ただいまの音
〔手紙〕
> 帰ってくる音が、いちばん好き。
――お母さんより
夜風が少し冷たくて、髪が頬に触れた。
駅からの道を歩くうちに、
コートの内側に少しだけ街の匂いが残った気がした。
鍵を取り出すと、手のひらが汗ばんでいた。
久しぶりに帰る家の前で、
どうしてか、少しだけ呼吸が整わなかった。
玄関の灯りは消えていた。
その暗さに寂しさはなかったけれど、
灯りがついていた頃のぬくもりを、
無意識に探してしまう。
金属の触れる音。
鍵を回すと、戸の向こうから
ひんやりした空気が流れ出てきた。
「ただいま」
声に出すと、それだけで
部屋の中が少しだけ広く感じられた。
部屋の中は、少し冷えていた。
けれど、空気の奥には、
微かに何かの香りが残っている。
洗剤と、木の床の匂い。
それに混ざって、
ほんの少しだけ、カレーの香り。
まな板の上に、切りかけのにんじんがあった。
その色だけが、台所の中で時間を止めていた。
「お母さん?」
返事はなかった。
台所の時計の音がやけに大きく響いた。
冷たい風が、どこかの窓の隙間から入ってきた気がした。
その空気の中に、
ほんの少しだけ、外の匂いが混ざっていた。
その時だった。
玄関の鍵が回る音。
外の冷たい空気と一緒に、声が入ってきた。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……私こそ、ただいま」
思わずそう言って、母のもとへ駆け寄った。
コートの袖を軽く払う母の胸に、両腕を回す。
一瞬の不安と安堵が入り混じって、
知らずに、一滴、涙がこぼれた。
「久しぶりに会ったら、子どもの頃と変わらないわね。」
母がそう言って笑った。
「ハチミツ切らしちゃってね。途中で気づいたら、もう落ち着かなくなって。
買いに出たら、あなた帰ってたのね。」
その声が、あまりにも日常で、
知らずに、一滴、涙がこぼれた。
その夜、
ふたりはたくさん言葉を交わした。
都会に出るときは、何も感じなかった。
けれど時間が経つにつれて、心のどこかにぽっかりとした隙間ができていた。
それを埋めるように、ふたりは語り合った。
時が何年もさかのぼったように、
母と娘が笑いながら話した。
テーブルの上の湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていった。
そのぬくもりが、
「おかえり」と言っている気がした。




