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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
風の届く距離 ― 五つの手紙の連なり ―

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コンビニの角の手紙   

夜更けの蛍光灯は、昼間ほど人を急がせない。ゆっくりと白い光が床を洗い、棚に並ぶ色の列を静かに整える。深夜の店には、予定表も、正解も、拍手もない。ただ「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」の間に、ひと呼吸分の余白がある。


この話は、その余白の手触りについての短い手紙だ。誰かに褒められるためではなく、叱られないためでもなく、ただ一日のどこかで少しだけ力が抜ける。その小さな“ゆるみ”の行き先を、そっと確かめる物語。

午前二時を過ぎると、レジの音がゆっくりになる。ビニール袋を開く指先の癖、スキャナの赤い線、揚げ物ケースの保温のぬるい風。そのすべてが、麻耶には馴染みのリズムだった。


 深夜のコンビニは舞台みたいだ、と最初に思ったのはいつだったろう。常連のタクシー運転手がペットボトルのお茶を二本、無言で置く。新聞配達の青年は、ホットスナックを指でさしてから小さく会釈していく。言葉は必要最低限だが、視線や足取りに、その夜の天気が映る。


「いらっしゃいませ」

 麻耶は少し低めの声を意識して出す。高すぎると声が先に行ってしまう。低すぎると眠りを破る。耳と胸のあいだを通るくらいの高さに落とすのが、深夜の合図だった。


 酔客のグループが帰ったあと、店はすっと静まった。コーヒーマシンがぽとりと最後の一滴を落とし、外の自販機が小さく唸る。ドアの上のセンサーが、誰もいないのに一度だけ空振りで点滅した。


 レジの引き出しを指で押し込み、カウンターの角を布で拭いていると、透明なアクリル板の脚元に小さな紙が挟まっているのに気づいた。レシートほどの幅、角がわずかに丸いメモ用紙。拾い上げると、ボールペンの細い字で一行だけ書かれている。


きょうのあなたの声、やわらかかったです。


 思わず辺りを見る。誰もいない。監視カメラの赤い点が一定の速度で瞬く。メモは温度のない言葉で、手のひらの上に静かに乗っているだけだった。


 やわらかかった。そう言われて、すぐには思い当たる場面が出てこない。怒鳴られた覚えも、褒められた記憶も、あまりない。ただ、さっきホットミールを温め直して渡したとき、「熱いのでお気をつけください」を無意識に少し低くゆっくり言った気がした。たぶん、そのくらいのことだ。


 メモをポケットに入れるのはためらわれて、レジ下の引き出しにそっと滑らせた。音が立たないように。紙の縁が合板に触れて、少しだけ擦れる。


 三時前、新聞の束が届く。ビニール紐を切ると、紙とインクの匂いが広がる。見出しを追う癖は、夜勤を始めてからついた。世の中の速さと、ここに流れる時間の遅さが、新聞紙一枚で繋がるのが面白かった。


 常連の運転手が入ってきて、お茶を二本。会計のとき、ふいに言った。

「今日、声違いますね」

「そうですか?」

「眠そうじゃない。落ち着いてる」

 運転手はそれだけ言って、小銭をぴたりと置いて出ていった。ドアチャイムが小さく鳴る。


 違うらしい。自分ではわからない変化が、外側の耳には届いている。カウンターの角に指を置くと、メラミンの冷たさが少し鈍い。さっきのメモのことを思い出す。やわらかかったです。過去形。たしかに、あの一瞬だけは、声が肩の力を抜いていたのかもしれない。


 揚げ物ケースの保温を一段下げる。油の匂いが薄まる。代わりに、パン棚の甘い香りが前に出てきた。店の空気がわずかに変わるのがわかる。そういえば、夜勤を始めたばかりの頃、先輩に言われた。「匂いの重さを調整できると、みんなちょっと楽になるよ」。当時は意味がわからなかったが、今はわかる気がする。匂いも声も、空気の厚みに関わっている。


 ドアが開き、細身の女性客が入ってきた。小さな紙袋を握っている。棚を迷うことなく進み、レジ前で立ち止まった。

「これ、忘れものですか?」

 差し出されたのは、薄い灰色のスカーフだった。レジ横のフックから落ちたのかもしれない。

「ありがとうございます。お預かりします」

 受け取ると、布は冷えていた。肌に触れると、温度が移る。女性は会釈だけして、何も買わずに出ていった。ドアチャイムの音が、いつもより長く尾を引いた。


 四時を過ぎると、空の色が変わり始める。東のほうが、濃い藍から薄い灰へ。新聞の補充を終えて、カウンターに戻る。引き出しを引くと、さっきのメモがそこにある。もう一度読む。やわらかかったです。言葉が、体の内側を通っていく感じがする。外から貼られるラベルではなく、内側から水が滲み出すような、感覚。


 メモの裏は白紙だった。そこにボールペンで小さく日時を書く。日付と、シフトの時間帯。店の名前まで書こうとしたけれど、やめた。ただの印にしておきたかった。


 店の角、雑誌棚のいちばん下に、目立たないコルクボードがある。地域の掲示や、落し物の知らせを留める場所。今は古いライブのフライヤーと、英会話の紙が一枚。空いている端に、メモをピンで留めた。誰の視線にも引っかからない高さ。けれど、掃除のたびに自分には見える場所。


 ピンを押し込む指に、段ボールの感触が伝わる。コルクの内側に空気がひとつつぶれて、静かに閉じ込められる音がした。留めてから少し離れて見ると、メモはまっすぐではなく、ほんの気持ち傾いていた。直さず、そのままにする。傾きは、ここに流れている夜の角度に合っている気がしたから。


 外は、もう朝の色だ。自転車のブレーキ音、新聞配達の戻る足音、信号の切り替わる間。店のガラスが薄く白み、棚の色がやわらぐ。麻耶は深く吸って、ゆっくり吐いた。声帯のあたりが、ぬるい水のようにほどける。


「いらっしゃいませ」

 早朝の第一声は、夜より少し明るい。それでも、どこかに柔らかさの余韻が残る。言葉は客に届いたかどうかではなく、自分の胸を通過したかどうかでわかるのだと、今は思う。


 そして、何も起きないまま、朝が来る。いい朝だ。


六時を過ぎると、店内の光が同じ明るさのままなのに、空の方が勝手に明るくなっていく。蛍光灯の白が、朝の色に軽く押されて、少しだけやわらぐ。麻耶はレジ脇の小さな鉢植えに霧吹きをした。葉の縁に丸い水玉が乗って、照明をぼんやり返す。


 パンの納品が届く。段ボールの耳を折って、棚へ移す。ビニールの皺がさらさら鳴る。袋越しにも、バターの匂いはよくわかる。棚を埋め終えると、いつもの位置に立つ。カウンターの角。昨夜からそこが少しだけ自分の居場所のように思えるのは、引き出しにしまったメモのせいかもしれない。


 学生らしい男の子が入ってきて、牛乳一本と、三色パンを持ってくる。会計の間、視線が揚げ物ケースに泳いでいる。

「揚げたては、もう少しあとです」

 そう告げると、彼はほっとしたように笑って、首を振った。

「いえ、今日はこれで。……あの、声、ききやすいですね」

 唐突な一言に、うまく返せない。レジの表示に視線を落としながら、短くありがとうございますとだけ言う。彼は領収書を受け取ると、出て行く前に揚げ物ケースをちらりと見て、ドアチャイムを鳴らした。


 しばらくして、スーツ姿の女性が来店する。手には書類の入ったクリアファイル。コピー機の操作が覚束ないのか、何度も硬貨を入れては立ち止まる。麻耶がそっと近づいて、画面の『両面→片面』のボタンを指し示す。

「ここを押すと、片面にできます」

「助かります……急いでいて」

「大丈夫です」

 言いながら、自分でも不思議なくらい肩の力が入らない。女性は礼を言って、印刷を抱えて走るように出ていった。チャイムの音に、店の空気が一拍、空白を作る。


 カウンターに戻り、引き出しを開けてメモを見る。『きょうのあなたの声、やわらかかったです。』過去形のまま、そこにある。裏に書いた日付を指でなぞると、インクの軽いざらつきが触覚に残る。しまい直して、引き出しを静かに閉めた。


 七時。コーヒーマシンの水を替えて、ドリップをひとつ落とす。紙コップに立ちのぼる湯気は、朝の空気に薄く溶けていく。レジ横のフックに置いた灰色のスカーフの冷たさは、少し和らいでいた。忘れた人が取りに来るだろうか。来なくてもいい気もするし、来てほしい気もする。間のある願いは、どちらにも傾かない。


 店の角のコルクボードに目をやる。昨夜留めたメモの左隣に、いつの間にか小さな紙切れが増えていた。名刺の裏に、細い字で一言。


コーヒーの香り、朝は薄いのがすき。


 誰が書いたのだろう。思い当たる顔がいくつか浮かんでは消える。麻耶は掲示の端を指で整え、メモの傾きはそのままにしておいた。傾いているからこそ、そこに空気が通る気がする。


 配送トラックが止まり、ジュースのケースが運び込まれる。台車のゴム車輪が床の目地で小さく跳ねる音。ドアが開いたままになり、外の風が低く流れ込む。風は店内の匂いを少し入れ替える。油の温度が一度下がって、パンの甘さがまた勝つ。


 シフト表には、今日の相方の名前。いつもより開始が遅れている。電話が鳴る。

「すみません、電車が……」

「大丈夫。気をつけて」

 切ったあと、深呼吸をひとつ。独りの時間は少し長くなるが、嫌ではない。音が少ないほど、声の出し方が自分に返ってくるのがわかるから。


 常連のタクシー運転手が、お茶を二本、今日も無言で置く。会計が終わると、彼は視線をコルクボードのほうへ滑らせ、目を細めた。

「貼ったの、あなた?」

「……拾ったので、ここに」

「いいと思うよ」

 短いやりとり。彼は財布を仕舞う手を止めずに、小さく頷いた。それだけで、ボードに留まっている紙片たちが、すこしだけ居場所を与えられたように見える。


 八時前、制服姿の女の子が、店の前で立ち止まった。外のガラス越しに、こちらを見ている。やがてドアを開け、まっすぐレジへ来た。

「すみません、昨日ここに……」

 言いかけて、視線がフックの灰色のスカーフに留まる。

「これ……」

「お預かりしています。お客様のですか?」

 彼女は何度も頷いた。スカーフを受け取る指先が、少し震えている。

「ありがとう、ございます」

「よかったです」

 それ以上、言葉は増えない。代わりに、彼女の頬がほんの少し緩む。スカーフが肩に戻ると、布は持ち主の温度を思い出すのか、色がひとつ深く見えた。


 彼女が出ていくと、カウンターの奥で冷蔵庫が短く唸った。静けさの背骨が一本通る。麻耶はコーヒーマシンの上の表示を拭き、紙コップを二つだけ余分に出しておく。誰のためでもなく、たぶん自分のために。


 九時の時報が、遠くのラジオから遅れて届いた。相方が息を切らして入って来る。エプロンを付けながら「遅れてすみません」と笑うので、「大丈夫」とだけ返す。朝の混み合いに備えて、パン棚をもう一度見直す。角のコルクボードは視界の端にある。そこに留められたメモは、さっきよりもさらに周囲の色になじんでいた。


 レジに立つ位置を、半歩だけ変える。声を出す高さが少しだけ定まり、息が胸の真ん中で整う。深夜の合図と朝の合図は違うけれど、どちらも同じところを通っていくと、今は分かる。


 「いらっしゃいませ」を三回、「ありがとうございました」を五回。数えることに意味はないけれど、リズムを見るにはちょうどいい。間で、ふと引き出しのメモの存在を思い出す。過去形の一文が、今日も自分の内側で現在形に変わったような気がした。やわらかい、です――と。


 しばらく客足が途切れ、ドアのガラス越しに、交差点の赤が見える。信号待ちの人たちが、みな肩の位置をそれぞれの高さに保っている。誰かがあくびをして、隣の人がつられて笑う。ここからは音は聞こえない。ただ、肩の上下だけが伝わってくる。


 麻耶は息を吸って、ゆっくり吐いた。それだけで、店の空気がほんの少し動いた気がした。声を出さずに、胸の中で一度だけ言う。

 ――いらっしゃいませ。

 誰も入ってこない。けれど、その言葉は確かに自分の胸を通過した。通過したものは、やさしくなる。そんな気がする朝だった。


昼の明るさが街をすっかり塗り替えていた。コンビニのガラス戸は、太陽の角度に合わせてゆるやかに光を反射している。麻耶はシフトの終わりを告げる引き継ぎノートを書きながら、ペン先の音の小ささに耳を澄ませた。外では、自転車が行き過ぎるたびに影が横切る。


 九時を過ぎると、店内の空気がゆっくり変わっていく。夜の名残の油の匂いが薄れ、昼の光が棚の奥まで届く。商品たちは、まるで目を覚ましたように見えた。麻耶はレジ脇の鉢植えを少し動かし、窓辺に置いた。葉の縁に朝の名残の水滴がまだ光っていた。


 相方が「休憩、行ってきます」と言って裏へ消える。店に一人になると、音の粒が細かく浮かび上がる。冷蔵庫の低い唸り、レジの液晶の呼吸のような点滅、外のバイクの遠ざかる音。全部が繋がって、まるでひとつの長い息のようだった。


 カウンターの角、昨夜と同じ場所に立つ。視界の端には、掲示板のメモが見える。『きょうのあなたの声、やわらかかったです。』その横に、『コーヒーの香り、朝は薄いのがすき。』二枚の紙が、冷たい空調の風にかすかに揺れていた。


 麻耶はレジ下の引き出しを開け、昨日のメモを取り出した。端が少し丸まって、文字のインクが薄く光る。もう返す必要はない気がした。ただ、もう一度読みたくなった。


 やわらかかったです。 その言葉の響きが、店の奥の空気と重なったような気がした。誰が書いたのか、もうどうでもよかった。読んだ瞬間に、声の奥が少しだけゆるむ。それで十分だった。


 小さな付箋を取り出し、ボールペンで一文を書いた。


あなたの声も、きっとそうでした。


 裏返して、昨日のメモの裏に重ねるように貼る。色の違う紙が二枚、光を受けて少し透ける。カウンターの上に置き、指でそっとなぞると、筆圧の跡が指先に伝わる。


 ドアが開いて、冷たい風が入ってきた。外回りの営業らしい男性が、汗の滲んだシャツのまま入ってくる。缶コーヒーを一本だけ買い、財布からちょうどの小銭を出す。受け渡しのとき、麻耶はゆっくりと言った。

「ありがとうございます。暑いですね。」

 男性はうなずき、ふっと笑って出ていった。ドアチャイムの音が、いつもより丸い。


 ふと、胸の奥が温かい。メモに書かれていたやわらかさは、言葉そのものよりも、こういう瞬間のためにあったのかもしれない。言葉はそのまま残り、行為の中で少しずつ溶けていく。


 相方が戻り、引き継ぎの準備をする。「助かりました」と声を掛けられ、麻耶は軽く頷く。交代を終えると、バックヤードでエプロンを外した。ポケットの中には、あのメモの角が少し折れて残っている。店を出て、外の光に目を細める。風が頬を撫でた。


 通りの角、看板の影の下に、街の掲示板がある。地域の案内や迷い猫の貼り紙が並んでいる。その一番下の端に、昨夜自分が留めたメモの複製を貼ってみた。『きょうのあなたの声、やわらかかったです。』と、その下に小さく『あなたの声も、きっとそうでした。』


 風が吹いて、紙の角が揺れる。朝の光が紙を透かして、裏の文字がかすかに浮かび上がった。人が通り過ぎても、誰も気づかない。けれど、風だけは読んでいくようだった。紙の隙間を通るたびに、わずかな音がした。


 麻耶は立ち止まって、少しだけ背伸びをした。背中が鳴る。欠伸が出る。眠いわけではないのに、呼吸がやわらかく広がった。手のひらをポケットに戻し、歩き出す。


 街は昼の音を増やしていく。信号が変わる。車が走る。遠くの子どもが笑う。その全部が混じって、また一つのリズムになる。麻耶の歩幅も、それに重なって自然に整った。


 角を曲がると、風鈴の音がした。誰の家のものかもわからない。けれどその音は、昨夜のメモの言葉と同じ高さで鳴っていた。やわらかい音。声と風のあいだで、世界はほんの少し軽くなった気がした。

 この話を書いているとき、店の蛍光灯の下に立つ人たちの「」のようなものを思い出していた。会話のない時間、声を出す前の一瞬、そのわずかな揺れの中に、確かなぬくもりがある。


 “やわらかい声”という言葉は、誰かに届くための形ではなく、まず自分を通り抜けていく音だと思う。深夜のコンビニで、ひとり声を出す人たちの世界に、少しでも風が通るように。 それだけで、この手紙はもう、十分に届いている。

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