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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
風の届く距離 ― 五つの手紙の輪 ―

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最終章 ― 沈黙の中の声 ―

 夜明け前の空は、まだ色を持たない。 三枝凛花は車両の後部で、無線機の電源を入れた。ノイズがかすかに鳴り、薄い光のように耳をくすぐる。演習地への移動前、確認事項を淡々と読み上げる上官の声を聞きながら、凛花は視線を窓の外に向けた。東の地平線に、一筋の風が見える気がした。


 数日前、避難所で出会った姉妹――稲波翠と葉月。凛花の心のどこかに、その姿が残っている。特に、葉月の歌の最後の一節が、胸の奥でずっと鳴り続けていた。


風の届く距離で、会いましょう。


 あの言葉が、まるで合図のように思える。歌という形をした手紙が、確かに自分の中に届いていた。けれど凛花はまだ、その“返事”を出せずにいた。


 午前七時、訓練地到着。薄霧が立ちこめ、地面が朝露を含んでいる。凛花は車両を降り、部隊の列に並んだ。教官が声を張り上げ、無線確認の指示を出す。彼女は短く「了解」と答え、トランシーバーのノイズを調整した。耳に響く砂のような音が、なぜか心地いい。沈黙の中にも、音は生きている。


 午前の訓練は、想定災害地での救助シミュレーションだった。凛花は担架を支えながら、同僚の指示を受ける。土砂の中から人形を運び出し、仮設テントへと運ぶ。誰もが声を張り上げる中で、凛花だけがほとんど口を開かなかった。動きだけで、伝わることがある。動作のリズムで、呼吸が合う。沈黙の中の“会話”がそこにある。


 休憩の時間、彼女はテントの外に出た。風が頬を撫でる。遠くの山の向こうから、誰かの歌声が聞こえるような気がした。もちろん、そんなはずはない。けれど、耳を澄ますと確かに聞こえる。 ――ねぇ 呼吸だけで いていいよ――


 葉月の声。凛花は目を閉じ、風の方向を確かめた。どこにもいないのに、確かにそこにある。言葉が音になり、音が風になる。その風が、沈黙の中をやさしく満たしていく。


 そのとき、無線から短い雑音が走った。通信テスト中の混線かと思ったが、次の瞬間、音の中に人の声が混じった。


……立ち止まっても、大丈夫。


 凛花は息をのんだ。誰の声か分からない。だが、その言葉は翠の声と重なって聞こえた。偶然の電波か、風の悪戯か。彼女は思わず空を見上げた。薄雲の切れ間から光が差す。頬を撫でた風が、どこかで誰かの言葉を運んできたようだった。


 午後、訓練が終わり、装備を片づける。部下の若い隊員が凛花に声をかけた。

「三枝さん、あの……避難所の人たち、歌とか本当に励みになるんですね」

「うん。あれは言葉じゃないけど、届く」

「三枝さんも、歌とか好きなんですか?」

 凛花は少しだけ考えて、答えた。

「静かな歌が、好きです。風の音みたいな。」

 その返事に、隊員は頷いて笑った。


 夕暮れが近づくころ、凛花は無線車両の中でひとり残っていた。外はオレンジ色に染まり、草の匂いが濃くなっていく。無線のスイッチを入れると、また砂のようなノイズが流れた。彼女はマイクを手に取り、押し込み、そして迷った末に小さく呟いた。


「こちら、三枝……風、感謝します。」


 それだけの言葉だった。誰にも届かないかもしれない。でも、それでよかった。沈黙の中に、自分の声が確かにあった。風がそれを受け取り、どこか遠くへ運んでいく。


 その夜、基地の宿舎で、凛花は机に座り、便箋を一枚広げた。誰に宛てるでもない手紙。ペンの先で迷いながら、ゆっくりと書く。


風の届く距離で、また会えるといいですね。声にしなくても、たぶん聞こえていると思います。これは、沈黙の中の返事です。


 手紙を封筒に入れ、机の上に置いた。明日の朝、風が吹いたら、窓を少しだけ開けておこう。 ページの隙間に、音のない声がひとつだけ残った。


翌朝、訓練は再開された。薄い靄が地面を覆い、風が一定のリズムで旗を揺らしている。三枝凛花は黙々と器材のチェックを続けていた。いつもと同じ音。金具の擦れる音、無線のノイズ、隊員の靴音。けれど今日はその合間に、何かが違って聞こえる。耳の奥に残る葉月の歌の余韻。あの旋律が、風の中にまだ漂っているようだった。


 装備の点検を終えると、凛花は部下たちに指示を出し、少し離れた場所に腰を下ろした。遠くの空には薄い雲が広がり、太陽の輪郭がぼやけている。沈黙の時間。声を出さなくても、場が整っていく感覚があった。風が通り抜けるだけで、人の気配がやわらぐのがわかる。


 そこへ、司令部からの伝令が届いた。「災害現場への応援要請」――昨夜の大雨で道路が寸断され、民間の救助が追いつかない地域があるという。凛花たちの部隊が向かうことになった。


 車両のエンジンがかかる。彼女は無線を肩に掛け、車列の最後尾に乗り込んだ。車内の空気は張り詰めているが、凛花の心だけは静かだった。車窓を流れる景色の中に、ふと紙片がひらりと舞う。電柱に貼られた一枚の張り紙。風で半分めくれ、辛うじて読めた文字。


世界はちゃんとやさしいです。


 誰のものか分からない言葉。けれど、そのやさしさが目に入った瞬間、胸の奥で小さな音がした。たぶん、それは笑うときに生まれる音だ。凛花はその感覚を確かめるように、息をゆっくり吐いた。


 現場に着くと、道路の脇で倒木が道を塞いでいた。雨に濡れた土の匂いが強く、風が吹くたびに枝葉が擦れる。隊員たちはロープを張り、手際よく作業を始める。凛花もチェーンソーを受け取り、切り口を見極めて一気に刃を入れた。刃が木を貫く音が空気を裂き、その奥で、葉月の歌が静かに重なった気がした。


 昼を過ぎるころ、ようやく通行路が確保された。避難バスが列をなして進み、子どもたちの姿が見えた。窓越しに手を振る小さな手。その一人が口の動きで何かを言っている。「ありがとう」だとわかるまでに時間はかからなかった。声は聞こえない。けれど唇の形だけで、充分に届く。凛花は手を上げて応えた。


 バスが遠ざかる。風が後ろから吹き抜ける。肩越しに聞こえたような気がした。


止まると、音が聞こえますね。

 昨日、葉月に言った自分の言葉が、今度は風から返ってきたように思えた。沈黙の中にある声。それが、風を通して往復している。


 夕方、任務を終えて隊に帰還する途中、凛花はハンドルの振動に合わせて指を動かしていた。音楽家がメトロノームに合わせて拍を刻むように。歌は口にしない。だが、心の中でリズムが鳴っている。葉月の歌が、翠の言葉が、澪の翻訳が、そして灯の手紙が、全てひとつの音楽のように重なっていた。


 基地に戻ると、夕焼けが滑走路を赤く染めていた。凛花は装備を片づけ、空を見上げる。風の向きが変わり、髪を撫でる。沈黙の中で、ふと誰かの声がした気がした。 ――あなたが誰かを笑顔にしていること、ちゃんと誰かが見ています。――


 灯の声だ。遠くで響くような、けれど近くにあるような不思議な響き。凛花は目を閉じ、ゆっくり頷いた。すべての言葉が、風の中でつながっている。沈黙もまた、その輪の一部なのだ。


 夜、宿舎の窓を開ける。外の空気は冷たく、遠くの街の灯りが点のように瞬いている。凛花はポケットから昨日の手紙を取り出した。そこに書かれた文字を指でなぞる。


声にしなくても、たぶん聞こえていると思います。


 手紙の紙面を風が掠め、ふわりと舞い上がる。彼女は慌てて掴もうとしたが、やめた。飛んでいってもいい。風が運ぶのだから。紙は窓の外に消え、月明かりの中をゆっくりと流れていった。


 夜明け前、風の音で目が覚めた。三枝凛花は宿舎のベッドから起き上がり、カーテンを少しだけ開いた。外の空は群青と灰のあいだ。遠くで車両のエンジン音が聞こえ、空気がゆっくり動き始めている。今日も訓練がある。けれど、その前に、凛花はもう一つだけ“任務”を終えようとしていた。


 机の上に置いた便箋を開き、昨日書いた手紙をもう一度読み返す。紙の端が夜風に揺れ、静かに息を吸い込んだように膨らむ。読み返すたびに、言葉が少しずつ音を失い、代わりに“感触”が残る。沈黙にも手触りがあることを、凛花は初めて知った。


 窓を開ける。冷たい風が頬を撫でた。手紙をその風に乗せるように掲げ、指を離す。紙がひとつ、二つと空気を泳ぎ、やがて屋根の向こうに消えた。どこに届くかは分からない。けれど、誰かの朝に触れる風の中に、少しでもこの温度が混じれば、それでいいと思えた。


 食堂に向かう廊下で、すれ違った若い隊員が声をかけた。「おはようございます!」凛花は微笑んで軽く会釈する。その瞬間、隊員の頬が少し緩んだ。何も言葉を交わさなくても、笑顔の連鎖は始まる。沈黙の中の声は、確かに存在していた。


 訓練地では、昨日と同じ手順が繰り返される。けれど、風の通り方が違っていた。木々のざわめきが拍を刻み、ヘリの音が遠くで低くうなる。その下を通り抜ける風の一瞬が、まるで葉月の歌のイントロのように聞こえた。翠の「止まる勇気」も、澪の「翻訳できない言葉」も、灯の「笑顔の理由」も、みんなこの風に混ざっている。凛花は空を見上げ、静かに目を閉じた。


 その日、訓練が終わると、凛花は基地を出て少し離れた高台に向かった。街を見下ろすその場所は、避難活動の拠点にもなった丘。春の初めに咲いた花の名残が風に揺れている。ポケットに手を入れると、折り畳まれた紙が一枚残っていた。手紙の欠片。風が持ち去らなかった一部。広げると、鉛筆で書かれた短い文が見えた。


風の届く距離で、また会えるといいですね。


 凛花は笑い、ポケットに戻した。風が吹くたび、胸の奥が少し軽くなる。沈黙の中に、音があった。音の中に、言葉があった。言葉の奥に、確かに“心”があった。


 夕暮れ、基地に戻る途中、街の掲示板の前を通る。そこには、見慣れた筆跡の紙が並んでいた。灯の手紙、澪の訳文、翠のメモ、葉月の歌詞。そしてその下に、新しい紙が一枚増えていた。


これは、沈黙の中の返事です。


 凛花は立ち止まり、指でその紙の端を押さえた。風が通り抜け、紙がかすかに鳴る。その音は、手紙たちの拍手のようだった。彼女は帽子を軽く押さえ、ゆっくりと歩き出した。どこかで誰かが笑っている。風がそれを運んでくる。世界はちゃんとやさしい。

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