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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
風の届く距離 ― 五つの手紙の連なり ―

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閉店後のカフェの手紙

昼のざわめきが静まり、照明を半分だけ落としたカフェには、まだコーヒー豆の香りがゆっくりと漂っている。カップの底に残った苦味や、テーブルに置かれた指の跡。店を閉めたあとに残るそれらは、誰かの会話よりも正直な余韻だ。


この話は、そんな“残り香の時間”についての小さな手紙。言葉の代わりに、温度や匂いで繋がる人々の、ほんのわずかな交差点を描いていく。

カフェの看板を裏返す。CLOSEDの文字が夜の通りに沈む。 透は、ミルクピッチャーを流しに置き、蛇口から細く水を出した。 水音が静かな店内を包む。天井の照明は三つのうち一つだけ残している。 照らされた範囲だけがまだ昼を続けていて、その外側には夜が待っているようだった。


 カウンターの上には、ナプキンが一枚。 そこにボールペンの細い文字で何かが書かれている。 『今日のコーヒー、昨日より苦くてよかった。』 いつの間にか置かれていたものだ。名前もない。伝票と一緒に置かれていたらしい。


 透は笑って首を振る。悪戯かもしれない。だが、悪戯にしては文字がきれいだった。 書き慣れている人の手。しかも、なぜ“昨日より”なのだろう。 昨日も今日も同じ豆を使っている。違うのは、淹れた自分の手つきだけ。


 ポットを洗いながら、透は湯気の向こうで自分の手を見た。 指の節が少し膨らんで、皺が増えた。歳のせいだけではない。 毎日、何百回とカップを持ち上げるせいだ。 それでもまだ、湯の温度で掌が温まると、少し安心する。 その感覚があるうちは、まだ大丈夫だと思える。


 流しを拭き終えると、常連の女性がガラス越しに顔を出した。 閉店時間を過ぎているのに、透は鍵を開けて軽く会釈する。 彼女は持ち帰り用のカップを一つ頼み、「眠れない夜なんです」と笑った。 豆を挽く音が、夜の空気に溶ける。静かに、粉の山が呼吸をしているように見えた。


 彼女は紙カップを両手で包み、ふっと息を吹きかけた。「ここのコーヒー、少し苦いですよね」「ええ、砂糖を入れない人が多いので」「でも、嫌な苦さじゃない」

 そう言って、彼女は外に出ていった。 ドアチャイムが鳴り、夜風が一瞬だけ流れ込む。 透は、さっきのナプキンの文字をもう一度見た。『苦くてよかった。』


 人はなぜ、苦味に“よかった”を添えられるのだろう。 甘さに“よかった”は似合わない。 苦さの中にだけ、少しの誠実さがある気がした。 透はコーヒーの残りを口に含む。確かに、昨日よりわずかに深い味。 だが、それはきっと、疲れのせいだろう。


 椅子を重ね、床をモップで拭く。水が光を反射して、夜の中に川のような筋を描く。 モップの先がカウンターの下に触れたとき、何かが引っかかった。 拾い上げると、薄い紙片。ナプキンと同じ質の紙。 そこにも文字がある。


今日は、苦くてありがとう。


 透は思わず息をのむ。筆跡は先ほどのナプキンと同じ。 だがこれは、明らかに新しい。 誰かが、ついさっき書いた。 さっきの女性が出ていったのは、ほんの三分前。 鍵を閉めたあと、誰も入っていない。 もしかしたら、彼女が残していったのか。だが、それにしては早すぎる。


 透は紙を手にしたまま、扉の外を見た。 街灯が並ぶ坂道。人の気配はない。風が吹くたび、看板の鎖が微かに鳴る。 紙を折りたたみ、カウンターの引き出しにしまった。 引き出しの奥には、これまで客が置いていったメモや小さなカードが何枚か入っている。 “おいしかった”“また来ます”そんな言葉たち。 だが、“ありがとう”と“苦い”が並んでいるのは初めてだった。


 照明を落とすと、店は完全に夜になる。窓の外、街の明かりが遠くで瞬いている。 透はカップをひとつ洗い、水を止めた。 蛇口の先から一滴だけ残った水が、ゆっくりと落ちる。 その音が、店内の最後の音だった。 彼はカウンターに肘をつき、暗がりの中で目を閉じた。 苦味の余韻が、喉の奥に薄く残っている。 それは嫌な感じではなく、何かが終わった印のようだった。


朝の仕込みの時間になっても、透は引き出しの中の紙片のことを考えていた。夜の静けさの中で拾った言葉は、朝の光の下で形を変える。カウンターの上に豆袋を出し、ミルを分解して刃の目をほんの少しだけ締めた。粉は細くなり、抽出はわずかに遅くなる。苦味は、深さを伴って立ち上がるはずだ。


 開店の札を返し、最初の客を迎える準備を整える。通りの向こうでパン屋がシャッターを上げ、粉の匂いが風に混じる。ガラス越しの光は柔らかく、夜に見えなかった埃の粒が浮かび上がる。カウンターの端に、昨夜のナプキンを裏返して置いた。インクは乾き、線の端に小さな羽が立っている。


 九時を過ぎると、常連の会社員が入ってきた。迷いなく「ブレンドを」と告げ、いつもの席に座る。透はケトルの湯を細く落とした。粉の丘が静かに沈み、泡がふくらんでは消える。最初の一滴が落ちるまで、呼吸を合わせる。カップを運ぶと、彼は一口飲み、眉をわずかに上げた。

「今日、少し、深いですね」

「気のせいかもしれません」

「いや、悪くないです」

 短い会話で終わる。返ってきたカップの底に、ほんの僅かに残る線を見る。昨日より濃い影。それを見ただけで、喉の奥にささやかな達成感が生まれた。


 昼前、窓辺の席に、昨日の“眠れない夜”の彼女が現れた。紙袋を抱え、開封したばかりの文庫本を机に置く。透は黙ってアイスコーヒーを用意し、グラスの側面に水滴を作る。彼女はページに指を置いたまま、グラスに唇を当てた。

「やっぱり少し苦い」

「すみません」

「謝るほどじゃない。……でも、今日の苦さは、昨日と違う気がします」

 彼女はそう言って、グラス越しに笑った。言葉の意味は測りかねる。だが、昨夜の紙片の筆跡が脳裏をかすめる。


 客足の切れ目に、透は引き出しから紙片を取り出した。『今日は、苦くてありがとう。』裏は白い。指で光に透かすと、紙の繊維が細い川のように走っているのが見える。紙の端に、意図的に引いたような点がひとつ。印、なのだろうか。誰かの合図。そこに合わせるかのように、透はナプキンの端に鉛筆で一点だけ印をつけた。返事ではない。ただ、気づいた、という気配の共有。


 午後、店は穏やかに回り続ける。カップの重み、皿の擦れる音、スチームの短い吐息。隣の席では、大学生らしき二人が課題のプリントを前に、小声で計算をすり合わせている。計算の合間、片方がふっと息を漏らす。苦い顔でも、投げやりでもない、ただの息。透は心のなかで頷いた。ここにある苦味は、たぶん誰かを追い詰める種類のものではない。


 仕込みの合間に、抽出表のメモ欄へ小さく書く。

『本日の粒度:わずかに細かく。蒸らし長め。滴下の始まり、気持ちゆっくり。』

 誰に見せるものでもない記録。けれど、書くことで自分の手に帰ってくる線がある。手元のメトロノームは静止したまま。代わりに、身体の内側で拍が刻まれる。


 四時過ぎ、雨が降り出した。通りの色が冷えて、窓に細い筋が現れる。入ってきた客が濡れた傘を立てるたび、雫が床に小さな地図を描く。透はタオルで拭いながら、入口のマットの位置をすこしずらした。足音の水分が減り、店内の音がまた乾く。


 レジの下段に置いてあるコルクボードを取り出し、カウンター脇に立てかける。空白の面の左上に、昨夜のナプキンを押しピンで留めた。文字が客の目線から少し外れる高さ。読むためより、ただ“場に置く”ための位置だ。二つ目のピンで角を軽く固定し、位置を決めた瞬間、紙の内側に空気が閉じ込められて、かすかな音がした。


 夕方、親子連れが席に着く。子どもが「おとなのコーヒーはにがい?」と訊く。母親が笑って「すこしね」と答える。透は水を二つ持っていき、子ども用にストローを曲げて差した。戻る途中、コルクボードの前で足を止める若い男性の視線が、ナプキンの文字の上で一拍だけとどまるのが見えた。彼は何も言わず、席に着いた。いい、と思う。言葉は、通り過ぎていくためにもある。


 閉店一時間前、雨脚が弱まった。窓の外の街灯がにじみ、舗道に光の輪がいくつも並ぶ。扉が開いて、見覚えのある細身の女性が入ってきた。昨夜の人かもしれない。肩の線、歩幅、指先の癖。けれど確信はない。

「ホットで」

 短く注文し、カウンター席に腰を下ろす。透は湯を落としながら、視線を手元に固定した。湯は細く、粉は穏やかに沈む。カップを置くと、彼女は両手で包み、香りだけをゆっくり吸った。

「……苦いですね」

「はい」

「よかった」

 彼女はそれだけ言って、しばらく沈黙した。やがて、ナプキンに何かを書き、そっとカウンターの端に滑らせる。透は目を向けずに、ゆっくりとそれを手元へ寄せた。


苦いとき、落ち着くことがあります。


 昨夜の筆跡に似ている。だが、同じ人かどうかは分からない。ナプキンの端に、やはり小さな点がひとつ。印は、彼女の癖か、合図か。透は首を傾げ、短い鉛筆で、今度はコルクボードの空白の位置に小さな点を打った。点と点の間に、目に見えない線が引かれるような気がした。


 彼女が席を立つ。会計のあと、「気をつけて」とだけ告げると、彼女は軽く会釈して出ていった。扉が閉まる直前、外気がひと筋流れ込む。湿った空気に微かな金属の匂い。看板の鎖が、ほんの少し短く鳴った。


 夜の支度に切り替える。テーブルを拭き、椅子を重ね、スチームノズルを洗う。カウンターの端に置いたナプキンの山から一枚取り、そこに鉛筆で書く。

『明日は、もう少しだけ細く、もう少しだけ長く。』

 抽出のことだけを書き、端に印をひとつ。誰に向けるでもない言葉は、奇妙に自分を落ち着かせる。声に出さずとも、店の空気の厚みが少し変わる。


 最後の客が帰り、静けさが戻る。透はコルクボードの前に立ち、留めた二枚のナプキンを眺めた。『昨日より苦くてよかった』『今日は、苦くてありがとう』『苦いとき、落ち着くことがあります。』どれも短い。説明もしないし、理由もいらない。ただ、苦味の周りに空白を作る言葉だった。


 照明を一つ落とす。ガラスの向こうで夜が濃くなる。バリスタスケールのディスプレイが暗転し、店の音は蛇口の残り滴だけになる。透はしばらくその音を聞いた。ぽとり。間。ぽとり。間。規則的なようで、少しずつ違う間隔。呼吸と同じだ、と思う。間があるから、続けられる。


 帰り支度の前に、カウンターの下段の引き出しをもう一度開けた。古いメモの束の間に、昨夜の紙片を戻す。閉める直前、引き出しの奥、板のささくれの影から小さな白い欠片が覗いた。摘み上げると、薄い紙切れ。そこには小さく、かつての自分の字でこう書かれていた。


苦いときは、無理に甘くしない。


 いつ書いたのか覚えていない。新人の頃、どこかで見た言葉を写したのかもしれない。紙は黄ばみ、端がやわらかい。透はそれをしばらく指で押さえ、コルクボードの隅に留めた。点は打たない。これは、昔の自分のための印だから。


 鍵を確かめる前に、店の中央で深呼吸をした。鼻腔に残る豆の香り、木の油の匂い、洗い立ての布の湿り。どれもが今日の終わりを知らせている。苦味の余韻は、静かに喉の奥で丸くなった。今夜は眠れそうだ、と透は思う。理由はない。けれど、十分だった。


夜が深まるにつれて、カフェの外の音は減っていった。通りの車が一台、二台と過ぎ去るたびに、ガラス越しの世界がまた少し静かになる。透はカウンターに肘をつき、磨かれた銀色のスプーンを並べていた。反射する照明が細い線を描き、その先で一点の光が揺れている。誰もいない店の中では、時間も湯気のように漂っていた。


 コルクボードの前に立つ。三枚のナプキンと、一枚の古いメモ。それぞれに違う筆跡で書かれた“苦味”の言葉。文字の高さも傾きも違うのに、なぜか並べるとひとつの呼吸のように見えた。透は照明を少しだけ上げ、紙たちに光を当てた。


 カウンターの下から白いカップを取り出す。底に小さな欠けがある。昔、新人のスタッフが落としてしまったものだ。「もったいないから自分で使う」と言って、それ以来ずっとこのカップで飲んできた。欠けた部分は、触れると指の腹に優しくひっかかる。その感触が今夜は妙に心地よかった。


 ドリップの準備をして、静かに湯を落とす。夜の店に響くのは、湯が粉に落ちる微かな音だけ。蒸気が立ち上り、カップの縁を越えて指先に触れる。苦味と香ばしさが重なり、深く静かな香りが漂う。コーヒーを注ぎ終え、席に持っていく。誰もいない客席。そこに一杯のカップを置くと、まるで見えない誰かが座っているようだった。


 透はカップの向こう側に視線を置き、ふとつぶやいた。

「苦いって、きっと生きてる味だな」

 声に出した瞬間、店の空気が少し動いた。誰の返事もないが、確かに何かが返ってきたような気がした。ナプキンの言葉たちが、紙の中でゆっくり息をしているように思えた。


 カップを傾け、残りを飲み干す。底に沈んだ光がひとつ、わずかに揺れる。飲み終えたあと、透はカウンターに戻り、紙とペンを手に取った。ナプキンに一行だけ書く。


苦い夜にも、少しの灯りがある。


 その一文を、コルクボードの端に留める。ピンの先が木に入り、かすかな音を立てる。音のあとに残る静けさが、耳の奥でゆっくりと広がった。


 時計を見ると、もう日付が変わっていた。透は照明を落とし、ガラス越しの街を見た。向かいのビルの窓にだけ、まだ光がある。遅くまで働いている誰かの明かり。きっとそこにも、苦くてよかった何かがあるのだろう。彼は深く息を吸い、吐き、鍵を閉めた。


 外に出ると、夜気が肌に触れた。冷たさのなかに、豆の香りがかすかに混ざっている。足元の影がゆっくり伸び、通りの角で風が吹いた。看板の鎖がひときわ澄んだ音を鳴らす。それは一日の終わりというより、どこかに手紙を出すような合図に思えた。


 透はポケットの中のペンを握り、歩きながら胸の中でつぶやく。

 ――今日は、苦くてよかった。

 その言葉は誰のものでもない。けれど、確かに心の奥で輪を描いて消えていった。 夜の空気の中に、その輪の余韻だけが漂っていた。

 「苦い」と感じる瞬間には、必ず何かが生きている。舌でも心でも、まだ鈍っていない証拠だ。だからこの物語では、甘さよりも苦味を肯定したかった。味覚ではなく、心の景色として。


 透が夜の店で見つけたのは、誰かの残した小さな“点”のような気配だった。言葉にしてしまえば消えてしまうような、その繊細なやり取りの中に、たしかな温度がある。手紙のようなナプキンの文字たちは、誰に届くでもなく、ただ空気を少しやわらげる。それで十分なのだと思う。


 もしあなたが今日、何かを苦いと感じたなら――どうか、それを悪いことだと思わないで。 その苦味は、きっとまだ“感じられる”ということの証だから。

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