第4話 ― 音になる手紙 ―
朝の声は、まだ半音だけ眠っている。 葉月は台所の窓を少しだけ開け、吸いこんだ空気で喉の奥を起こす。 湯気が立つマグの上で、声帯がそっと伸びをする感覚。低いハミングが、壁紙の花模様を震わせた。
スマホには姉・翠からのメッセージが入っている。
『避難所、今日も行く。ステージは要らないけど、声は一つ分ほしい』
短い文なのに、温度があった。葉月は了解のスタンプを返し、譜面台に昨夜の紙片を置く。
伝わったときは、たぶん翻訳していない。立ち止まっても、大丈夫。あなたが笑うと、風が動きます。
誰かの言葉が寄せ木細工みたいに並ぶ。遠見澪のノートの断章、掲示に残された匿名の一文、姉が胸にしまったメモ。どの言葉にも、説明より先に“高さ”がある。歌詞は意味をなぞるのではなく、その高さを選ぶ作業だ。
ギターの弦を二度、ゆっくり鳴らす。窓から入る風の拍に合わせ、音を置いていく。メトロノームは使わない。今日の街の呼吸で弾きたいから。 口の中で言葉を転がしながら、葉月は仮の歌詞を書き始めた。
ねぇ 止まる場所 覚えてる?ねぇ 呼吸だけで いていいよ風の届く距離で 会いましょう
紙に落ちた三行は、まだ薄い。けれど、声に出した瞬間に輪郭が濃くなるのがわかる。言葉は“歌う”とき、紙よりも早く体温を持つ。
昼前、葉月はギターケースを背負い、市民ホールへ向かった。ロビーには「風の手紙展」のパネルが立ち、結城灯が子どもたちのカードを高さごとに並べている。遠見澪はノートを胸に、訳語ではなく“余白”の配置を確認していた。二人が小さく手を振る。葉月は指で口元に“しー”と合図し、笑い合う。
展示の片隅、丸いテーブルに紙の輪がいくつも並んでいた。ガムテープの芯を切って作った、小さな月たち。昨夜、避難所で余ったテープから作ったものだ。葉月はひとつ取り、指でそっと回す。くるり、と無音で回転する。言葉の重さがないから、風が通れる。
「午後から臨時の演奏、お願いできる?」
姉が現れ、腕まくりの上から軍手を外しながら言う。「人の出入りが多くて、ざわざわしてる。少しだけ、音で場を整えたい」
「三曲。静かに始めて、静かに終わるやつにする」
「頼もしい」
姉の笑顔には、現場の硬さと家族のやわらかさが同居している。葉月はその“間”を好きだと思った。音も、いつだって“間”から生まれる。
午後二時、体育館の裏手に作られた小さなスペースで演奏が始まる。マイクは一本、アンプは低く、ベンチが十脚。観客は入れ替わり立ち替わり、十分ずつ座っていく。葉月は一曲目を終え、二曲目の前に短く言った。
「立ち止まってるあいだだけ、ここで一緒に呼吸しませんか」
答えの代わりに、風が返事をした。開け放たれた出入口から、ひと筋の空気が入り、紙コップの表面を小さく揺らす。
二曲目の途中、視界の端で小さな動きがあった。制服姿の若い女性――昨夜見かけた自衛官、三枝凛花が通路のコーンをそっと直し、そのまま立ち止まって聴いている。肩の力が、半拍ぶん抜けていくのが見えた。
三曲目。新しく書いた仮題『風の届く距離』。 最初の二行で空気が変わる。目の前の誰かが、ほんの少し椅子に深く座り直す。遠くで子どもが小さく笑う。姉が通路の影に立ち、うん、と頷く。 歌い終えると、拍手は小さいが、ため息のように温かい。葉月は深く頭を下げ、ギターを抱え直した。 曲の余韻が消える前に、ポケットの中の紙片が指に触れる。澪がくれたメモのコピー。“伝わったときは、たぶん翻訳していない。”
その言葉を、今日の歌に貼り合わせる。意味ではなく、高さで。 葉月は胸の奥で、もう一度だけ無言のハミングをした。 風がそれを受け取って、体育館の天井へ静かに昇っていくのが見えた。
夕方の風が体育館の裏を抜ける。ステージの残響が消える前に、葉月はギターの弦を拭き、ケースを閉じた。子どもたちは片づけを手伝いながら、口ずさむようにメロディを真似している。誰かがぽつりと「風の歌だ」と言った。葉月は微笑んで頷いた。
演奏を終えたあと、翠が湯気の立つ紙コップを持ってきた。
「おつかれ。あの三曲、音の置き方がすごく静かでよかった」
「静かすぎたかと思ったけど、風が勝手に鳴ってくれたみたい」
「風が鳴る、か……いい言葉だね」
姉の声に、長い一日の疲れがほどける。二人で座ると、目の前の掲示板の紙が揺れていた。上段には灯の言葉、中央には澪の翻訳の一節、下段には翠自身のメモ。そしてその隣に、今日葉月が歌った歌詞の一部が書かれた新しい紙があった。
ねぇ 呼吸だけで いていいよ。
風が通り抜けるたびに、その紙が小さく震えた。葉月は指先で軽く押さえ、紙の角に自分のサインを小さく書き加えた。
そのとき、体育館の外から制服の擦れる音が聞こえた。振り向くと、三枝凛花が立っていた。自衛官らしい無駄のない動きで敬礼し、口を開く。
「さっきの歌、少しだけ聴きました。……風の届く距離、という題ですよね?」
「はい」
「いい歌でした。任務で動くとき、静かに励まされるものが欲しいと思っていたんです」
凛花の声は落ち着いているのに、どこか奥に揺れがあった。葉月はギターを抱え直し、笑顔で答えた。
「もしよければ、この歌詞のコピーを差し上げます」
「ありがとうございます。でも、持ち歩かなくても、もう覚えました」
凛花の言葉に、葉月は胸が温かくなった。歌は、記録よりも記憶に残る瞬間のほうが美しい。
夜になり、ボランティアの撤収が始まる。外では風が一層強く、街灯の影が揺れていた。葉月はギターケースを肩にかけ、最後の確認に体育館を見回った。掲示板の前で立ち止まると、凛花がそこにいた。紙の位置を整えながら、彼女はふと呟いた。
「止まると、音が聞こえますね」
「はい。止まる勇気をくれたのは、姉なんです」
「その姉の勇気、ちゃんと届いてます」
短い会話だったが、その一言が葉月の中に残った。風が二人のあいだを抜け、紙を撫でる。凛花の袖口が小さく揺れ、軍靴の先に光が落ちた。
帰り道、街は少しだけ明るかった。ビルの窓に反射する光が川面に流れ、音もなく溶けていく。葉月は信号待ちの間に、スマホの録音アプリを開いた。今日の演奏をもう一度だけ録り直したかった。
録音ボタンを押し、イヤホンマイクに息を吹きかける。風の音がノイズとして入る。だが、それを消そうとは思わなかった。むしろそれこそが今日の歌の一部だ。
ねぇ 止まる場所 覚えてる?ねぇ 呼吸だけで いていいよ風の届く距離で 会いましょう
録音を止めると、街灯がふっと明滅した。風が方向を変え、ビルの谷間を駆け抜けていく。その先に、夜間勤務に向かう人々の姿が見えた。肩を並べて歩く中に、先ほどの凛花の後ろ姿があった。葉月はそっと頭を下げ、もう一度ギターケースを抱え直す。
彼女の胸の中では、音がまだ鳴り続けていた。それはもう旋律ではなく、誰かの心の高さに合わせて響く“風の手紙”だった。
翌朝、葉月は録音した音源を編集していた。イヤホンから流れる自分の声は、眠たげで、ところどころ息が震えている。それでも、聴くたびにあの夜の空気が蘇る。風が通り抜けた体育館、静かな拍手、凛花の言葉――そのすべてが、音の層に埋め込まれていた。
波形の隙間に指を置き、再生を止める。無音の数秒。そこに風の音が混ざっていた。録音ミスではなく、確かにその瞬間に吹いていた風だと思うと、胸の奥が少し熱くなった。葉月は再生ボタンを押し、もう一度聴いた。
ねぇ 止まる場所 覚えてる?ねぇ 呼吸だけで いていいよ風の届く距離で 会いましょう
最後の一節を聴き終えると、スマホの画面に通知が表示された。「自衛隊からのメッセージ:三枝凛花」――短い文だった。
出発前に、もう一度聴きました。この歌、現場に持っていきます。ありがとうございました。
葉月は息を吸い込み、目を閉じた。風がまた動いた気がした。音は届かなくても、想いが動けば、それはもう手紙になる。 曲を保存し、ファイル名を入力する――“音になる手紙”。指先が確かに震えた。
午後、葉月は市民ホールに向かった。展示の最終日。入口には色とりどりの紙片が揺れている。子どもたちが書いた言葉、大人たちの落書き、外国語のメッセージ。どれも作者不明で、誰もが通りすがりに読める。葉月は壁の端に一枚の新しい紙を貼った。
歌は風の手紙。音が通り抜けたあとに、やさしさが残りますように。
会場の奥で、澪がノートを閉じ、灯が照明を調整していた。翠は出口の横で誘導をしている。みんなの動きが一つの呼吸のように合っている。葉月はそっと呟いた。
「音、届いたよ」
ステージの上、誰もいないマイクの前で、風が小さく鳴った。葉月はギターを抱き、弦に指を置くだけで音を出さずに立つ。その姿を、客席の隅で凛花が静かに見ていた。制服の上着を脱いだ彼女の胸元に、風の手紙の一節が小さく見える。
立ち止まっても、大丈夫。あなたが笑うと、風が動きます。
その文が、風にそよいで少しだけ揺れた。葉月はゆっくり頷き、空を見上げた。天井の窓から光が差し、白い埃が踊る。歌わなくても、音はそこにある。風が音を運び、心が応える。言葉はもういらない。葉月は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。




