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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
風の届く距離 ― 五つの手紙の連なり ―

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あくびの手紙

たぶん、世界のどこかで、いまも誰かがあくびをしている。

それは退屈の印でも、怠けの証でもない。

息を吸って、ゆっくり吐き出す――それだけの行為が、

誰かを生かしているように思うことがある。


この物語は、そんな“抜けていく瞬間”についての話だ。

何かを掴むより、手を離すほうが大事なときがある。

ふっと力を抜くと、やっと風が通る。

その風の届く距離で、少しだけやさしくなれる気がする。


だからこれは、手紙の話でもあり、

あくびのような物語でもある。

会社を辞めてから三週間が経った。

 浩司は、朝の時間をどう扱っていいのか、まだ掴めずにいた。

 目覚ましが鳴らない朝というのは、思っていたより静かだ。時計の針の音がやけに大きくて、部屋が自分の呼吸を反響させているように感じる。


 カーテンの隙間から差し込む光は、もう出勤時間を過ぎている。

 だが、その事実に焦る必要もない。

 ただ、起きて、洗顔して、インスタントコーヒーを淹れる。

 どこにも行かなくていい一日。

 そのことがまだ、うまく身体に馴染まない。


 退職の理由を説明するとき、浩司は「新しいことを探したい」と言った。

 けれど本音はもう少し曖昧だった。

 疲れたとか、飽きたとか、そういう言葉では片づけられない。

 心のどこかで、何かがちょっとずつ固まって、動かなくなっていた。


 散歩を日課にしようと決めたのは、そんな日の午後だった。

 行くあてもないまま、駅前の方へ歩いていく。

 人の流れを眺めながら、ベンチに腰を下ろすと、胸ポケットのスマホが震えた。

 友人からのLINE。――「元気してる?」

 返信しようとしたが、指が止まる。

 どう返しても、嘘になる気がした。


 ベンチの横には自販機が並んでいた。

 その下に、何かが落ちている。封筒だった。

 埃をかぶった白い封筒の表面に、丸いシールで封がしてある。

 シールには小さく手書きで、こう書かれていた。


 ――「眠たいときに読んでください」。


 誰の落とし物かもわからない。

 だが、封を切る音の軽さが、妙に心地よかった。

 中には、一枚の紙。

 そこにはたった一文だけが、ゆるい文字で書かれていた。


ちゃんと、あくびをしなさい。


 それだけだった。

 なんだこれは、と思った。

 ふざけているのか、それとも誰かの悪戯か。

 でもその言葉を目で追った瞬間、急に視界がぼやけた。

 欠伸が、自然と出た。


 喉の奥から、空気が抜けていく。

 背中の緊張がほどける。

 久しぶりに、肩の力が抜けるという感覚を思い出した。

 周りの音が少し遠のく。

 風が頬を撫でて、髪を動かした。


 誰が書いたかもわからないその言葉が、

 どこかで自分宛てのように感じられた。

 理由はなかった。

 ただ、やっと息ができた気がした。


 缶コーヒーを買って、ベンチに座ったまま、空を見た。

 青いというより、少し霞んだ白。

 春と夏の境目の、どうでもいいような空。

 何も起きていないはずなのに、胸のあたりがじんわり温かい。


 浩司は、ポケットの中で紙を折りたたみながら思った。

 ――この手紙、誰に返せばいいんだろう。

 けれど次の瞬間、返さなくてもいいか、と思った。

 この“どうでもよさ”が、今は心地よかった。

 そう思ったとき、またひとつ、大きなあくびが出た。


 駅前のベンチから立ち上がると、体のどこかで細い糸が一度だけ“たるんだ”ように思えた。大きく何かを決めたわけではない。ただ、呼吸の速度が半歩ゆるむ。それだけで、景色の輪郭が柔らかくなる。


 封筒と紙を胸ポケットに戻し、アーケードをゆっくり歩く。頭上では古い扇風機がくるりと回り、風が落ちてくる。急がせない風だ。店先の氷柱が溶けて水を打つ音、段ボールをたたむ音、パン屋から甘い匂い。どれも、眠気の敵にはならない。


 角の青果店で、老夫婦がトマトの並びを直していた。赤い面がきれいに正面を向くよう、指先でころりと転がす。買うつもりはなかったが、足が止まる。 「今日は暑いねえ」 「ええ、すこし、眠いです」  自分の口から出た言葉に、思わず笑った。眠い、と言ってしまえば、片付く疲れがある。ミニトマトを一袋だけ買うと、奥から妻のほうが紙片を添えてくれた。 「冷やして、あんまり考えないで食べるのがいちばん」  達筆ではない、素朴な文字。袋の赤と、同じ色味のやさしさ。


 アーケードを抜けると公園がある。砂場の縁に腰をおろし、ポケットの手紙を開いた。


ちゃんと、あくびをしなさい。  ゆるい字面に目を滑らせるたび、喉の奥がひと目盛りひらく。ブランコで小さな兄妹が交代ごっこをしている。「押して」「今度はわたし」。母親が水筒を振り、氷の音が鳴る。その澄んだ音のあとに訪れる静けさが、眠気をそっと撫でる。


 売店で水を一本買う。レジ横に「拾ったメモを貼ってください」という手書きの掲示板があった。色あせた付箋が重なり合い、角がめくれている。 「今日は雲が気持ちいい」 「洗濯は夕方でも乾く」 「おつりの十円をラッキーと思っていい」  書いた人の顔は浮かばないのに、どれも見たことのあるような言葉。貼るべきかどうか、決めないまま眺める。胸ポケットの紙が、少し重たく感じられた。


 結局、何も貼らずにベンチへ戻る。近くでは、高校生らしい二人が参考書を覗き込んでいた。ページを繰る音が、呼吸より速い。片方が大きく息を吐くと、もう片方もつられて肩を落とした。あくびは伝染するのだろう。言葉も、たぶん同じだ。


 駅から少し離れたところに、コインランドリーがあるのを思い出した。透明なドラムが一定の速度で回るのを見るのが昔から好きだった。ガラス戸を開けると、洗剤の匂いと涼しい空気。中には誰もいない。  長椅子に腰かけ、回るドラムを眺める。シャツとタオルが重なっては離れ、縁に触れては落ちる。ほぐれて、まとまって、またほぐれる。同じ動きの繰り返しは、眠りかけの頭にちょうどいい子守歌になる。


 壁のポスターの角がセロテープから外れ、斜めに落ちていた。起き上がって端を押さえ、カウンターを探ると、古い丸いシールが出てくる。迷った末に、そのシールで角を留めた。真ん中は空白のまま。言葉があってもなくても、留める行為はおなじ手触りだと思えた。


 長椅子にもどって、ひとつ欠伸をした。誰も見ていないのをいいことに、口を大きく開ける。目尻に少しだけ熱がにじむ。泣いているわけではない。体が勝手にしてくれる整頓の動作、という感じ。


 ポケットの手紙を折り直す。角が少し丸くなって、指先の脂で紙色が濃くなる。声に出さずに読む。  ――ちゃんと、あくびをしなさい。  胸の奥のどこかが、はい、と小さく返事をする。


 ランドリーを出ると、風が強まっていた。街路樹の葉が裏を見せ、信号待ちの人たちのシャツを撫でていく。隣に立った買い物カゴを提げたおばあさんが、腰を少し落として息をついた。 「重いですね」  そう声をかけると、おばあさんはうなずいて笑った。 「止まってるあいだに下ろすの、好きなんだよ。進む前に、いっぺんゆるむからね」  青になって、二人で歩きだす。会釈をひとつ。それ以上は要らない会話。


 午後の白い空に、鳥が二羽、同じ間隔で飛んでいく。ベンチへ戻り、ミニトマトを二つだけ食べた。冷たさが舌を起こし、甘さが喉の奥でほどける。紙袋の底には、青果店の小さなスタンプ。「また、あした」。いつでも明日でいい、という合図に見えた。


 スマホを取り出し、朝のメッセージへ短く返す。 『元気。眠いけど、だいじょうぶ』  送信して、画面を伏せる。届くかどうかより、いま送った事実のほうが自分にとって軽く、よかった。


 ベンチの背に頭をあずけ、空をもう一度だけ見上げる。雲の白は、さっきより少し薄い。息を吸って、吐く。耳の奥で自分の呼吸音が遠くなる。


 それで、今日は充分だと思えた。


 夕暮れが街をやわらかく染めていく。信号の赤も、店の看板の光も、昼間より少し丸い輪郭をしていた。浩司はベンチを離れ、商店街を抜ける道を歩いた。行き交う人の足音が、みんな同じリズムで響く。まるで遠くで誰かが拍をとっているようだった。


 角を曲がると、小さな公園のフェンスに紙が貼られていた。透明テープが少し黄ばんでいて、紙の端が風に揺れている。文字はにじんで読めない。だが、そのすぐ下に貼られた新しいメモに、たった一言。


> 眠たい人がいる街は、きっとやさしい。




 誰が貼ったのだろう。理由も、意味もない。ただその文に目が留まると、胸の奥で何かが静かに落ち着いた。眠たい街。そうだ、眠たいままでいいのかもしれない。無理に起きなくても、世界はちゃんと動いている。


 そのとき、ポケットの中で例の手紙が風に押されて動いた。もう何度も開いた折り目。紙は少し柔らかくなり、自分の体温が染みこんでいるように思えた。浩司は迷ったあと、メモの下にそれを貼った。テープを借りて、指で端をなぞる。風が吹くと、紙がかすかに波打った。


 通りを渡ると、パン屋から焼きたての匂いが漂ってきた。無意識に立ち止まり、クロワッサンを一つ買う。袋を受け取るとき、店員が小さく言った。 「今日、空き巣雲がきれいですよ」 「空き巣雲?」 「ほら、夕方の空に細く線が残るでしょう。あれがそう呼ばれてるんです」


 店を出て見上げると、薄い雲が長く尾を引いていた。空き巣雲――誰かが出て行ったあとに残る隙間。けれど、その隙間があるから風が通るのだろう。浩司はクロワッサンを半分齧りながら、空を見ていた。


 商店街を抜けた先に、小さな郵便ポストがあった。ほとんど使われていないのか、赤い塗装がすこし剥げている。ポケットから小さな紙片を取り出した。そこには、朝の返事を書いた後にもう一度だけ書き足した短い文。


> あくびをしたら、少し元気になりました。




 切手も宛先もない。でも、入れてみようと思った。投函口の金属音が、思っていたより軽かった。ポストの中でその紙がどうなるのか、考えないまま歩き出す。通りの向こうで風が吹き、枝の影が地面をすべった。


 帰り道、ビルの窓に映る自分の姿が見えた。特別な変化はない。けれどどこか、少しだけ肩が下がっている気がする。夜風が背中を撫で、ポケットの底で空の封筒が擦れた。


 マンションの階段を上りながら、ふと思った。誰かがこの手紙を拾って読んでくれるかもしれない。あるいは誰の目にも触れず、風に混じって消えるかもしれない。どちらでも構わなかった。大事なのは、いまこの瞬間、あくびをひとつして、体の奥に小さな空白を作れたこと。それがきっと、手紙の答えだった。


 部屋の灯りをつけず、窓を開けた。街のざわめきが遠くで波のように寄せてくる。机の上に置いた空のマグカップが、冷たい光をうっすら反射している。浩司はカーテンの影で、もう一度だけ息を吸い、長く吐いた。欠伸が出る。目が少し潤んで、背筋が伸びる。

 それでいい。

 それで、今日はおしまい。




 「あくびをしなさい」という言葉を最初に思いついたとき、それは注意でも忠告でもなく、ただの“やさしい合図”のように感じた。誰かがどこかで、ほんの少し力を抜いてほしいと思ったとき、こんなふうに一言の手紙を置いていくのかもしれない。


 物語の中の浩司も、読んでいるあなたも、何かを頑張りすぎた後に、ふっと息を抜ける時間が訪れますように。

 そして、そのときに誰の言葉でもない小さな声が聞こえたなら――それが、この手紙の届いた証です。

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