はスリッパの音を殺し、扉を開けた。廊下の薄明かりに、一通の薄い封筒が落ちている。拾い上げると、表にこうある。


「火曜日へ渡す前に、先生だけが読んでください」


 裏面の封はされていなかった。私は躊躇の後、封を開けた。中には、日付のない、青い罫の大学ノートから切り取られた紙が一枚。文字は——やはり右手の線。勢いがあり、癖が強い。そこには、屋上で交わされた会話の断片が、箇条書きで記されていた。


「返せよ、その上着」


「寒いって言ってたろ、あいつに返す」


「お前が着てろよ、似合ってる」


「押すなよ」


 四つの行。四つの声。私は読み返す。声の主を当てはめる。どの行も、蓮の声にも、神田の声にもなる。言葉は、誰の口にも乗る。だが、書き手は一人だ。右手で、迷いなく、書く手。


 私は紙を折り、封筒に戻し、玄関の靴箱の上に置いた。明日の朝、これをどうするか。教育委員会へ提出するか、破棄するか、あるいは——誰かに渡すか。思考は渦を巻く。渦の中心は、空白だ。空白が、私を引きずり込む。


 その夜の最後の記憶は、窓の外で風が止む音だった。音が止む、という表現は奇妙だ。だが確かに、止むのだ。止んだあとに残るのは、耳鳴りのような沈黙。その沈黙の中で、私は一行を書き足した。


「転落の原因、いじめの事実なし」


 私はその一行に、誰も読めないほど小さな疑問符を打った。疑問符は、紙の繊維に沈み、光の角度でかろうじて見える。——これが、私の全てだ。私の全ては、誰の役にも立たない。


 翌朝、職員室の机に座ると、封筒が二通、私の名を呼んでいた。一通は、教育委員会からの返信。形式的な受領通知。もう一通は、差出人不明。宛名だけが、丁寧な活字で印字されている。封を開けると、短い一文が、清潔な字で浮かび上がった。


「先生は、あの夜、何人の足音を聞きましたか」


 私は時計を見た。始業まで、まだ十二分ある。私は目を閉じ、あの夜の風の中へ耳を伸ばす。聞こえてくる。金属の階段を駆け上がる靴音。一、二。止む。沈黙。金属の柵を握る音。呼吸。声。


 ——足音は、二つだった。


 私は目を開け、紙を折り、封筒に戻した。私が答えるべき相手は、もうここにはいない。火曜日は、やがて誰かの手へ渡るだろう。私の沈黙は、そこで別の形を得る。


 報告書を封筒に入れ直し、封をした。私は指先で封の端をなぞる。紙の繊維が指紋に引っかかる。私はその感触を記憶した。これが、私の証言だ。誰も読まない、紙の感触。


 教室のチャイムが鳴る。私は立ち上がり、黒板の前に立つ。チョークを持つ手が、小さく震える。震えは、やがて止まる。私は日付の横に「月曜日」と書いた。「曜」の最後の一画を、ほんのわずかに遅らせる。遅れは、誰にも気づかれない。黒板消しは、何も見なかったように、それを吸い込む。


 私は振り返り、空席を見つめる。そこに、声はない。だが確かに、気配がある。気配は、いずれ文字になる。文字は、いずれ手紙になる。手紙は、いずれ火曜日へ渡る。


 それまでのあいだ、私は沈黙を守る。沈黙は、私に残された最後の教師らしさだ。

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