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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
風の届く距離 ― 五つの手紙の連なり ―

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風の届く距離

風は、見えないのに確かに“通っていく”。誰かの言葉を運ぶわけでもなく、ただその場にある空気を少し動かすだけで、人の心をやわらかくしていく。


これまでに届いた手紙たち――湯気の中の一文、夜勤のメモ、ページの間の言葉、そしてカフェのナプキン。それらはどれも、誰かの声ではなく、呼吸のようなものだった。


この最終話は、“風”そのものに宛てた手紙だ。誰が書いたかも、どこへ届くかも、わからない。けれど、そこを通り過ぎていった風の中に、ほんの少しでも“やさしさ”が残るなら、それでいいと思う。

午後三時。街のベンチで、澄江は封筒を膝の上に置いていた。 白い封筒。宛名も切手もない。書いたのは自分なのに、誰宛てでもない手紙。 風が吹くたび、封筒の端がふるえている。指で押さえると、その震えが指先まで伝わった。


 昔からの習慣だった。午後三時になると、どんな日でも手紙を書く。 出さない手紙。投函もしない。 ただ、思いついた言葉を小さな便箋に書いて、封をする。 「出さないのに封をするの?」と、孫が不思議そうに聞いたことがある。 そのとき澄江は笑って答えた。 「風に読んでもらうのよ。」


 今日の風は、いつもより少し冷たい。 春の終わりの風。花の香りよりも、土の匂いが勝っている。 ベンチの前を行き交う人たちは、みな早足で通り過ぎていく。 それでも澄江は急がない。 ひとりでいる時間の中に、ちゃんとした“生きてる音”があると知っていたからだ。


 封筒を開き、便箋を取り出す。 今日の言葉は、まだ書かれていない。 ペンを取り出すと、手の震えが少しだけ増した。歳のせいだろう。けれど、それも悪くない。 震えた線の方が、思い出には近い気がする。


 一行目に、ゆっくり書いた。


今日は、風がよく通ります。


 その下に続けて書こうとしたが、言葉が浮かばない。 風が髪を揺らし、便箋の端をそっと持ち上げた。 まるで「それだけでいい」と言っているようだった。 澄江は笑い、ペンを置く。紙を折り、封筒に戻した。


 顔を上げると、通りの向こうに小さなカフェが見えた。 ガラス越しに、誰かがカップを洗っている。 手元に見覚えがあった。いつか通りすがりに見た青年――透だった。 “苦くてよかった”と書かれたナプキンの話を思い出す。 あの店の前を風が通り抜けるたび、澄江の頬にも少し香ばしい香りが届く気がしていた。


 風が方向を変える。 今度は駅前の方から吹いてくる。 新聞がめくれ、ベンチの脇に紙片が一枚舞い落ちた。 拾い上げると、それはメモ用紙。 『赤信号で止まっている人を見ると安心します。』 角が少し折れていて、字の癖がやさしい。 澄江は笑った。どこかで誰かが書いた言葉が、またここへ来たのだ。 風は、言葉の配達をちゃんと続けている。


 紙を膝の上に置き、目を閉じた。 まぶたの裏に、これまで書いたたくさんの手紙の色が浮かぶ。 湯気の中に置いた一文。ベランダに落ちたメモ。図書館のページに挟まった紙片。 どれも手元には残っていないけれど、風がどこかへ運んでくれた。 自分の言葉も、きっと同じように誰かのそばを通り過ぎたのだろう。


 通りの向こうで、子どもたちが風船を持って走っている。 赤い風船がひとつ手から離れ、空へと浮かんだ。 空気の流れに乗って、ゆっくり上がっていく。 澄江は首を傾けてそれを見送った。 どこかで誰かがそれを見上げるだろう。 風はいつだって、誰かと誰かをすれ違わせていく。


 ベンチの横にあるポストには、貼り紙があった。『拾った手紙を貼ってください』 貼り紙の下には、色とりどりの紙片が並んでいた。 「眠たいときに読んでください」 「きょうのあなたの声、やわらかかったです」 「読んでくれてありがとう。次の人へ。」 「今日は、苦くてありがとう。」 どれも見覚えのある言葉たち。 まるで、これまでの手紙たちが風に乗ってここへ集まったようだった。


 澄江は封筒を見つめた。 白い紙の中に、今日の一文が眠っている。 胸の奥がすこしだけ温かくなった。 封筒を貼り紙の下にそっと差し込む。 テープでとめながら、呟いた。 「風さん、お願いします。」


 その瞬間、風がふっと吹き抜けた。 封筒がかすかに揺れ、他の紙片たちが一緒にそよいだ。 誰かの言葉と、誰かの息と、澄江の小さな声が混ざって、 静かな“風のページ”がめくられていく。 午後の陽射しがその上に差し込み、影が柔らかく揺れた。


 ベンチに腰を下ろし、澄江は深呼吸をした。 ゆっくりと吸って、長く吐く。 その息が風に混ざり、見えないまま遠くへ流れていった。 指先に残る紙の感触だけが、確かに現実だった。


 ふと、膝の上を見ると、もう一枚紙があった。 いつの間にか、封筒の下に挟まっていたらしい。 そこには、淡いインクでこう書かれていた。


世界はちゃんとやさしいです。


 それは、どこかで見た文字だった。 風の向こう側で、誰かが笑っている気がした。 澄江は目を閉じて、もう一度、深く息を吸い込んだ。 午後の光がまぶたを透かし、静かな温度が頬を包んだ。


風が通りをいったん抜け、角で旋回して戻ってくる。紙片の群れが、ほんの少しだけ位置を変えた。澄江は立ち上がり、並びを整える。角の丸い付箋、破れのあるレシートの裏、ナプキンの切れ端――どれもが、誰かの時間の端っこだった。


 ベンチの前を、作業着の青年が通り過ぎた。手には紙袋。角張った肩の線に覚えがある。青年は少し先で立ち止まり、振り返って掲示の紙片を眺めた。

「……“眠たいときに読んでください”」

 彼はゆっくりと声に出し、小さく笑った。目元がほどける。澄江は心の中で頷く。どこかで読んだ誰かが、ここでもう一度、その言葉を読み直している。


 青年はポケットから小さな封筒を取り出し、一枚の紙を貼り足した。


ちゃんと、あくびをしなさい。


 文字は前に読んだ誰かとは違うが、風に馴染む高さで留められている。青年は会釈のように掲示に視線を落とし、そのまま去っていった。紙片は、彼の歩幅のリズムをわずかに引き継いで揺れた。


 しばらくして、コンビニの制服を着た若い女性が自転車を押してきた。休憩の帰り道だろう。ペダルに足を置いたまま、掲示の前で止まる。彼女は胸ポケットから細いメモを取り出し、角にピンで留めた。


きょうのあなたの声、やわらかかったです。


 留め終えると、彼女は深く吸って、ゆっくり吐いた。声を出さずに言う「いらっしゃいませ」。通りは彼女の胸を通過した透明な言葉で、少しだけ軽くなった。


 風が図書館の方から吹き下ろす。通りの端、古い石段の上を白い紙が滑ってくる。角にうっすら輪染みがあるメモだ。澄江が拾い上げる前に、黒縁の眼鏡をかけた女性が先に手を伸ばした。

「お預かりします」

 女性はメモの文字を確かめ、掲示の中央へやさしく差し込む。


読んでくれてありがとう。次の人へ。


 そのとき、向かいのカフェのドアが開いた。カウンターの男が、空のピッチャーを持ったまま通りを一瞥する。澄江は小さく手を上げた。男も気づいて、会釈を返した。風は開いた扉から一瞬だけ店内に入り、豆の香りを外へ連れてくる。掲示の上で文字たちが、香りの重さに合わせて静かに揺れた。


 澄江はベンチに腰を戻し、封筒から新しい便箋を取り出した。今日は、もう一言だけ書きたくなっていた。孫が遠くへ行ってから、書く言葉が時々細くなる。けれど風は、その細さごと受け取ってくれる。


だれかの歩幅に合わせなくても、だいじょうぶ。


 書き終えて封をする。指先で封緘の線を押し、紙のざらつきを確かめる。その手つきは、湯呑の縁を確かめるのと似ている。温度はないけれど、輪郭の確かさが残る。


 通りの端から、スーツの男性が小走りで現れた。手に提げた紙袋からナプキンの角がのぞく。彼は掲示の前で立ち止まり、目線を紙の群れにさっと走らせて、胸ポケットから短い鉛筆を取り出した。ナプキンに小さな点を打ち、端に一行添える。


苦いとき、落ち着くことがあります。


 ピンを押す音が、風の中で乾いて響く。男性は指先を離す前に、紙の下辺を軽く撫でた。カフェの中で何度も繰り返された手の記憶が、紙の繊維に移る。


 午後四時、空が少し曇ってきた。光は弱くなったが、風は機嫌がいい。ときおり通りの埃をやさしく攫い、掲示の紙片の角だけを正す。澄江はそのたびに、知らない誰かの肩が一斉に下がる気配を想像する。風は、誰かの働きの成果ではなく、誰かの緊張の反対側で生まれる。


 制服の女子高生が駆け寄ってきて、掲示の前で足を止めた。首に巻いた薄いスカーフをほどきながら、視線が一枚のメモに止まる。『あなたの声も、きっとそうでした。』彼女は胸に手を当て、小さく息をしてから、鞄から取り出した紙片を重ねた。


わたしの声も、すこしやわらかくなりますように。


 ピンの頭が光って、すぐ曇る。彼女は掲示を一歩離れて見上げ、深く頭を下げるでも笑うでもなく、そのまま走り去った。走り去る背中の後ろで、紙はまた静かな位置に戻る。


 遠くで救急車のサイレンが鳴った。風は音を運ばない。けれど、人の足音の間隔がわずかに詰まり、通りの空気が一度だけ固くなる。澄江は封筒の縁を撫で、声に出さずに胸の中で数を数える。ひと、ふた、みっ。息はゆっくり落ちついていく。掲示の紙の角が、その呼吸に合わせて柔らかく揺れた。


 石畳の端から、古い自転車を押す初老の男性が現れた。前かごには本が二冊。背表紙に図書館のシール。彼は掲示に近づき、眼鏡を外して目を細める。

「自由帳は、ここかね」

 澄江が微笑むと、男はうれしそうに頷いた。コートの内ポケットから折り畳まれた紙を取り出し、角を伸ばしてから留める。


ここでは、温かいのは音だけ。


 男性は紙片から指を離すと、しばし掲示の全体を眺めた。

「この街は、まだだいじょうぶだ」

 独り言のように言って、ゆっくり去っていく。去り際、彼の上着の裾が風でわずかに浮き、紙片が連鎖して一度だけふわりと波打った。


 夕方の色が、通りの端から少しずつ降りてくる。風船を手放した子どもたちはもういない。代わりに、犬を連れた老婦人が立ち止まり、掲示を見上げる。犬の鼻先が紙の匂いを嗅ぎ、くしゃみをひとつ。老婦人は笑って、ハンカチの角に書かれた小さな文字を指で示すように見せ、自分だけが読める高さでそっと掲示へ重ねた。


世界はちゃんとやさしいです。


 風が一段、やわらかくなる。澄江は胸の奥の糸がほどけるのを感じた。言葉は所有されない。通り過ぎるたびに、どこかで同じ高さを見つけ、そこにそっと置かれていく。


 ベンチの脇で、赤信号がいったん街を止める。横断歩道の白が夕方の光で薄く輝き、人々の肩が同じ位置で並ぶ。青に変わる前に、ひとりの男が小さな声で呟いた。「止まってる人を見ると安心します」。彼の声は誰にも届かないが、風は確かにそれを覚えた。青に変わると、歩き出す靴音のリズムがわずかに揃う。


 澄江は封筒をもう一度掲示に押し込み、テープの端を指で押さえた。貼るたびに、紙の下で小さな空気が動く。空気が動くたびに、胸の奥の張りが少しほどける。五本の指それぞれに、これまでの手紙の感触が残っている気がした。湯気、蛍光灯、紙のざらつき、ナプキンの繊維、封緘の線。


 通りの角で、カフェの看板がそっと裏返される音がした。CLOSED。けれど、ガラスの向こうではまだ一杯分の湯気が立っている。風はドアの隙間を通り、豆の香りを掲示にそっと掛けた。紙の上に、言葉ではない温度が一層分、重なる。


 陽が沈み始める。電灯がひとつ、またひとつと灯る。澄江はベンチから立ち、掲示の前に小さく会釈をした。ここに並ぶ言葉は、誰のものでも、みんなのものでもない。風の居場所を少し広げただけ。それで充分だ。


 帰ろうとしたそのとき、掲示の最下段、まだ誰も使っていない空白に、白い紙が一枚ひらりと舞い降りた。どこから来たのかわからない。拾い上げると、インクが乾ききっていない新しい文字が光った。


風の届く距離で、会いましょう。


 澄江は目を閉じ、短く頷いた。会う、というのが会話なのか、視線なのか、同じ空気を吸うことなのかはわからない。けれど、いずれにせよ、すでに叶っている気がした。風が頬を撫でる。掲示の紙片たちが、一斉に小さく、しかし確かに揺れた。


 夕方の風がいったん止み、街の音だけが薄く残った。掲示の紙片は静まり、文字たちは夕日の色を吸って、すこしだけ橙に近づく。澄江はベンチに腰を戻し、指先に残った糊のざらつきをひとつずつ拭い落とした。手のひらは、今日貼った言葉の数だけ、軽くなっている。


 通りに灯りがともる。最初の一本は、交差点の信号の向こう。二本目は、パン屋の上の古い街灯。その次に、カフェのガラス越しに低い明かり。透がカウンターの奥で、洗い終えたカップを伏せているのが見える。やがて看板が静かに裏返され、音のないCLOSEDが夜に沈んだ。ドアの隙間から最後の豆の香りが漏れ出る。風はそれを受け取り、掲示の上をそっと撫でた。


 駅方面から、制服姿の女子高生が走ってきた。肩に巻いたスカーフは、もう昼の熱を失っている。掲示の前で立ち止まり、彼女は斜め上を見上げた。紙片のひとつ――『あなたの声も、きっとそうでした。』を指先で整え、何も足さずに微笑んで去っていった。足音が遠ざかると、風が一拍遅れてそれを追い、紙の角だけが小さく揺れた。


 低い雲が広がり、空の色が早足で夜に変わる。図書館の窓が一枚だけ残っている。内側に人影はなく、それでも薄い光が紙のように重なって見えた。扉の脇の掲示板には、昼間貼られた『ここでは、温かいのは音だけ。』が、雨に濡れた誰かのコートの裾で一度だけめくれ、また落ち着いている。文字は濡れていない。守られたわけではなく、たまたま風の線から外れていただけだ。そんな偶然の無数が、いつも街を支えている。


 信号が赤に変わる。動きが止まり、肩の高さが揃う。澄江はその静止の一瞬が好きだった。動かない時間にだけ、風はやさしく通り抜ける。横断歩道の白が息をするように明滅し、青になると、歩幅の違う靴音がふたたび重なり合う。誰の拍でもない拍に、街全体がゆっくり合う。


 掲示の最下段、昼に舞い降りた白い紙――『風の届く距離で、会いましょう。』の下に、また一枚、どこからか紙が滑り込んだ。薄いグレーの便箋。インクの痕が淡い。


たまに立ち止まってください。わたしも立ち止まっています。

 澄江は声に出さずに読み、指で端を押さえた。紙の下で小さな空気が移動し、そのまま落ち着く。誰かがどこかで同じ言葉を思いつき、いまここに重ねたのだろう。差出人はいない。受取人もいない。けれど、風はこの往復をちゃんと知っている。


 そのとき、通りの端からコインランドリーの白い光がもれた。ガラスの向こうでドラムが回り、衣類が丸く混ざり合っては、縁に触れて落ちる。扉の外に置かれた小さな掲示には、角の丸い字でこう書かれていた。


見つけた言葉を、そっとここへ。

 誰かがここから一枚持ち、また別の誰かがここへ置く。行き来の数だけ、風の路地が増える。澄江はランドリーへは向かわず、ここでじっと見送る。見送るだけで、街は少しやわらかくなる。


 通り過ぎるタクシーの運転手が、窓を少しだけ開けた。風が車内に入り、すぐ出ていく。運転手は前を向いたまま、掲示へ短い視線だけを投げる。言葉に触れた人は、何も持ち帰らなくても、呼吸の仕方だけが変わる。


 夜風がひとしきり強くなった。角のピンが耐えきれず、紙片が一枚だけふわりと外れる。澄江が立ち上がる前に、通りかかった青年が拾い上げ、何も言わずに貼り直した。指が紙を撫でる。指の動きは、誰かの書いた文字の高さに自然と合わさり、紙はすぐ元の場所に戻る。青年は会釈のように目を伏せ、足早に去っていった。


 その手つきに、ずっと昔の記憶が重なる。澄江がまだ若かったころ、紙を壁に貼る仕事を一度だけした。糊の配合を教わり、角の圧し方を教わり、風の抜け道を見極めることを教わった。仕事は長く続かなかったのに、貼り方だけは体に残った。今日は、その記憶の続きを手のひらでなぞっている。


 風が緩むと、遠くの音が聞こえる。商店街のシャッターが落ちる音。自転車が鍵をかける音。どこかの家の風鈴が一度だけ鳴り、すぐ、鳴らない。音のあいだに夜の空気が満ちて、掲示の文字たちはその厚みの上に静かに乗っている。紙が場に馴染むとは、こういうことだと思う。置かれて忘れられ、忘れられてなお、その場の空気にわずかな斜面を作る。


 ベンチに腰を戻し、澄江は封筒をもう一度取り出した。今日の一文――『今日は、風がよく通ります。』それだけの手紙をもう一通、同じ紙に同じ字で書く。重ね書きではない。二回目は、別の風に読んでもらうため。封をすると、テープの上を指が滑り、紙の繊維が指紋に触れる。ゆっくり息を吸い、吐く。息は封筒の中まで届かない。それでも、届く。


 「こんばんは」

 声の方を見ると、コンビニの制服の彼女が自転車を押して立っていた。頬が夜の冷たさで少し赤い。

「貼ってもいいですか」

「どうぞ」

 彼女は小さな紙を取り出し、掲示の端に留めた。


赤信号で止まっている人を見ると安心します。

 彼女は貼り直しもせず、一度だけ見上げて、会釈をして去った。去ったあと、澄江は紙の端に指を添え、軽く押さえた。今度は自分の手が何も足さない番だ、とわかったから。


 冷たい風が頬を撫でる。雲が切れ、薄い月が出た。光は弱い。けれど、掲示の白い面はその光を拾い、周囲よりわずかに明るい。通りを行く人の視線が、一瞬だけここに止まり、また流れていく。そのわずかな停止が、今日のすべての意味だった。


 カフェの扉が内側から一度だけ開き、透が空のピッチャーを外に出して干した。彼は掲示の前で立ち止まり、ナプキンの列に目を走らせる。何も言わず、小さく顎を引いてまた店に戻る。扉が閉まる直前、彼は店内に向かってぽつりと言った。

「今日は、苦くてよかった」

 誰にも聞こえない声。けれど、風はそれを覚え、掲示の紙片にそっと重ねる。紙がかすかに鳴ったような気がした。


 夜は深くなる。澄江は掲示の前で小さく会釈をし、テープの端をもう一度なぞった。紙はどれも薄く、軽い。けれど、それらが集まると、風の通り道は複数になり、重なり、絡み、また解ける。見えない糸が、音もなく結ばれてはほどけていく。


 帰り支度をする。封筒を一通だけポケットに残し、あとは掲示に預けたまま。ベンチから立ち上がると、膝が少し笑う。笑う膝は、悪くない。歩き出す前に、もう一度だけ深く息を吸い、ゆっくり吐いた。呼吸が背中を通り、肩から降りる。緊張は、どこにも引っかからず、そのまま風に混じってどこかへ行った。


 角を曲がる。カフェの看板、図書館の窓、コンビニの蛍光灯。どれも遠くなり、音だけが薄くついてくる。澄江は振り返らない。掲示は背中のほうで静かに揺れ、次に通りかかる誰かのために、もうページを作り始めているはずだ。


 横断歩道で足を止める。赤。立ち止まる人の列。肩の高さ。ふっと欠伸が出る。涙は出ない。ただ、喉の奥が広くなり、視界がやわらぐ。青に変わる。歩き出す。靴底が、乾いた舗道を静かに叩く。


 それでいい。

 それで、今日はおしまい。

最後の手紙を書き終えたあと、澄江が見上げた空は、誰のものでもなかった。

 けれど、その風は確かに、これまでのすべての言葉を通り抜けていった。


 1話でベンチに落ちていた「あくびの手紙」。

 2話で夜勤のカウンターに置かれた「やわらかい声のメモ」。

 3話でページの間に挟まれた「読み終えたあとも残る言葉」。

 4話でカフェの片隅に残された「苦味と灯りのやり取り」。

 そして5話で、それらが静かに風へ還っていった。


 このシリーズで描きたかったのは、“優しさ”ではなく、“優しさの通り道”だった。

 誰かに伝えるためではなく、ただその場を少しだけやわらげるための言葉。

 それは、挨拶のように一瞬で消えても、確かに空気を変える。

 手紙とは、そういう奇跡を毎日の中でそっと起こすものだと思う。


 澄江の最後の封筒には、宛名も住所もない。

 けれど、彼女が風に託した一文――「今日は、風がよく通ります。」

 それはたぶん、この世界のどこかで、まだ読まれている。


 もし、あなたが今、静かな風を感じたなら。

 それは、きっとこの物語の続き。

 見えない糸が、あなたの時間にも結ばれています。

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