千星への手紙
この手紙は、ある人から託された言葉を、私がそのままの温度で書き写した記録です。差出人の名は要りません。宛名だけが、はっきりしています――「千星」。
その人は言いました。直接は照れくさくて、まだ渡せない。けれど、11月23日という日に近づくたび、胸の奥で確かに灯が大きくなるのだと。だから、いまはここに残しておきたい、と。
私は代筆者として、ただ事実だけを整えます。2015年11月23日、千星が生まれたこと。あの日のことを思い出すたび、誰かの呼吸が静かに整っていくこと。そして、この手紙は、渡されるかどうかを問わずに、ここに書き留められるべきであること。
物語ではなく、記録です。けれど、その奥には、目には見えない親子の愛が確かに存在しています。私はそれを、証人として書き残します。
千星へ。
これを読んでいるあなたが、何歳の千星なのかは、わからない。10歳の朝かもしれないし、もっと先の、夜の窓辺かもしれない。たぶん、私はその場にいない。けれど、あなたの時間に、そっと触れさせてもらえるなら、それだけで十分だと思う。
2015年11月23日。雲の切れ間から差し込む白い光のなかで、あなたは産声を上げた。誰かが小さく笑い、誰かが静かに涙をぬぐい、誰かが「大丈夫」と何度も言った。私が覚えているのは、窓の縁に反射した光が、まだ言葉を持たない呼吸に似ていたこと。あれから幾度も季節が変わり、あなたのまばたきは確かな意味を持つようになっていった。
私には、あなたの全てを知る資格はない。知らない日々の方がきっと多い。だけど、知らないということは、そこに何もなかったという意味じゃない。私は、その空白に、あなたが笑っていたかもしれない時間を想像する。靴ひもがほどけて立ち止まった横顔、鉛筆の芯をそっと削った音、うまくいかなくて唇をかんだ午後。そういう小さな瞬間の集まりが、あなたの今日を作っていると信じたい。
寝言の中で誰かの名を呼ぶことがあるね。そのときの口元は、夢の中でも少し困っているようで、少し笑おうとしているように見える。笑顔が少し苦手なのは、きっと幼いながらにたくさんのつらいことを知ってしまったからだろう。転んでは膝をケガして泣いていた。その涙の跡をなぞるように、時間だけがそっと撫でていった。心配しても、本当のことは話してくれない。でも、それでいいと思う。言えないことを抱えながら、それでも「行ってきます」とハグをしてくれる朝がある。掌で交わすタッチ。寝転がって足の裏を合わせる、あの小さな儀式。それだけで、日々の終わりと始まりが確かにつながっていることがわかる。
学校から帰っては、すぐ友達と遊びに出かける。「いってらっしゃい」と声をかけるたび、靴音の代わりにキックボードの軽いタイヤの音が弾んで遠ざかる。自転車にはまだ乗れないけれど、風を切る速さはもう覚えている。約束の門限はよく破るけれど、友達と仲良く笑えているなら、それでいい。ほんとうは、できるだけ早く帰ってきてほしいけどね。遠くで聞こえる笑い声を、窓越しに想像しながら、心の中でそっと数を数える。
あなたは寝るのが少し遅い。十時にはよい子はもう寝てる時間だよ。十一時には、悪い子だって夢の中。けれど、早く寝ろとは言わない。眠る時間を惜しむほど、今日を大切にしている証拠だから。それでも、明日の朝が少しやさしく始まるように、ときどきだけは、時計を見てみてね。
一緒に遊ぶ時間が、少しずつ減っていく。それは、きっと私のせいの部分もある。けれど、あなたの中に“生活のリズム”ができてきた証でもあるね。その世界の中で笑っているなら、それでいい。離れていくことと、成長していくことは、きっと同じ形をしている。
もし、誰にも言えない悲しみがあるなら、言わなくていい。秘密は、あなたの中で呼吸を整える場所になるから。もし、すぐに忘れてしまいたい失敗があるなら、忘れていい。失敗の跡は、やがて誰かを優しくするための地図になる。もし、胸がはち切れそうな嬉しさがあるなら、胸の内側から世界を照らしてみて。光は、案外遠くまで届く。
あなたに伝えたいのは、ひとつだけ。あなたがそこにいるという事実が、誰かの一日を必ず支えている、ということ。あなたが笑えば、空気の密度が変わる。あなたが黙っていても、沈黙の形が変わる。あなたがうつむくときでさえ、世界は少しだけ優しくなり方を学ぶ。
私は、あなたの歩幅を急がせない。急いだ方がいい朝もあるし、立ち止まるしかない夕方もある。それでも、あなたの歩く速度は、あなたが決めていい。誰かが決めるものではないから。
思い出す場面がある。薄曇りの午後、角を曲がった先の道で、あなたとよく似た背中を見かけた。確信なんてなかった。けれど、その背中が振り返るたび、遠いどこかで「気をつけて」という言葉が生まれては消えていくのがわかった。届かない言葉にも、意味はある。届かないまま、見守るということが、世界には確かにある。
千星という名を、私は何度も心の中で呼ぶ。千の星、と書いて、ちせ。名前を呼ぶたびに、夜空に散らばる光が少し近くなる。数え切れない星の一つひとつに、あなたの横顔が重なる。ため息のように短い流星が落ちる夜、私はその軌跡に、あなたの笑い声をあてがう。そうやって、会えない時間をやり過ごしてきた。
あなたが誰かと笑い合い、誰かに怒り、誰かに謝り、誰かを許す。その“誰か”の中に、私はいないかもしれない。けれど、いないという事実が、すぐに「無関心」を意味するわけじゃない。遠くから見守るという形は、たしかに拙く見えるだろう。けれど、拙さの中にしか宿らない誠実もある。
10歳の季節が来るね。ケーキの上のろうそくに火をともすとき、願いごとはひとつでいい。どうか、あなたがあなたでいられますように。泣きたいときに泣けますように。笑いたいときに笑えますように。誰かのために無理をしすぎませんように。自分のために優しくできますように。
それから、もし叶うなら、言葉が必要なときに言葉が見つかりますように。言葉がいらないときに、そっと沈黙が寄り添いますように。孤独と独りは違うのだと、いつか自然に理解できますように。あなたが選ぶ道のどこかに、安心して一息つけるベンチが、必ずありますように。
私はあなたに、何ひとつ“こうすべきだ”とは言わない。代わりに、いつかあなたが自分で選んだものを、遠くから祝福する。上手にできたときも、うまくいかないときも、同じ強さで。なぜなら、うまくいかない日々の方が、あなたをやわらかくすることがあるから。
千星。あなたがまぶしい日の光の中にいるときも、雨に濡れたバス停で肩をすぼめる夕方も、机に頬杖をついて空想に泳ぐ夜も――あなたは世界に必要とされている。これは、代筆の私の言葉ではない。託されたその人の、何度も確かめた言葉だ。私にできるのは、ただ書き写すことだけ。でも、それで十分だとも思っている。
最後に、ひとつだけ。あなたの名前を呼ぶ声は、いつでもこの世界のどこかで生まれている。たとえあなたの耳に届かなくても、呼ぶこと自体が祈りになる。祈りは形を持たないけれど、影のように確かに寄り添う。目には見えない親子の愛が、たしかに存在していることを、私は記録として残しておく。
誕生日、おめでとう。あなたが次の一年も、あなたの速度で歩けますように。
そして、2025年11月23日――この日に改めて伝えます。
誕生日おめでとう。元気に育ってくれて、ありがとう。
ここに書かれた言葉は、物語ではなく、誰かから託された現実の温度です。私はただの代筆者ですが、書き終えた今、紙の上に残る熱の輪郭をはっきりと感じています。
この手紙が、いまは読まれなくても構いません。いまは渡されなくても構いません。いつか、必要なときに、静かに灯りになりますように。宛名はひとつ――千星。差出人は、ここには記されません。けれど、当事者だけがわかる本当の意味が、この手紙の奥で確かに呼吸しています




