第3話 立ち止まる勇気
朝五時半、稲波翠は市役所の屋上に立っていた。夜明けの光がまだ街の端にかかっている。冷たい風が髪をかすめる。携帯無線が胸元で小さく鳴った。
「稲波さん、東区の河川沿いで軽い土砂崩れです。応援、お願いします」
「了解。十五分で向かう」
言葉は短く、動きは早い。制服の上着を羽織り、工具バッグを肩にかけて階段を下りる。現場へ向かう途中、コンビニの前に立ち寄ると、貼り紙が目に入った。そこには丸い文字でこう書かれていた。
立ち止まっても、大丈夫。
たぶん子どもの字だ。澪が企画した「風の手紙展」のものかもしれない。思わず足を止めかけたが、すぐに苦笑して車に乗り込んだ。
現場は小さな斜面だった。降り続いた雨で土が緩み、通学路が塞がっている。翠はヘルメットをかぶり、土の具合を確かめた。まだ崩れる気配はある。後ろでは若い職員たちが声を掛け合い、スコップを構えている。
「慌てないで。まずは迂回路を確認してから」
翠が指示を出すと、現場の空気が少し落ち着く。彼女は自分でも驚くほど冷静だった。だが、その冷静さの奥には、いつも拭えない焦りがある。間に合わなかった人の顔が、時々まぶたの裏に浮かぶ。
午前十時を過ぎたころ、ようやく通行止めが解除された。職員たちが車に戻る中、翠は一人で川のほうを見つめた。水面に風が走る。澪から受け取った“風の手紙”を思い出す。
あなたが笑うと、世界のどこかで風が動きます。
その言葉を胸ポケットから取り出して読み返した。汚れた手で触れるのがためらわれるほど、紙はやわらかかった。現場に吹く風が、まるでその一文に呼応しているようだった。
昼過ぎ、庁舎に戻ると、休憩室には同僚たちが集まっていた。テレビでは被災地のニュース。避難所での炊き出しをするボランティアの姿が映る。その中に、澪の後ろ姿があった。子どもたちと話すときのあの穏やかな笑み。画面の中の彼女の周囲には、たしかに風が通っていた。
同僚の一人が言った。
「稲波さん、今度の展示、あなたも参加するんでしょ? 風の手紙のやつ。」
「まあ、手伝い程度ね。あれは妹が主催してるから」
「へぇ、あのシンガーの?」
「うん。あいつ、音で人を動かすのが得意なんだ」
そのとき、携帯が鳴った。避難所で足りない物資が出たという。翠は即座に立ち上がる。だが、机の上に置かれた澪の手紙が風で揺れ、端が机の角に引っかかって止まった。その小さな動きに、なぜか足が止まる。
立ち止まること。子どもの字の貼り紙が、脳裏をよぎる。――立ち止まっても、大丈夫。
翠は深く息を吸い込み、携帯を耳に当てた。「了解。だれか先に向かえる人がいれば、任せます。私は後から行きます。」
電話を切って、椅子に腰を下ろす。ほんの少しだけ、背もたれに体を預けた。窓の外の雲が流れていく。背中を抜けていく風が心地よい。何かを見落とす不安よりも、その風を感じることのほうが、いまは大切に思えた。
午後、翠は再び現場に向かった。到着すると、すでに若い職員が物資の仕分けを終えていた。小さく手を振られる。翠は笑い返した。胸のポケットの手紙が、そっと動いた気がした。
体育館の片隅、ブルーシートの上に小さな島がいくつもできていた。段ボールを椅子代わりに、紙コップの湯気がいくつも並ぶ。稲波翠は受付と物資置き場のあいだを行き来しながら、足を止めるタイミングを探していた。
“止まる”のは苦手だ。現場では、迷いは遅れに直結する。けれど今日は、胸ポケットの便箋がときどき軽く触れてくる。遠見澪の手から受け取った一文――
あなたが笑うと、世界のどこかで風が動きます。
それを指先で確かめるたび、背中の固さが少しずつほどけていく。
折り畳み机の向こうで、男の子が水の入った紙コップを両手で抱えていた。隣の妹は眠たげに瞬きをしている。母親は配給列の最後尾に立ったまま、こちらを気にして落ち着かない。
「少し休みますか」
翠が声をかけると、母親は首を振った。
「並ばないと悪い気がして……」
「悪くないですよ。並び直せばいいだけです。まず座りましょう」
言いながら、翠は自分の椅子を母親に差し出し、代わりに段ボールの角に腰をおろした。硬い。けれど、腰を下ろした瞬間、周りの音が一段やわらかくなる。止まると、音の輪郭が見えるのだ。
遠くの壁に、張り紙の束が風でふわりと揺れた。誰かの走り書きが見える。
休み方は、思い出すもの。忘れたままでも、呼吸はしていい。
昨日、澪と一緒に貼り直した紙だ。母親が目を上げ、声に出さず読み、肩の高さがほんの少し下がる。翠はその変化を見逃さない。
夕刻、物資の第二便が到着した。仕分けに集まったボランティアの中に、見覚えのある髪の色があった。妹の葉月だ。ギターケースは持っていない。代わりに、手には軍手とガムテープ。
「みどり、テープの芯もったいないから、メモに使っていい?」
「いいよ。貼るとこは、風の通り道を考えて」
「りょうかい」
葉月は笑って、テープの内側に短い言葉を書き始める。丸くちぎった紙の輪が、あちこちに小さな月のように貼られていく。
だいじょうぶ、は、ゆっくり言う。いまは、ここにいるだけでいい。
葉月の文字はやさしい。そのやさしさに寄りかからせない軽さがある。翠は軍手越しに段ボールを抱え直し、息を合わせる。
夜になると、体育館の照明が一本ずつ落とされ、薄い光の池がいくつか残った。音は少なくなるが、完全には消えない。背中で毛布を整え、通路の段差をテープで目立たせ、転びそうな角にランタンを置く。実務の連続のなかにも、止まる瞬間は確保できる。通路の中央で立ち止まり、翠は深呼吸した。胸の内側の拍が、体育館の広さに溶けていく。
ふいに、入口のスライドドアが開いて、制服姿の若い女性が二人入ってきた。腕章には「自衛隊」。先頭の短髪の隊員は、整った所作で会釈した。名札には小さく“三枝凛花”とある。
「夜間巡回に入ります。危険箇所の確認、戸締まり、火気のチェック。ご一緒しても?」
「助かります。段差はテープで印してますが、体育器具庫の扉が戻りにくいので、そこを……」
言いかけた翠の横で、凛花の視線が壁の張り紙に留まった。一枚一枚を読むでもなく、ただ高さを測るように眺めて、静かに頷く。
「この貼り方、風が通りますね」
「妹がね、そういう人で」
「いい貼り方です」
短い言葉の交換。凛花は赤いコーンを持ち上げ、通路の“足の迷いそうな場所”に置いていく。その動きは無駄がなく、やわらかい。声を張らず、しかし届く。翠は、こういう人がいると現場が静まるのだと知っている。
巡回が一段落すると、凛花が紙コップの前で立ち止まった。湯気の向こう、彼女は少し目を細める。
「すみません、水場の位置、案内してもらえますか」
「ついてきてください」
通路を歩きながら、凛花がぽつりとこぼした。
「止まるの、苦手だったんですけど。最近、やっと覚えました」
「現場は、動くのが正義になりやすいから」
「はい。でも、止まると、見えるものがあるって」
話はそれ以上続かない。けれど、同じ風が二人のあいだを抜けていった。
深夜、体育館が静まりきるころ、入口の掲示に新しい紙が増えているのに気づいた。テープの輪。葉月の字だ。
風の届く距離で、会いましょう。
翠は思わず微笑んだ。灯が口にしていた一文――いつの間にか、ここにも届いたのだ。紙の端を指で押さえると、その下で小さな空気が動いた。
明け方、毛布の海からいくつかの寝息が立ちのぼる。ボランティアの若い子が、うとうとしながら配給台の椅子にもたれている。翠はその肩に上着をかけ、隣の段ボールに腰を下ろした。止まる。息を吸う。ゆっくり吐く。
胸ポケットの便箋を取り出す。澪の手のぬくもりが、紙のやわらかさの中にまだ残っている気がした。ペンは持っていない。だから、口の中でだけ言ってみる。
「だいじょうぶ」
小さく、ゆっくり。誰にも聞こえない速度で。
朝日が体育館の窓の上端に差し、ラインのような光が床に伸びた。凛花が入口近くで敬礼し、静かに去っていく。葉月は眠たそうな目をこすりながらギターケースを肩にかけ、微笑んだ。
「夜明けって、音が変わるね」
「そうだね」
翠は立ち上がる前に、もう一度だけ止まった。止まって、周囲を見渡す。貼り紙たち。点在する灯り。ゆっくり動き出す人々の肩。止まる勇気が、次に動く力をつくるのだと、身体が先に納得していく。
そのとき、受付の机に一枚の小さなメモが滑り込んだ。誰の手からかは見えなかった。四角く切られた紙に、鉛筆でこう書かれている。
立ち止まっても、大丈夫。あなたが笑うと、風が動きます。
ふたつの手紙が一つになって、現場の真ん中に置かれた。翠はメモを掲示に移し、胸のポケットに空いた場所を手のひらで確かめる。空白は怖くない。そこへ風が入るから。
外に出ると、朝の風が川面を渡ってきた。今日もきっと忙しい。けれど、止まる場所を忘れなければ、動くことは怖くない。翠はヘルメットのストラップを指でなぞり、振り返らずに歩き出した。背中で、体育館の扉が静かに閉じる音がした。次のページが、音もなくめくられる気がした。
昼過ぎ、避難所の片づけが始まる頃、翠は一人で体育館の奥を歩いていた。ブルーシートの下から出てくる落書きのような文字たち――子どもたちが書いた“ありがとう”や“がんばって”。その端に、小さく「風」と書かれた落書きがあった。マジックの線が波打ち、まるで動いているように見える。
荷物を運び出す音が少しずつ遠のく。体育館の空気が静まり、風の通り道が戻ってくる。翠は膝を折り、落書きの横にそっと指を置いた。指先にほこりの粒がつく。何も言葉にしなくても、子どもたちの“今”がそこに残っている気がした。
入口で誰かが声をかけた。「稲波さん、休憩入れてください!」
「はいはい、了解」
立ち上がり、制服の埃を払う。外へ出ると、日差しが眩しかった。風が強く、木の枝がこすれる音がする。歩道の向こうでは、妹の葉月がギターを抱えていた。避難所の裏庭で、誰かに頼まれたらしい。即席のステージのようにベンチが並べられている。
葉月の歌声は、思っていたよりもずっと静かだった。派手なメロディではなく、囁くように始まり、空に溶けるように伸びていく。聞いていた子どもたちの表情が、少しずつほどけていくのが分かる。翠は腕を組んで立ち止まり、その音を胸の奥で受け止めた。
風の届く距離で、会いましょう。
葉月が歌い終えたあと、静かな拍手が起きた。拍手の中に、遠見澪の姿もあった。澪は小さく手を振り、翠に微笑む。彼女の手にはノートがあり、ページの端が風に揺れている。その一瞬、澪と翠、そして葉月の視線が交わった。三人のあいだを、確かにひと筋の風が通り抜けた。
午後三時。撤収のトラックが出発する。翠は玄関の外に立ち、空を見上げた。白い雲が速く流れている。風の向きが変わるたびに、胸の中の手紙が軽くなっていく。背後から澪の声がした。
「立ち止まっても、大丈夫ですよ」
翠は振り返らずに答えた。
「うん。今度は、それを人に伝える番だね。」
市役所に戻ると、机の上に封筒が置かれていた。差出人の名はない。開くと、短い手紙が一枚入っていた。
いつも動いてくれて、ありがとう。でも、たまには風のほうが、先に着くかもしれません。
筆跡は知らないものだ。けれど、読んだ瞬間、あの展示で見た言葉たちが重なった。手紙はもう、誰のものでもない。通り過ぎて、少しだけ空気を変える。そういう存在に、自分もなりたいと思った。
その夜、翠は机に座り、新しいメモを一枚書いた。書き出しの文字は震えている。けれど、心は静かだった。
動くことが怖くなくなったのは、止まることを覚えたから。
紙を折り、胸ポケットに入れる。明日、誰かがこの言葉を必要とするかもしれない。それで十分だった。窓の外で風が鳴る。風の音は、人の声よりも静かで、でもどこまでも届く。
目を閉じると、遠くで葉月の歌が聞こえた気がした。




