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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
風の届く距離 ― 五つの手紙の輪 ―

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第2話 翻訳できない言葉





午前十時。大学の中庭には、春の風が流れていた。遠見澪はベンチに腰を下ろし、ノートパソコンを閉じた。画面の中には、昨日のひだまりのような子どもたちの笑顔。そこに映る掲示板の一枚の言葉――「あなたの笑顔の理由、知りたいと思いました。」その文字が、心臓の奥のやわらかな部分に、まだ残っている。


午前の講義を終えると、澪は大学の国際交流室へと向かった。机の上には、翻訳依頼の手紙が数通。遠い国の支援団体から届いた、感謝の光と、被災地の子どもたちへの応援の息吹。どれも、表面は簡潔な英語なのに、便箋を手に取るたび、その色が、匂いが、表情が変わる。澪は一枚を声に出して読んだ。


Thank you for your smile. You make us warm.


直訳すれば「あなたの笑顔に感謝します。あなたは私たちを温かくしてくれます。」けれど、その言葉の風の先には、どこか違う沈黙があった。英語の“warm”という言葉には、「安心」という窓の光や、「優しさ」という雪解けの音、「心地よさ」という静かな呼吸……いくつもの色が重なって、一つの風の束になっている。ノートには候補の言葉たちが、光の粒のように並んだ。


――あなたの笑顔を見ると、心がやわらぐ。――あなたの笑顔が、私たちを包んでくれる。


近いけれど、どこか遠い。風が通り抜ける一瞬の、あの温度に触れられない。澪はペンを止め、机の端の紙に目をやる。児童施設で受け取った、あの便箋の白いコピー。結城灯が手渡してくれた、一枚の小さな呼吸――「休み方は、思い出すもの。忘れたままでも、呼吸はしていい。」読み返すたび、胸の奥の、張り詰めていた糸が静かに温まり、解けていく。「忘れてもいい」というやさしさを、どうすれば言葉という硬い形から解放し、別の風として渡せるのだろう。澪は小さく息を吐いた。その息が、部屋の空気に溶けていく。


ノックの音。腕まくりをした、快活な風のような女性が顔を出す。市役所の職員、稲波翠だ。


「こんにちは。先日はお世話になりました」


「こちらこそ。子どもたち、元気にしてました?」


「はい。あなたの手紙、まだ貼ってありましたよ」


「風の手紙、ですね」と澪が笑うと、翠も「ええ」と同じ、やわらかな笑顔でファイルを渡して退出した。机の上に、翠が連れてきた風の余韻だけが、長く、静かに残る。


午後、提出を終えた澪は駅前のカフェへ。焙煎の、焦げたあたたかさの匂いがした。窓辺に一枚の白いチラシ――“風の手紙展”。市内の子どもたちやボランティアたちが、心の中で集めた“匿名の言葉”を展示する企画。主催者欄に、見覚えのある名前、「結城灯」。澪は思わず微笑んだ。手紙は、たしかに風に乗っている。もう、誰にも止められない。


席に戻ると、隣の青年のスマホに、遠い被災地の映像が映っていた。紙を掲げる人々の文字が、風に揺れて目に入る。


We are not alone.


翻訳すれば「私たちはひとりじゃない」。けれど、その“ We ”という硬い単語の奥には、距離を超えて誰かと手をつなぐ、静かで強い祈りの意志が宿っている。この単語の、言葉の奥にある“祈り”の脈動を、どうすれば文字として、光の形にして渡せるだろう。窓の外で、風が街路樹の葉を揺らし、コーヒーの表面に細い波紋をつくる。澪はノートを開き、静かに、ペン先で紙を撫でた。


あなたが笑うと、世界のどこかで風が動きます。


翻訳というより、誰かのため息を包み込む祈りに近い一文。それでも、これでいい気がした。言葉という封筒が通じなくても、風なら届く。澪はペン先を離し、軽く会釈して席を立つ。外の空気は少し冷たく、その冷たさが風の形をはっきりとさせ、指先を撫でていった。


帰り道、鞄の中の便箋が、次の誰かへの合図のように小さく擦れる音がした。



ボランティアセンターの掲示板には、見覚えのある筆跡の紙たちが、風に揺れずに立っている。


あなたが誰かを笑顔にしていること、ちゃんと誰かが見ています。 休み方は、思い出すもの。忘れたままでも、呼吸はしていい。


匿名の言葉の灯りが、壁いっぱいに並んでいる。短い文なのに、そこに立っているだけで、肩の力が解け、胸の奥が温まる。澪が「翻訳できない言葉ばかりですね」と、小さなため息のように呟くと、背後から声がした。


「でも、それでいいんじゃないですか?」


振り向けば、翠。仕事帰りの肩には、防災課の腕章の硬い文字。笑顔の奥に、わずかな疲れの影。


「翻訳って、正しく意味を伝えることじゃなくて、感じたそのままを、風に乗せて渡すことかもしれませんね」


「これは、あなたの友達の書いた言葉?」


「はい。児童施設で働いている方です」


二人のあいだを、静かな風が通り、紙片がかすかに揺れた。


そこへ小さなギターケースを抱えた、透明な声の若い女性が駆け寄る。稲波葉月――翠の妹だ。


「音響テスト、いまからだよ」


「ごめん、ごめん。すぐ行く」


葉月は弦を軽く鳴らした。その音が、風のように広がり、壁の手紙たちを、一枚ずつ、そっと撫でた。澪は確かに感じる。言葉のない場所にも**“翻訳”**はある。音が、心と心の間を、やさしく通訳していく。


「姉に言われたんだ。**“この展示、風が通るように作って”**って。だから曲も、風っぽく」


「風の音、ですね」


「うん。……風って、言葉より、やさしい気がします」


その言葉が、澪の胸のノートに、深く残った。



翌日。センターの前にトラックが停まっている。毛布、飲料水、携帯トイレ――物資の積み込みで忙しい翠が、汗を拭いながら振り向く。


「沿岸部で避難者が増えていて。夕方、臨時避難所が開きます。展示、ちょっと遅れるかも」


「私も手伝います」


「助かる。重いのは私がやるから、あなたはリストを見て」


澪はラベルと照合し、チェックを進める。文字という単語より先に、中身の**“用途”**という風が頭に入ってくる。必要なものは、言語という枠に関係なく、心で理解できるのだと思った。


夕方、小学校の体育館が開いた。澪は受付で外国籍の家族の案内をする。片言の日本語、英語、身振り手振り。言葉が滑って、地面に落ちるとき、隣で物資を配る翠の**「だいじょうぶ!」**という、明るい声の風が、場の空気をやさしく軽くした。


配給が一段落すると、澪は子どもたちの一角へ。寄贈されたスケッチブックを開き、「好きなものを描いてみない?」と声をかける。小さな手が色鉛筆をつかむ。ある少年は、何も言わず青い線をくるりと描いて鉛筆を置いた。それは、風の絵。澪が微笑むと、隣の少女が訊く。


「それ、何?」


少年は少し考えて、片言で言った。


「これ、あったかい」


拙い、たどたどしい言い方なのに、その意味は、翻訳不要でまっすぐ届く。澪の胸の奥が静かにほどけた。言葉とは、こうして温度として伝わるものなのだ。


受付に戻る途中、落ちていた張り紙の角を拾い上げる。そこには、あの匿名の一文。


休み方は、思い出すもの。忘れたままでも、呼吸はしていい。


灯の筆跡に似ている。誰かが、この避難所の静かな隅で、この紙を必要としたのだろう。澪は角を整え、掲示板の端に、そっと貼り直した。押しピンが入る小さな音がして、紙が**“場の音”**になった。


夜更け。体育館の隅で、澪は翻訳メモに今日の断片だけを置いていく。英訳は後でいい。


風の絵の少年。その言葉、「あったかい」。稲波さんの「だいじょうぶ!」という風は、通訳の必要がなかったこと。落ちた紙が、もう一度貼られたこと。


天井の蛍光灯が一度だけ瞬き、静けさが戻る。澪は深く息を吐いた。その呼吸が、夜の空気の中で、一つの白い文字になる気がした。



翌朝、大学に戻って清書に取りかかる。最後の文で手が止まる。「We are not alone.」――どう書けば、言葉の**“その奥”**にある、祈りの光にまで届くのだろう。昨日ノートに書いた一文を読み返す。


あなたが笑うと、世界のどこかで風が動きます。


直訳ではない。けれど、昨日見た、少年と翠、そして紙のやり取りのすべてが、この一行の中にある。誰かの笑顔が、遠くの誰かの肩の力を抜き、別の誰かの呼吸を助ける。澪はその一文を末尾に置き、提出ボタンを押した。


午後、「風の手紙展」の会場へ。葉月が簡易ステージでマイクテストをしている。透き通る声が、高い空でほどけていく。会場の端では、結城灯が、展示カードの高さを整えている。澪が手を振ると、灯は口元に**“しー”**の合図。静けさの角度を作っている。


搬入口から段ボールを抱えた翠が入ってきて、汗を拭う。


「避難所、少し落ち着いた。展示、間に合いそう」


「よかった」


「それと……これ、受付で見つけた。忘れ物かな」


渡されたのは、薄い黒表紙のリングノート。澪の翻訳メモだ。胸がひやりとして、すぐにあたたかくなる。表紙の端に小さな指の跡。あの風の絵を描いた少年だろうか。ページを開くと、末尾に鉛筆の不揃いななぞり。


あなたが笑うと、世界のどこかで風が動きます。


筆圧が不揃いで、文字の端に小さな揺れがある。誰かが、同じ言葉を**“自分の手”**で通過させ、その温度を確かめたのだ。澪はそっとノートを閉じた。


そのとき、葉月の歌が始まった。言葉は少なく、旋律はやわらかい。曲の最後、彼女はマイクから口を離し、囁いた。


「風の届く距離で、会いましょう」


灯がポケットに入れていた匿名の一文は、いつの間に歌詞の空白へ紛れ込んだのだろう。会場の空気がすこし軽くなる。言葉が場に馴染んだ、静かな音がした。


終演後、澪はノートの最後に小さく書く。誰に向けるでもない、自分への、日本語の決意。


伝わったときは、たぶん翻訳していない。


ノートを閉じると、ポケットの紙ナプキンの端が指に触れた。“We are not alone.”――もう、辞書を開いて訳し直す必要はない気がした。搬入口の扉が開き、外から風がひと筋流れ込む。紙がふわりと揺れ、葉月のギターが一度だけ小さく、共鳴のように鳴った。


出口で、翠が手を振る。


「明日、また避難所へ行く。時間が合えば来てくれる?」


「はい。ノートを持っていきます」


澪は笑って頷いた。風が頬を撫でる。その風は、次の物語のページを、音もなくめくっていた。



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