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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
風の届く距離 ― 五つの手紙の輪 ―

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第1話 あなたの笑顔の理由

午前七時。児童支援施設「ひだまり園」の玄関を開けると、甘いお菓子の匂いが残っていた。昨夜、子どもたちと焼いたクッキーだ。端が少し焦げたけれど、それも人気だった。


「おはようございます、せんせい!」

元気な声が走る。灯はエプロンを結び直し、笑顔で手を振った。朝の支度が流れるように進み、園庭に小さな靴跡が増えていく。胸の奥がすこし温かくなる。呼吸のような日課だ。


午前の活動が終わり、事務室に戻ると、机の上に白い封筒が置かれていた。差出人も宛名もない。風に運ばれたみたいに、静かにそこにある。封を切ると、便箋が一枚。


あなたが誰かを笑顔にしていること、ちゃんと誰かが見ています。


読んだ瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。慰められたわけでも、励まされたわけでもないのに、涙がにじむ。何かがほどける気配。灯はその紙を丁寧に折り、引き出しにしまった。


午後三時。風が少し強くなった。公園で、男の子がブランコをこいでいた。手に小さな紙を握っている。灯が近づくと、彼は慌てて背中に隠した。


「なに持ってるの?」

「ひみつ」

「せんせいにも?」

「……うん」


少し考えてから、彼は恥ずかしそうに紙を差し出した。丸い字。


かなしいとき、せんせいがわらうと、かなしくなくなる。


言葉が出なかった。風が吹いて、紙の端が揺れる。男の子の笑顔がまっすぐで、胸の奥がきゅっと痛む。笑うことは、誰かの悲しみを少し受け取ることなのかもしれない――そんな考えが、風に乗って灯の中へ入ってきた。


施設に戻ると、玄関の掲示板に白い紙が貼られていた。見覚えのある筆跡。


あなたが誰かを笑顔にしていること、ちゃんと誰かが見ています。


誰かが灯の机から見つけて、ここへ連れてきたのだろう。悪戯かもしれない。けれど、不思議と腹は立たなかった。紙のまわりの空気がやわらいでいくのを感じたからだ。夕方、灯は掲示板の前で立ち止まり、小さく呟いた。


「……ありがとう」


その声が誰に届いたのか、自分でもわからない。ただ、風の向こうで誰かがほほえんだ気がした。


翌朝。

市内ボランティアセンターから翻訳の学生が来た。遠見澪という女性だ。黒髪をまとめ、透明な声でゆっくり区切って読む。海外の小学校から届いたカードを、一枚ずつ手に取り、すぐ日本語に置き換えていく。


――We are thinking of you.

――You are not alone.


言葉が届くたび、子どもたちの背筋がすこし伸び、顔が上がる。灯はその変化を横目に、胸の中が温まるのを感じた。配られたカードの一枚に、青い鉛筆の“風”の絵があった。端に小さく、Thank you for your smile。灯が思わず笑うと、澪も目尻をやわらげた。


「翻訳できない言葉って、ありますね」

「ありますね。いちばん大事なやつ」


短い会話。けれど、同じ風が二人を通り抜けたのがわかった。


午後、避難訓練。市役所の防災課から来た稲波翠が、腕をまくって明るい声で説明する。


「大声を出すのも訓練の一部ですよー。助けて! ってね」


照れ笑いしながらも、子どもたちはちゃんと声を出す。灯もつられて手を挙げた。終わってから、翠は玄関の掲示板の前で足を止め、貼られた紙をじっと読む。


「……いい言葉だ」


彼女は名刺の裏に小さく「ありがとう」と書き、画鋲で端に留めた。紙がかすかに揺れ、風がそれを受け取ったように見えた。


夕方、迎えが少し遅れた母親が駆け込んできた。目の下に薄い隈。息を整えながら頭を下げる。


「すみません、遅くなって……」

「大丈夫ですよ」


子を託したとき、母親の指先から紙片が落ちた。拾い上げると、細い字で一行。


少しだけ、休み方を忘れました。


灯はうなずき、紙をそっと返した。母子が背を向けたあと、胸ポケットの手紙の感触を確かめる。夜、灯は小さな便箋を取り出し、短く書いた。翌朝、掲示板へ静かに貼る。


休み方は、思い出すもの。忘れたままでも、呼吸はしていい。


昼過ぎ、掲示板の前で立ち止まる人影が増えた。読んだあと、肩の力が少し抜けるのがわかる。言葉は目に見えない温度を持って、空気のほうから人に寄っていく。


閉園間際、朝の母親がもう一度現れた。目はまだ赤いが、足取りは落ち着いている。


「駅のベンチで座って、何もせずに十数えました。怖かったけど、すこし楽になりました」


灯は頷き、昨日の焦げ目のあるクッキーを一枚手渡した。母親は笑って、泣いた。泣くのと笑うのが同じ場所から来ることを、灯は確かに見た。


その帰り際、園外の掲示板をのぞくと、朝の便箋の下に新しい一行が増えていた。


十数える間、ベンチは動きませんでした。ありがとう。


“ベンチ”という具体が加わっただけで、言葉が体温を持った。灯は画鋲の頭を軽く押し、空を仰いだ。雲が薄く切れ、風がまっすぐ抜けていく。


その後、澪が忘れ物を取りに寄った。透明ファイルのあいだから、白紙が一枚すべり落ちる。うっすら鉛筆で、また“風”の下書き。澪は照れたように笑う。


「いつか、翻訳できない言葉だけを集めた本を作りたくて。これは、その表紙案みたいな」


「いいですね」


灯は引き出しから最初の手紙のコピーを一枚だけ取り出し、ファイルのポケットにそっと差し込んだ。


「よかったら、これも。どこかで、誰かの役に立つかもしれないから」


紙が擦れる音が小さく鳴り、薄い風の音に重なった。


夕暮れ、玄関の鍵を回す。通りの木々が裏葉を見せ、風がひとつくぐっていく。掲示板の紙が小さく揺れ、誰のものでもない言葉が今日の終わりをやさしく撫でた。


灯は空を見上げ、深く息を吸う。呼吸が広がる。

そして、静かに微笑んだ。


風が、まだ知らない誰かの胸へと、手紙を運んでいく。

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