冷めないスープ
〔手紙〕
> 隠し味に、マヨネーズを少しだけ。
それでまろやかになるから。
――お母さんより
夜勤明けの朝、世界の音が少し遠く感じられた。
アパートの窓ガラスはうっすら曇っていて、
冷たい外気が触れるたび、
ガラスの向こうで光がぼやけて滲んだ。
キッチンに立つと、
昨夜のままの鍋が、コンロの上で静かに冷えていた。
ミネストローネの表面には薄い膜。
スプーンの先で触れると、
膜が静かに割れて、ゆっくりと沈んでいく。
その音が、小さなため息みたいだった。
鍋のそばには、一冊のノート。
ページが半分ほど折れたまま、
開かれたその隅に、
母の丸い字がにじんで残っている。
> 隠し味に、マヨネーズを少しだけ。
その文字を見た瞬間、
ふっと笑ってしまった。
「またそんなこと言ってたっけ」と。
でも、不思議とページを閉じられなかった。
母はよく言っていた。
> 「マヨネーズをちょっと入れるとね、味がまろやかになるのよ。」
私はいつも「それ、油っこくなるだけじゃない?」と笑い飛ばしていた。
母は笑って、「違うのよ」と言いながら、
お玉をくるりと回す。
そのたびに、湯気の向こうで
トマトの匂いがふわっと広がった。
「ちょっとしたことで、変わるのよ。」
そう言ってから、
母は必ず小さく「ふふ」と笑った。
私は鍋に火をつけた。
金属が膨張する音がして、
やがて細かな泡が底から立ち上がる。
冷めた匂いが、少しずつ色を取り戻すように
トマトと玉ねぎの香りが混ざり合う。
戸棚の中から、半分残ったマヨネーズを取り出す。
蓋をひねると、
わずかに残った圧が抜けて、
空気の音が“ぷしゅ”と鳴った。
スプーンにひとすくい。
その白い塊を、鍋の中央に落とす。
音はしない。
けれど、その瞬間だけ、
部屋の空気が静まり返った気がした。
木べらでゆっくりと混ぜる。
白が赤に溶けて、
スープの色がまろやかに変わっていく。
その色は、
まるで昔の台所の光景のようだった。
味見をした。
舌に触れた瞬間、
酸味の角がふっと溶けた。
まろやかで、やさしくて、
けれど確かに母の味だった。
そのとき、湯気の向こうから、
声が聞こえた気がした。
> 「ね、言ったでしょ。マヨネーズを少し。
それだけで冷めにくくなるの。」
あの頃の私は、
“スープの話”としてしか聞いていなかった。
けれど今は違う。
冷めにくくするって、
きっと“想い”の話だったんだ。
火を止めると、
鍋の中の泡がゆっくりと沈んでいった。
スープを器に移す。
金属のスプーンが、陶器の縁をかすめる音。
ふわりと立つ湯気が、
頬にやさしく触れる。
私はひと口飲んだ。
口の中に広がる温かさが、
体の奥に届いていく。
少し涙が滲んで、
でも、それが自然なことのように思えた。
窓の外では、
ようやく朝の風が動き始めていた。
世界が少しずつ目を覚ます中で、
私はもう一口スープをすくった。
「ほんとだね。」




