花瓶の水
〔手紙〕
> ちゃんと水替えしてあげてね。
花は、それで長く生きられるのよ。
――お母さんより
朝の光が、カーテンの隙間から細い筋になって床を照らしていた。
窓の外では、まだ冷たい風が枝を揺らしている。
部屋の中は静かで、冷蔵庫のモーター音だけが、ゆっくりとした呼吸のように続いていた。
テーブルの上の花瓶の水が、わずかに濁っているのが見えた。
昨日は透き通っていたのに。
花びらの端が少し透け、色が淡くなっている。
光に当たる角度で、花の影がテーブルの上にやさしく揺れた。
それを見つめながら、私は立ち上がる。
素足が床に触れた瞬間、冷たさが足元から上へと伝わっていく。
流し台の蛇口をひねると、水の音が部屋の静けさを割った。
それは、どこか懐かしい音でもあった。
母は、花を生けるのが好きな人だった。
特別な理由があるわけではなく、
“花があると家が呼吸する気がする”と、よく言っていた。
子どものころ、私はよく母のそばで見ていた。
母の手は小さく、指の動きがとても丁寧だった。
茎の先を少しだけ斜めに切って、
花瓶の口にゆっくりと差し込む。
その動作のひとつひとつが、まるでお祈りのように静かだった。
> 「形だけじゃだめよ。
ちゃんと水替えしてあげてね。
花は、それで長く生きられるの。」
母がそう言ったのは、たぶん春の終わり。
窓から柔らかい風が入ってきて、
カーテンが花びらにそっと触れた日だった。
「見てればわかるのよ。チューリップが、何を求めているかがね。」
そう言った母の横顔を、いまでも覚えている。
花の茎を支える指先に、
水の冷たさが伝わっているような、
そんな穏やかな表情だった。
> 「チューリップだけじゃないの。
お花はみんな、ちゃんと見ていれば教えてくれるのよ。
水が足りないのか、陽が欲しいのか。
黙ってても、ちゃんと伝えてくるの。」
その言葉の意味を、あの頃の私は深く考えもしなかった。
ただ、花が好きな人の言葉として受け取っていた。
蛇口から新しい水を入れる。
流れ出る音がガラスに反響して、
まるで遠くの雨音のように優しく響いた。
水の中に指を入れると、冷たさが肌を包む。
その感触に、少しだけ息を止めた。
濁った水を捨てるたびに、
昨日までの空気が一緒に流れ出していく気がする。
それでも、花を傷つけないようにゆっくりと。
花瓶に新しい水を注ぐ。
チューリップの茎が揺れて、
空気の粒が小さく弾ける。
その瞬間、花びらが光を受けてわずかに開いた。
部屋の中に、ほんの少しだけ春の香りが満ちた。
テーブルの端に置いた便箋をひらく。
母の筆跡が、光を浴びてやさしく浮かび上がる。
あの丸い字。
少しだけ傾いていて、
どこか手の温度が残っているような文字。
> ちゃんと水替えしてあげてね。
それだけの短い言葉なのに、
その行間には、母の暮らしが詰まっている気がする。
朝の時間、手の動き、息づかい。
その全部が、この一文の中にある。
新しい水の中で、チューリップはまっすぐ立っていた。
光の中で透けた花びらが、少し震えている。
窓の外の風が止んで、
部屋の中にだけ静かな時間が残る。
私は花瓶をそっと撫でるように持ち直して、
テーブルの中央に戻した。
それだけで、部屋が少し明るくなった気がした。
花は何も言わない。
けれど、見ていれば、たしかに伝えてくる。
その静けさの中に、母の声が重なった。




