黄昏のポケット
> 「寒くなる前に着てね。風邪をひかないように。」
その一行だけが、
白い便箋の中央にまっすぐ書かれていた。
宛名は――「美緒へ」。
封はされていなかった。
ついさっき、コートを着たときに見つけた。
ポケットの奥で、指先に紙の感触が触れた瞬間、
時間が少しだけ止まったように思えた。
いつものように、テレビがついていた。
母も、よくそうしていた。
見ていないなら消すものだと、
世の中ではそう言うのかもしれない。
でも母は、そうはしなかった。
音のない部屋が苦手で、
小さな声が流れていると、落ち着くらしかった。
私も、いつの間にか同じようになっていた。
天気予報で、明日から寒くなると言っていた。
黒い新しいコートもある。
でも、手を伸ばしたのは、
ベージュの、襟の縫い目が少しほつれた一着。
――母が、「これが一番似合う」と笑ってくれたやつ。
ハンガーから外して、両手で軽く整える。
布の重みが腕に伝わる。
クリーニングのあと特有の、安心する匂いがした。
袖を通す。
布の冷たさが肌に触れ、思わず肩をすくめる。
長い髪が襟に挟まり、少しだけ引かれた。
両手でまとめて、そっと外へ掬い上げる。
蛍光灯の下で、髪の上に柔らかな光の輪が浮かんだ。
天使の輪――母が昔、そう呼んで笑った。
そのとき、ポケットの中で指先が何かに触れた。
紙。
小さな、やわらかい感触。
取り出すと、白い封筒。
封はされていない。
宛名は、鉛筆で――「美緒へ」。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
便箋をそっと引き出す。
文字は少し右上がりで、
ところどころ鉛筆の線が薄れていた。
ひらがなの「ね」の結びが、昔と同じだった。
その形を見ただけで、胸の奥があたたかくなる。
> 「寒くなる前に着てね。風邪をひかないように。」
――母の字だ。
あの人が急いで書くときだけ出る、やさしい崩れ方。
ゆっくりと、懐かしい声が頭の中で再生された。
春先、母がこのコートを届けに来た日のことを思い出す。
「このまま袋ごとでいいよね。」
そう言いながらクローゼットを開けた私に、
母が笑って首を振った。
「だめよ、美緒。ビニールのままだと風が通らないから。
せっかくきれいになってるのに、湿気でだめになっちゃうわ。」
「えー、いいじゃん。外すのめんどくさいし。」
そう言って笑った私に、
母は少しだけあきれたような顔をして、
でも何も言わず、肩の皺を指で整えた。
その動作があまりに丁寧で、
私は何も言い返せなかった。
――大人になったつもりでも、
こういうとき、まだ若いんだと思う。
母はコートをハンガーに掛けながら、
「ほら、これでいつでも着られるわよ」と笑った。
――きっと、その時に。
いま、便箋は机の上にある。
袖を通したまま、指で文字をなぞる。
鉛筆の跡がわずかに凹んでいて、
紙の奥に母の手の力が残っている気がした。
テレビの音が小さく続いている。
母のいた頃と、同じ音量のままで。
部屋のあちこちに、母の息吹が残っている。
カーテンの結び方、
台所のカップの並び、
髪をとかすときの手の角度。
どれも少しずつ母に似てきていて、
そのことに気づくたび、
不思議と寂しさよりも安心を覚える。
寝る前に髪をとかした。
この手つきは、母に教わった。
幼い頃、木の櫛で、毎晩。
痛くしないように、ゆっくり。
いまは自分の手で、とかす。
けれど、その動きのひとつひとつが、
母の優しさの記憶の中にある。
蛍光灯の光が髪の上にまた輪を作る。
母が見たら、きっと笑うだろう。
窓の外では、街の灯りがにじんでいる。
コートの襟を少し立てて、
肩の上の髪を整える。
光の輪が、静かに揺れた。
――会いに行こう。
声に出した瞬間、
胸の奥で何かが静かにほどけた。




