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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
温もりの連鎖

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45/57

雨の日は、どうしてこんなにも心が沈むのでしょう。

靴が濡れるから、髪が乱れるから、寒いから──理由はいくつもあります。けれど本当は、心の中に降っている小さな雨が、外の雨に重なるからなのかもしれません。


それでも、そんな雨の日だからこそ気づける優しさがあります。

差し出された一本の傘。それは、ただの雨具ではなく、「あなたを気にかけています」という形のない手紙。


この物語は、仕事で失敗し、自信を失っていた32歳の女性・由香が、雨の午後に出会った小さな親切によって変わっていくお話です。


どうぞ静かに受け取ってください。あなたの傘の下にも、誰かの想いがきっとありますから。

朝、7時30分。加湿器の青いランプが白へと変わり、スマホのアラームが布団の向こうで震えた。美咲は枕の下に潜りかけた手を止め、深く息を吐いてから体を起こす。十一月の空気は薄く冷たく、床板に触れた足裏がきゅっと縮んだ。


洗面所の鏡には、眠っても眠らなくても変わらない顔がある。目の下の薄い影。眉間の小さな縦皺。蛇口をひねると、水は夜の冷えをそのまま運んできて、両頬を速く目覚めさせた。白いタオルで押さえるように水気をとり、下地をのせる。化粧は鎧というより、日差しのまぶしさを和らげる薄膜のようなものだ。


クローゼットから紺のジャケットを引き抜き、黒のトートにノートPCとポーチを滑り込ませる。冷蔵庫の扉を開け、昨日買ったヨーグルトにスプーンを差し込んだ。甘さは控えめで、口の中に残る酸味が喉をきれいにしていく。食べ終えてスプーンを流し、玄関のドアチェーンを外す。


ドアの蝶番が小さく鳴り、外気が頬に触れて目が覚めた。吐く息が白くほぐれる。マンションの廊下はまだ夜の影を少し残していて、遠くの道路からタイヤの水を切る音が薄く届く。エレベーターで一階へ降りると、新聞受けの金属が冷たく光った。


並木町通りに出る。街路樹は葉を半分ほど手放し、その枝が風に擦れて静かな音を立てる。マフラーを首に巻き直し、信号の青を小走りで渡る。朝はいつも、少しだけ世界の音が低い。人の足音も、車のエンジンも、どこか布に包まれているみたいに遠い。


角を曲がると、小さなカフェ「Blue Sky」のガラスが朝の色を映している。窓の内側、ミルの低い唸り。豆が挽かれる匂いは、柑橘の皮をほんの少しこすったように明るく、同時に焦げの甘さを含んでいる。ドアベルに指先をかける前から、その香りは胸の奥の、固くなったところをやわらかく撫で始めた。


ベルが鳴る。カウンターの内側で、若い店員が顔を上げた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「いつもので?」


「はい。――ぬるめで」


このやり取りにも、もう慣れた。半年。会社の最寄り駅へ向かう道すがら、ここで一杯。猫舌の自分を守るための「ぬるめ」。それは習慣であり、ささやかな自分への配慮でもある。


カウンター席の木目には、長い時間の手の油が薄く染みて艶がある。窓際の砂糖壺の角が白く反射し、ガラス越しの通りを歩く人のコートの裾がひらりと揺れる。店の奥から流れる音楽は、言葉の少ないピアノ。鍵盤が、湯気の向こうで静かに煌めいた。


スチームの音が短く強く立ち上がり、やがて収束する。カップが受け皿に触れる陶器の音が、店内の空気に輪を描いた。


「お待たせしました」


店員はいつもと同じ調子で、けれど目線の置きどころが少しだけ長い。美咲は会釈して、カップの耳に触れる。温かい。いつもの温度より、ほんの少しだけ芯がある。両手で包んで、口を近づける。蒸気が睫毛をくすぐる。ひと口。


――少し、温かい。


熱いわけじゃない。舌を焦がすほどではない。けれど、体の内側にすっと入っていく、細い熱の線がある。喉を通って、そのまま胸の奥の空洞に触れて溶けるような温度。


「あの……」


気づくと、声が出ていた。店員が、すぐにこちらを見る。


「はい」


「今日、少し温かい気がして」


彼は、申し訳なさそうでも、得意げでもなく、肩の力の抜けた笑い方をする。


「外、風が強かったので。扉が開いたときの手、冷たそうでしたから」


「あ、そうですね」


「いつもより二度だけ、温度を上げてます。猫舌は、わかります」


二度。数字は小さいのに、言葉は大きかった。美咲は唇の内側に微かに笑みをつくり、うなずく。


「ありがとうございます」


「ごゆっくりどうぞ」


彼はそれ以上なにも言わず、ケトルの蒸気に戻っていく。その背中を見送ってから、もう一口。温度は、言葉より早く届く。心臓が骨の内側から、ゆっくり広がっていくみたいだった。


窓の外を歩く人の肩が強い風に押され、コートの布がばさりと鳴る。ガラスに打つ木の影が少し震える。美咲は両手でカップを持ったまま、その影の揺れに自分の呼吸を合わせた。深く、吐く。吸う。熱が指の付け根から手首へ、そこから肘、肩、首へとじわじわ上がっていく。


「……美味しい」


声に出す必要はないけれど、声に出すことで確かになる言葉もある。美咲は周囲に届かないくらいの小ささで呟いた。ピアノの旋律が、ちょうどそこで一段高くなる。カウンターの中で店員が砂糖壺のスプーンを拭う布の動きが、音楽と合った。


ぬるめを頼む自分は、いつからだろう。思い出してみる。学生の頃、熱いものを焦らず飲みたいと思う余裕がなかった。社会人になってからも、会議室でものを飲むときは、温度よりもスピードが優先される。ぬるめは、言い換えれば「今の自分を守るための合図」だ。店員はそれを知っていて、今日はそこに二度だけ自分の判断を重ねた。


二度。その二度の違いが、カップの縁を持つ指先に、確かに存在している。紙コップじゃない陶器の厚みが、その微差を受け止めている。美咲はふと思う。もし自分も誰かの温度を、二度だけ上げたり下げたりできるとしたら。


カップはゆっくり空になり、底の丸みが現れた。受け皿に置くと、陶器が小さく鳴る。立ち上がり、会計へ向かう。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「また、お願いします」


ドアベル。外の風は相変わらず冷たい。けれど、体の内側には柔らかい膜が一枚増えたみたいに、風が直接触れてこない。美咲はマフラーを巻き直し、駅へ歩き出す。


ホームに降りると、電車がちょうど入ってくるところだった。金属の車輪がレールへ擦れる高い音。ドアが開く。乗り込んで、吊り革を握る。車内の空調の温度は少し高く、コートの襟元に汗がにじむ。吊り革の白い輪が、手の中で安定する。窓に映る自分の顔は、朝より少しだけ力が抜けて見えた。


会社のビルに着く。自動ドアの前に立ち、反射したガラスの中の自分に「おはよう」と言ってみる。言葉は口の中で小さく転がり、誰にも届かないまま消えた。けれど消えた言葉ほど、意外に残ることがある。


「おはようございます」


エントランスで清掃員の女性に挨拶する。いつもより声が前に出た。女性は一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに笑って「おはようございます」と返した。


オフィスフロア。空調の微かな唸りと、プリンターの規則的な回転音。デスクの椅子を引き、PCの電源を入れる。メールが並ぶ。件名の列はいつもより背が高く見える。でも、大丈夫。同時に全部は読めない。一つずつ。


雨は、昼の重さを引きずったまま、夕方になってもやまなかった。

由香は借りた傘を玄関に立てかけ、タオルで髪を拭きながら、ドアの内側に背を預けた。

胸の中のざわめきは、プレゼンの失敗の記憶と、駅前でもらった付箋の言葉が、細かくぶつかり合って鳴らす音だった。


〈雨の日も、笑顔で〉


メモの文字は、水気で少し波打っている。ペン先の揺れまで想像できるほどやわらかい字。

誰かが、自分のことを一瞬でも「気にかけた」証拠だ――その実感が、心に薄い膜をつくる。


温かいシャワーを浴びる。肩の力はすぐには抜けない。それでも、湯気に包まれている間だけは、世界の輪郭がやさしくなる。

鏡の前でドライヤーをかけながら、由香は小さく笑ってみせた。

頬の筋肉がぎこちなく動く。けれど、笑うことは筋肉のストレッチみたいなものだと思う。回数を重ねれば、いずれ自然になる。


翌朝。

いつもより少し早く起きた。雨は細くなり、空の色は明るい灰。

会社に着くと、上司に頭を下げた。


「昨日は申し訳ありませんでした。データの単位、私の確認不足です」


「いい。誰でも間違える。大切なのは、その後どう直すかだ」


助けられる言葉というのは、時々、謝罪よりも先に胸へ落ちる。

由香は会議室に籠り、データを頭から検証した。単位、桁、出典、更新日。ひとつ直すたび、机上の空気がすこし澄む。

お昼近く、斜め向かいの席の同期が覗き込む。


「ねえ、今日ランチ行く? 気晴らしにさ」


「……うん、行く。今日は行きたい」


小さな即答が、自分でも意外だった。

職場のビル一階のカフェで、湯気の立つスープを前に向かい合う。


「昨日の話、聞いたよ。大変だったね」


「うん。でも、帰りにね、傘を貸してくれた人がいたの」


「見知らぬ人?」


「うん。しかも、柄に付箋。『雨の日も、笑顔で』って」


同期は目を丸くして、それから肩の力が抜けるように笑った。


「いい話。そういうの、忘れたくないよね」


スープに口をつける。熱は舌を刺さない程度で、喉の奥を静かに温める。

体の内側に灯がともる。昨日の雨音が、記憶のなかでやわらかくなる。


午後。

由香は再提出のための骨子をまとめ、夕方、上司に見せにいった。


「ここ、良くなったな。数値の根拠が前より明確だ」


「ありがとうございます。来週、先方に再提案の時間をいただけないか、こちらからお願いしてみます」


「任せる。背中は押す」


短い会話。それでも、背に手が添えられる感触が残った。


退社後。

駅へ向かう足取りは、昨日より軽い。傘はバッグに入れたまま。空から落ちる粒は、もうほとんど痛くない。

改札の前で立ち止まり、昨日と同じ場所に目を向ける。


いないかもしれない。けれど、立ち止まる理由は十分にあった。


五分、十分。人の波が入れ替わる。視線を下げたとき、透明の傘の先が視界の端をかすめた。


「――あの」


声の主は、やはり昨日の男性だった。スーツの襟に雨粒。目尻に、よく笑う人の細い皺。


「昨日の傘、ありがとうございました。……ちゃんとお返ししたくて」


「やっぱり、会えた。良かった」


由香はバッグから傘を取り出し、両手で差し出す。彼は首を横に振った。


「よければ、もらってください。僕には、予備があるから」


「でも」


「代わりに、いつか誰かが困っていたら、貸してあげてください」


言葉は軽く、でも芯があった。彼の目には見返りの色がない。

由香は傘の柄を見つめ、ゆっくりとうなずいた。


「……わかりました。必ず」


「よかった」


会釈のあと、彼は続ける。


「昨日より、顔色がいいですね」


「そう、見えますか?」


「はい。多分、スープのせいです」


「なんでわかるんですか」


「雨の次の日は、スープを飲む顔になる」


冗談とも本気ともつかない言い方に、由香は笑ってしまう。笑い声は、雨粒をいくつか弾いた。


「田中といいます。出版社で編集を」


「由香です。営業をしています」


「よかったら、いつかその付箋の話、詳しく聞かせてください。メモが好きで」


「付箋、好きなんですか」


「紙の端っこに書かれた言葉は、だいたい本音だから」


その言い方に、胸のどこかが軽くなる。


電車が入ってきて、風が二人の間を抜ける。発車ベルが短く鳴った。

乗り込む前に、由香は振り返った。


「……あの、今度、お礼がしたいです。お茶でも」


田中は、少し驚いて、それから嬉しそうにうなずいた。


「喜んで。いつでも」


車内のドアが閉まる。ガラス越しに、田中が小さく手を振る。由香も振り返す。

電車が動き出し、プラットフォームの光が横へ流れていく。胸の奥に、さっき交わした約束の小さな灯りが点ったままだ。


帰宅すると、傘の柄の付箋をもう一度見た。

〈雨の日も、笑顔で〉

付箋を新しい紙に貼り替え、手帳の今日のページに移す。予定の欄はまだ白い。そこに小さく「お茶」と書き、鉛筆の先で丸をつけた。


夜、布団にもぐる前に、スマホのメモ帳を開く。

“誰かの親切は、返すより、次へ渡す”

一行だけ打って、画面を閉じた。


雨の匂いは、もう部屋の中には残っていない。代わりに、湯気と紙の匂いが、静かにとどまっていた。


翌日。

空は薄く晴れて、濡れた道路に雲が映っていた。出社すると、隣のデスクの後輩が画面の前で固まっている。

「どうしたの?」

「数式が崩れて…どこを直せばいいかわからなくて」

由香は椅子を寄せ、ひとつずつ確認していく。参照セル、桁、丸め処理。昨日、自分がやった見直しと同じ手順だ。

「ここだね。単位が混ざってる。直すなら、まず列を分けよう」

十分もしないうちに、表は整い、後輩は胸をなでおろした。

「助かりました。先輩、すごい」

「私も昨日やらかしたばかりだから、偉そうなことは言えないよ」

笑い合って、給湯室でティーバッグを二つカップに入れる。白湯の湯気が、指の間をやわらかく抜けた。

“誰かの親切を、次へ渡す”

スマホに打った一行が、湯気の上で読み上げられたように思えた。


午後の休憩、由香は付箋の写真を撮って、宛先を迷いながらメッセージを作る。

〈昨日はありがとうございました。傘、受け取りました。例のお礼、今週末はご都合どうですか〉

送信ボタンを押す指が少し震える。数分後、通知が鳴った。

〈日曜の午後なら空いています。駅前の喫茶店でどうでしょう〉

短いやりとりのあと、時間と場所が決まる。画面を閉じると、頬がふわりと熱くなった。


帰り道、交差点でベビーカーの母親が段差に苦戦しているのが見えた。

「持ちますね」

無意識に手が動いていた。前輪を持ち上げると、母親は驚いた顔で「ありがとうございます」と言った。

「いえ、すぐそこなので」

昨日の言葉が、自分の口から自然に出てくる。その自然さに、自分で驚く。

信号が変わり、人の流れが動き出す。街の灯りが早足で点り、空気は夜の匂いに切り替わっていく。

胸の中の灯りは、そのまま速度を落とさず、静かに燃え続けていた。


家に着いて手帳の「お茶」の丸に、もう一つ小さな丸を重ねる。

二重丸。ほんのすこしだけ、未来が具体になる印。

窓の外で風が鳴り、雲は流れていた。


雨は夜になるほど粒を細かくしていた。駅前のアスファルトは黒い鏡のように街灯を映し、風に押された水面が細かく震えている。由香は改札を抜け、傘の骨を軽く開閉してみた。昨日もらった透明なビニール傘。柄には、あの日の付箋の跡が小さく残っている。


――雨の日も、笑顔で。


指先でその跡をなぞると、インクのにじみの感触がまだどこかに残っている気がした。付箋は新しい持ち主の手に渡ったけれど、言葉の温度は傘の中に残る。そんな不思議を思いながら、由香は歩き出した。


会社では、ミスの後始末がまだ続いていた。謝罪のメール、修正データ、代替案の打ち合わせ。昼下がり、ふと窓の外を見ると、雨脚は少し弱まっていた。由香は深く息を吸い、椅子の背にもたれる。胸の真ん中に、見知らぬ人の声が浮かぶ。


――「濡れても大丈夫です」


あの時、差し出された言葉はいまも背骨のあたりで支えになっていた。だから、帰り道で同じように傘を差し出すことができた。恩をその人に返すのではなく、次の誰かに渡していく。行き先がわからない手紙ほど、遠くまで届くのかもしれない。


その夜、駅のホームで、由香は見覚えのある背中を見つけた。田中だった。相変わらず傘を差していない。雨粒が肩に小さな星座をつくっている。


「田中さん!」


声をかけると、彼は振り向いた。


「こんばんは。また会えましたね」


「はい。あの傘、別の人に渡しました」


「そうですか」


田中は、雨に濡れながらも嬉しそうに目を細めた。


「実は、僕も今日、別の誰かに」


「え?」


「編集部の後輩が、原稿で行き詰まっていて。締切の雨に打たれてるみたいな顔でね。だから、昔もらった言葉を渡しました。“最初の一段落だけでいい。そこまで一緒に考える”って」


「それ、素敵ですね」


「傘を貸すみたいなものです。道のり全部は守れないけど、駅までの数分なら寄り添える」


電車が来る。開いたドアから、冷たい車内の空気が漏れてきた。


「乗りましょう」


並んで立つ。吊り革にぶら下がる雨粒が、照明の光を集めている。田中はハンカチで眼鏡を軽く拭き、笑った。


「ところで、その傘。今日は使わないの?」


由香は少し迷って、首を振った。


「今日は、濡れても大丈夫な気がして」


電車が揺れる。二人は笑い合った。言葉は少ないのに、胸の中には長い対話が続いている。


翌日、雨は上がった。雲の切れ目から薄い陽がのぞく。由香は早めに出社し、前日の修正案にさらに手を入れた。数字の根拠、比較表、相手企業の課題整理。昼までに骨組みが見え、午後には簡単なサンプルを作った。上司は驚いた顔で資料をめくり、最後にうなずく。


「由香、よくやった。これで再提案の場をもらえるぞ」


「ありがとうございます」


言いながら、由香は胸の奥で小さく頷いた。いただいた傘は、一度雨宿りをさせてくれた。けれどその役目は、もう次の誰かへ渡っている。自分の手には、すでに別の形の傘がある。言葉でできた、小さな透明の屋根。


夜、書店に立ち寄る。湿った紙の匂いが、まだ雨の余韻を連れてくる。新刊棚の端で立ち読みしていると、肩を軽く叩かれた。田中だ。


「よく会いますね」


「好きな場所が似てるのかもしれません」


言葉を交わすうち、田中がふと思い出したように言った。


「そうだ。今度、古本市があるんです。仕事で顔を出すので、もしよかったら」


「行きます」


由香は即答していた。驚くほど迷いがない。少し前まで、誰かに会う約束をすることさえ怖かったのに。人に期待すると、がっかりすることもある。それが怖かった。けれどいま、胸の中にあるのは、がっかりすることへの覚悟ではなく、たしかに“雨の日も笑顔で”という短い祈りだった。


古本市の日は、からりと晴れた。会場のテントの間を風が通り抜け、ページをぱらぱらめくる。田中は仕事仲間に挨拶を交わしながら、由香を連れて歩いた。


「これ、いい本ですよ」


彼が差し出したのは、小さなエッセー集。ページの端に鉛筆の書き込みがある。知らない誰かの線と、知らない誰かの言葉が、時間の向こうから寄り添っている。


「付箋みたいですね」


由香が言うと、田中は笑った。


「ええ。見知らぬ読者から、見知らぬ読者への小さな手紙」


昼過ぎ、会場のはずれでフードトラックのコーヒーを買った。紙カップを受け取り、その温度に指を沈める。あの日のビニール傘の柄と、同じくらいのぬくもり。


「田中さん」


「はい」


「前に言ってましたよね。高校の時、助けられたことがあるって」


「ええ」


「今日、ようやくわかりました。あの時のあなたに傘を差した人は、たぶんいまも、どこかで誰かに傘を差してるんですね」


田中は少し驚いた顔をして、それから静かにうなずいた。


「そうだといいですね」


帰り道、由香は駅の階段で、傘を忘れて困っている中学生くらいの女の子を見かけた。空は晴れているが、遠くに灰色の雲がある。夕立が来るかもしれない。


「これ、どうぞ」


バックパックから折り畳み傘を取り出し、差し出す。女の子は遠慮がちに受け取り、何度も頭を下げた。


「明日、学校で返せばいい?」


「いえ、返さなくて大丈夫。誰かが困っていたら、その人に渡してあげて」


女の子は目を丸くし、やがて頬を赤くして笑った。


「うん。ありがとう」


足取りは軽かった。傘を一つ手放したのに、むしろ何かを受け取ったような軽さ。駅のホームから眺める空は、雲の切れ目から夕陽が射し、湿った街を橙に染めている。光は乾くより先に、まず温める。その順番が好きだ、と由香は思った。


夜。部屋に戻ると、テーブルに置いたメモパッドに一行だけ書いた。


〈雨の日も、笑顔で〉


付箋は貼らない。紙から剥がれるとき、悲しくなるから。代わりに、明日のバッグに小さな折り畳み傘を一本入れた。差し出す準備があるだけで、心は少し広くなる。


窓を叩くように、短い通り雨が来た。由香は灯りを落とし、雨音に耳を澄ませる。あの駅前で差し出された一本の傘から始まった小さな連鎖が、いま、この部屋の静けさにまで届いている。そう思うと、胸の真ん中がゆっくり温まっていった。


「ありがとう」


暗闇の中でそっと言う。声は小さいが、確かにどこかへ届く。傘の骨の一本一本みたいに、見えない線が誰かへ伸びていく。

読んでくださってありがとうございます。一本の傘は、ただの雨具かもしれません。でも、その差し出し方ひとつで、「あなたを気にかけています」という手紙に変わる。宛名のない言葉は、返礼を前提にしないぶんだけ、遠くまで歩いていきます。


由香が受け取った優しさは、女の子へ、同僚へ、そして過去の自分へと渡りました。傘の貸し借りは、一時的にしか守れない屋根かもしれない。それでも、駅までの数分、横断歩道を渡る三十秒、玄関までの十歩を一緒にくぐるだけで、人は次の一歩を出せることがある。


形のない手紙は、雨に濡れても滲まず、乾いても消えません。あなたの傘立てにも、もしかしたら一本、誰かへ渡す準備が整った傘が立っているのではないでしょうか。必要なとき、どうか迷わず差し出せますように。そして、あなた自身の頭上にも、いつか見知らぬ誰かの傘がふっと広がりますように。

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