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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
風の届く距離 ― 五つの手紙の連なり ―

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図書館のカップの手紙

静かな場所には、音がないのではなく、音が隠れている。ページをめくる音、靴底が床を擦る音、椅子の脚が小さく鳴る音。図書館という空間は、そうした“かすかな気配”で満たされている。


本を読む人は、言葉を目で追いながら、心の奥で誰かの声を聞いている。そしてときどき、ページの間に置き忘れられた一文が、見知らぬ誰かの記憶をそっと呼び起こすことがある。


この話は、そんな“読み終えたあとも残る声”についての手紙だ。湯気の立つカップの輪が、紙に滲んで、消えない跡を残すように。

図書館の朝は、外の世界より半歩遅れて始まる。 開館準備のアナウンスが流れる前、凛子はカウンターの照明を点ける。 蛍光灯の音が静かな廊下に細く響き、空気が少しだけ動いた。


 彼女はこの時間が好きだった。人の声がない空間に、自分の呼吸だけがある。 棚の本たちは夜のあいだに眠っていたようで、まだ背表紙の文字が光を吸いきれていない。 カーテンを開けると、曇りガラス越しにやわらかな陽が差し込んだ。埃の粒がふわりと舞い、まるで空中でページがめくれていくように見える。


 凛子は一冊の返却本を手に取った。 厚手の詩集。返却ポストの中で少しだけ折れていた。 開いてページを確かめると、二枚目あたりに薄い紙が挟まっていた。 コーヒーの輪染みがくっきり残る、小さなメモ。


読んでくれてありがとう。次の人へ。


 走り書きの文字は淡く、けれど丁寧に揃っていた。 誰が、いつ、ここに挟んだのだろう。 この詩集を読みながら、誰かがコーヒーをこぼした。 そのまま拭かずに乾かして、あとからメモを添えたのだろうか。


 ページを戻しているうちに、詩の一節が目に入った。


 あなたが残した沈黙に、風の声が降りてくる。


 凛子は小さく息を呑んだ。 その一行が、今の自分に宛てられたもののように思えた。


 カウンターの脇に紙コップが置いてある。昨夜の司書が残していったものだ。 底のほうに、うっすらコーヒーが乾いた跡が見える。 輪の形は、先ほどのメモの染みと同じ大きさだった。 偶然だろう。でも、偶然がいくつも重なると、それは小さな手紙のように見えてくる。


 凛子は一息ついて、カップを洗い流した。 水道の蛇口から落ちる音が、静かな室内で小さく反射する。 手を拭いて席に戻ると、返却本の山の間からもう一枚の紙が滑り落ちた。


 今度は、印刷されたページの切れ端。 上部には「旧資料室」のスタンプ。 下の余白に、誰かの走り書き。


図書館の音は、心臓の音に似ています。


 凛子は紙を裏返してみた。裏には何もない。 けれど、ペンを走らせた筆圧が、薄く凹んでいた。 その跡をなぞると、紙がかすかに軋む。 まるで誰かの鼓動を指で触れているような感覚。


 旧資料室――この建物の奥、今は閉鎖されている小さな部屋。 古い本と新聞が積まれ、出入りも制限されている。 そこに誰かが入り、こんなメモを残したのだろうか。


 昼が近づくころ、常連の老人が来館した。 手には茶封筒が一枚。 受付に立ち、凛子に微笑む。

「これ、いつもの返却じゃないんです。読んだ本に、手紙が入ってました。次の人に渡してもらえますか?」


 彼が差し出した封筒の中には、白い紙が一枚。 達筆な文字でこう書かれていた。


人は、誰かの残した言葉を読んで、少しだけ変わる。その変わり方は、たぶん本人にもわからない。


 凛子は頷き、封筒を受け取った。 老人は満足そうに笑い、「ありがとう」とだけ言って去っていった。 その背中を見送りながら、凛子はふと感じた。 この図書館の中では、手紙が本を介して循環しているのかもしれない。


 昼休み、職員室で同僚が笑いながら話していた。

「ここの利用者って、みんな静かすぎるよね。たまには音楽でも流したいわ」

 凛子は微笑んで、紅茶のティーバッグをカップに落とした。 カップの縁に薄い輪ができる。蒸気が眼鏡を曇らせ、視界が少しぼやけた。 紅茶の香りが、詩集のページの匂いと混ざる。 それはまるで、見えない誰かと同じ息をしているようだった。


 午後、旧資料室へ向かう廊下の前に立つ。 錆びたプレートには「立入禁止」とある。 だがドアの隙間から、光が細く漏れている。 凛子は一瞬迷ってから、ノックをした。 返事はない。 静寂の中に、自分の鼓動がはっきりと聞こえた。


 ドアノブをそっと回す。 中には、誰もいなかった。 古い木製の机の上に、一冊のノートと紙コップがある。 ノートの表紙には、『貸出記録 1999』と書かれていた。 ページを開くと、年月を超えた筆跡が並び、その最後の行に短い一文。


まだここに、声が残っています。


ノートの紙は、触れると少し柔らかかった。年月を吸い込んだ繊維は、指先の熱でわずかに沈み、ゆっくり元へ戻る。凛子は最後の一行――『まだここに、声が残っています。』の余白を眺めた。ラインの右端に、コーヒーの薄い輪がかすれている。誰かがここで、飲みながら書いたのだろう。


 部屋の空気は乾いていて、紙をめくるたびに、軽い擦過音が立った。壁の時計は止まっている。窓は曇りガラス、屋外の気配はほとんど伝わって来ない。耳を澄ますと、遠い廊下で誰かが咳払いをひとつ。世界の音は、ここへ届く前に柔らかくなって、輪郭を失う。


 ノートの前に置かれた紙コップの縁を、指でなぞる。乾いた輪は、もう取れない。輪は、在ったことの印のようで、在ることの邪魔ではなかった。凛子は一度息を細く吐いて、ノートを閉じた。ドアの内側に小さく「施錠を忘れずに」と手書きされている。鍵は壊れかけていて、閉めても完全には掛からない。けれどそれでいいのだと思えた。この部屋は、少しだけ世界の余白であるべきだ。


 カウンターへ戻ると、午前の光がすっかり館内へ回り込んでいた。入口の新聞スタンドには、今日の日付が並んでいる。視線の高さに、先ほどの詩集を置く。メモは挟んだまま、背表紙をそっと撫でる。紙の上で輪が増えていくように、言葉の跡も、読まれるたびに薄く重なっていくのだろう。


 やがて、若い母親が幼い子を連れて入って来た。子どもは小さな靴で床をとん、とん、と鳴らす。母は指を唇に当てるでもなく、ただ視線を下げて微笑んだ。静けさは守られるのではなく、分け合われるのだと、凛子は思う。カウンターの引き出しから、小さな丸いシールを取り出し、返却ワゴンの縁に貼る。目立たない色で、手書きの小さな文字。


見つけた言葉を、そっとここへ。


 指示ではなく、合図。誰も来なくてもいい。誰かが来たら、それもいい。ワゴンの横に小さなコルク板を立て、ピンを二つだけ挿しておく。


 昼を過ぎて、常連の老人がまた現れた。今度は本ではなく、封筒でもない。薄いノートを小脇に抱え、カウンターに置く。

「昔、ここに“自由帳”があったでしょう。覚えていますか」

「絵本コーナーの?」

「ええ。子どもたちが描いて、大人がたまに書くやつ」

 老人は笑って、ノートを開いた。中には、色鉛筆の線や、幼い字が散っている。最後のページは白紙だった。老人はボールペンを借り、ゆっくりと書く。


コーヒーの輪は、時間の輪です。


 書き終えると、満足そうに頷いて、閲覧席へ行った。凛子はページを閉じ、ノートの背を撫でる。自由帳――忘れていた記憶の手触りが、掌に蘇る。ページの縁は丸く、角はやわらかい。人の手がよく触れたものは、自然とやさしくなるのだと知る。


 午後の一時、館内に低い風が通った。誰かが入口ドアをゆっくり開け、閉じたのだ。風は新聞の角を一枚だけめくり、すぐに落ち着く。凛子はその風の名残りを胸に吸い、吐いた。呼吸は、ここでもページをめくる動作に似ている。急がない。音を立てない。けれど確かに前へ進む。


 返却台に、一冊のハードカバーが置かれていた。帯のない小説。栞代わりに、薄い紙ナプキンが挟まっている。取り出すと、そこにも輪。輪の内側に、鉛筆で淡い一文が書かれていた。


最後の章で泣かなかった人へ。


 それだけ。挑むでも、慰めるでもない。誰かの心の位置をそっと確認するだけの言葉。凛子は紙をいちど光に透かし、返却ワゴンのコルク板に留めた。ピンを押す指先に、また小さな空気の音がする。紙はゆっくりと場に馴染み、周囲の色を吸って静まった。


 やがて、小さな足音が近づいてきて、さっきの子どもがコルク板の前に立った。指で、貼られた紙の端をつつく。母親が「そっとね」と囁く。子どもはうなずかず、代わりに同じ高さで息をする。紙の角がふるえ、ひとつ、音をたてて止まった。


 閉館の一時間前、細い雨が降り出した。曇りガラスの向こうで、水の粒が斜めに走る。閲覧席の人々は誰も顔を上げない。ページをめくる音は変わらない。雨の音も、ここへ届くと少し丸くなる。凛子は受付の下から紙コップを二つ取り出し、給湯の湯で温めた水を少し入れた。湯気がほんのわずかに立ち、空中で消える。カウンターの脇に置いて、メモを添える。


ここでは、温かいのは音だけ。


 言葉は、言い過ぎだろうか。迷いながらも、そのままにする。読み手がいなければ、ただの紙。読み手がいれば、そのときだけ手紙になる。


 旧資料室の鍵を確かめに行く。廊下の突き当たり、ドアの前で立ち止まる。内側から、紙の擦れるような気配がする――気がした。耳を当てるほどのことでもない。ノブに触れ、そっと押すと、予想どおり鍵は掛かっていなかった。中は静かで、誰もいない。机の上、ノートの脇に、小さな丸い輪が一つ増えていた。さっき置いた紙コップのものではない。温度の抜けた匂いが、微かに漂う。


 凛子はノートの最後の行の下、さらに小さな字で書き足した。


たしかに、ここに。ゆっくり残っています。


 ペン先の重さを紙に預け、息の出入りで線が細く揺れる。書き終えると胸の奥の筋がひとつゆるんだ。誰かへ向けた言葉でありながら、まず自分の内側を通っていく。図書館の音は、ほんとうに心臓の音に似ているのだと思う。


 部屋を出て鍵を戻す。今度は鍵がすっと収まった。閉まったかどうか、確かめる必要はあまりない。ひとつの輪は、次の輪へ渡っていく。外では、雨脚が少しだけ強くなっていた。館内の空気は変わらない。凛子は胸の前で両手を重ね、ひとつ深く、静かな欠伸をした。誰にも見られない場所で出たその欠伸は、紙の上に残らないけれど、たしかに今日のどこかをやわらかくした。


雨は夜まで降り続いた。閉館時間を知らせるチャイムが小さく鳴る。凛子はカウンターのライトをひとつずつ消していく。蛍光灯の音が止むたびに、部屋の空気が静かに沈んでいくようだった。


 返却棚には数冊の本が残っている。その中に、あの詩集があった。表紙の端が少しだけ波打っている。開いてみると、挟んでおいたコーヒーの輪染みのメモがなくなっていた。かわりに、同じ場所に新しい紙が差し込まれている。


この輪の内側で、少しだけ休みました。


 字は細く、揺れている。けれど、確かに人の体温が残っていた。誰かがこの詩集を開き、輪の跡の上で息をしていた。読まれたということが、それだけで充分だと思えた。


 凛子はページを閉じて、本を棚に戻した。指先に残った紙の感触をそのまま胸の前で合わせ、しばらく動かない。雨音が遠くから広がってくる。屋根を打つ音と、排気口の低い唸りが重なり合い、まるでどこかで心臓が鳴っているようだった。


 閉館処理を終えると、玄関の自動ドアを半分だけ開けて、外の雨の匂いを吸い込む。湿った風が頬をなで、傘を差すほどでもない細い雨粒が髪に落ちた。ポケットの中の鍵が冷たい。旧資料室のことを思い出す。もう確かめる必要はない。声が残っているなら、それは誰かの中で静かに続いている。


 階段を降りるとき、壁の掲示板が目に入った。利用者メモのひとつに、知らない筆跡でこう書かれていた。


誰かが置いたカップの跡が、今日の始まりでした。


 それを読んだ瞬間、凛子の口の中で小さな息がもれた。笑ったのか、ため息なのか自分でもわからない。ただ、その呼気の温度だけが確かだった。外に出ると、街灯の下で雨が糸のように光っている。傘を開かず、そのまま歩き出した。靴底の音が、濡れたアスファルトを軽く叩く。音のひとつひとつが、まるでページを閉じる音のように響く。


 信号の前で立ち止まり、深呼吸をした。青になる前に、空を見上げる。雲の切れ間に、淡い月が浮かんでいた。完全には見えない、けれど確かにそこにある光。その輪郭を見つめながら、凛子は小さく呟いた。

「ありがとう。」

 誰に向けた言葉かは分からない。それでも、口に出した瞬間、胸の奥の糸がすっとほどけた。風が頬を抜けていく。信号が青に変わり、足が自然に前へ出る。歩き出す音が、雨の音と混じって遠くへ消えた。


 図書館の窓にはまだ明かりが一つだけ残っていた。誰かが閉め忘れたのか、それとも、まだ読んでいる人がいるのか。凛子は振り返らずに、ただ背中でその光を感じた。 言葉は紙の上だけではなく、息の中にも残る。誰かが呼吸をするたびに、少しだけ続いていく。雨の夜は、それを聞くためにあるのかもしれない。

ページの間に残る輪染みを、最初に見たときの記憶を思い出していた。誰かが手を伸ばした瞬間の温度、こぼれたコーヒーの香り、乾いていくまでの沈黙。どれもが、言葉よりも長く残る“跡”だった。


 この物語の中で凛子が見つけたものは、たぶん“消えない沈黙”だ。人は話さなくても、何かを残していく。その残り方が輪のように重なって、誰かの心に印をつける。書くことも読むことも、結局はその輪を少しずつ広げていく行為なのだと思う。


 もし、あなたがどこかで古い本を開いて、ページの間に見知らぬ紙片を見つけたなら――それはきっと、遠い誰かの呼吸の跡。 どうか、静かにその輪の中で、ひと休みしてほしい。

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