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手紙からはじまる物語 ― 見えない糸でつながる心たち ―  作者: 草花みおん
温もりの連鎖

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コーヒーの温度

手紙は、紙に書かれるものだけではありません。言葉にならない想いが、行為や温度、呼吸の間にそっと紛れています。朝のコーヒーの香り。湯気の向こうで差し出されるカップの温度。そのわずかな違いが、疲れた心をほどき、今日という日を少しだけ生きやすくしてくれることがあります。


この物語は、そんな“形のない手紙”の一つ。何も特別じゃない人たちの、何気ない配慮が、知らない誰かの一日をそっと変えていく。小さく、でも確かに世界を温め直すお話です。

朝、7時30分。加湿器の青いランプが白へと変わり、スマホのアラームが布団の向こうで震えた。美咲は枕の下に潜りかけた手を止め、深く息を吐いてから体を起こす。十一月の空気は薄く冷たく、床板に触れた足裏がきゅっと縮んだ。


洗面所の鏡には、眠っても眠らなくても変わらない顔がある。目の下の薄い影。眉間の小さな縦皺。蛇口をひねると、水は夜の冷えをそのまま運んできて、両頬を速く目覚めさせた。白いタオルで押さえるように水気をとり、下地をのせる。化粧は鎧というより、日差しのまぶしさを和らげる薄膜のようなものだ。


クローゼットから紺のジャケットを引き抜き、黒のトートにノートPCとポーチを滑り込ませる。冷蔵庫の扉を開け、昨日買ったヨーグルトにスプーンを差し込んだ。甘さは控えめで、口の中に残る酸味が喉をきれいにしていく。食べ終えてスプーンを流し、玄関のドアチェーンを外す。


ドアの蝶番が小さく鳴り、外気が頬に触れて目が覚めた。吐く息が白くほぐれる。マンションの廊下はまだ夜の影を少し残していて、遠くの道路からタイヤの水を切る音が薄く届く。エレベーターで一階へ降りると、新聞受けの金属が冷たく光った。


並木町通りに出る。街路樹は葉を半分ほど手放し、その枝が風に擦れて静かな音を立てる。マフラーを首に巻き直し、信号の青を小走りで渡る。朝はいつも、少しだけ世界の音が低い。人の足音も、車のエンジンも、どこか布に包まれているみたいに遠い。


角を曲がると、小さなカフェ「Blue Sky」のガラスが朝の色を映している。窓の内側、ミルの低い唸り。豆が挽かれる匂いは、柑橘の皮をほんの少しこすったように明るく、同時に焦げの甘さを含んでいる。ドアベルに指先をかける前から、その香りは胸の奥の、固くなったところをやわらかく撫で始めた。


ベルが鳴る。カウンターの内側で、若い店員が顔を上げた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「いつもので?」


「はい。――ぬるめで」


このやり取りにも、もう慣れた。半年。会社の最寄り駅へ向かう道すがら、ここで一杯。猫舌の自分を守るための「ぬるめ」。それは習慣であり、ささやかな自分への配慮でもある。


カウンター席の木目には、長い時間の手の油が薄く染みて艶がある。窓際の砂糖壺の角が白く反射し、ガラス越しの通りを歩く人のコートの裾がひらりと揺れる。店の奥から流れる音楽は、言葉の少ないピアノ。鍵盤が、湯気の向こうで静かに煌めいた。


スチームの音が短く強く立ち上がり、やがて収束する。カップが受け皿に触れる陶器の音が、店内の空気に輪を描いた。


「お待たせしました」


店員はいつもと同じ調子で、けれど目線の置きどころが少しだけ長い。美咲は会釈して、カップの耳に触れる。温かい。いつもの温度より、ほんの少しだけ芯がある。両手で包んで、口を近づける。蒸気が睫毛をくすぐる。ひと口。


――少し、温かい。


熱いわけじゃない。舌を焦がすほどではない。けれど、体の内側にすっと入っていく、細い熱の線がある。喉を通って、そのまま胸の奥の空洞に触れて溶けるような温度。


「あの……」


気づくと、声が出ていた。店員が、すぐにこちらを見る。


「はい」


「今日、少し温かい気がして」


彼は、申し訳なさそうでも、得意げでもなく、肩の力の抜けた笑い方をする。


「外、風が強かったので。扉が開いたときの手、冷たそうでしたから」


「あ、そうですね」


「いつもより二度だけ、温度を上げてます。猫舌は、わかります」


二度。数字は小さいのに、言葉は大きかった。美咲は唇の内側に微かに笑みをつくり、うなずく。


「ありがとうございます」


「ごゆっくりどうぞ」


彼はそれ以上なにも言わず、ケトルの蒸気に戻っていく。その背中を見送ってから、もう一口。温度は、言葉より早く届く。心臓が骨の内側から、ゆっくり広がっていくみたいだった。


窓の外を歩く人の肩が強い風に押され、コートの布がばさりと鳴る。ガラスに打つ木の影が少し震える。美咲は両手でカップを持ったまま、その影の揺れに自分の呼吸を合わせた。深く、吐く。吸う。熱が指の付け根から手首へ、そこから肘、肩、首へとじわじわ上がっていく。


「……美味しい」


声に出す必要はないけれど、声に出すことで確かになる言葉もある。美咲は周囲に届かないくらいの小ささで呟いた。ピアノの旋律が、ちょうどそこで一段高くなる。カウンターの中で店員が砂糖壺のスプーンを拭う布の動きが、音楽と合った。


ぬるめを頼む自分は、いつからだろう。思い出してみる。学生の頃、熱いものを焦らず飲みたいと思う余裕がなかった。社会人になってからも、会議室でものを飲むときは、温度よりもスピードが優先される。ぬるめは、言い換えれば「今の自分を守るための合図」だ。店員はそれを知っていて、今日はそこに二度だけ自分の判断を重ねた。


二度。その二度の違いが、カップの縁を持つ指先に、確かに存在している。紙コップじゃない陶器の厚みが、その微差を受け止めている。美咲はふと思う。もし自分も誰かの温度を、二度だけ上げたり下げたりできるとしたら。


カップはゆっくり空になり、底の丸みが現れた。受け皿に置くと、陶器が小さく鳴る。立ち上がり、会計へ向かう。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「また、お願いします」


ドアベル。外の風は相変わらず冷たい。けれど、体の内側には柔らかい膜が一枚増えたみたいに、風が直接触れてこない。美咲はマフラーを巻き直し、駅へ歩き出す。


ホームに降りると、電車がちょうど入ってくるところだった。金属の車輪がレールへ擦れる高い音。ドアが開く。乗り込んで、吊り革を握る。車内の空調の温度は少し高く、コートの襟元に汗がにじむ。吊り革の白い輪が、手の中で安定する。窓に映る自分の顔は、朝より少しだけ力が抜けて見えた。


会社のビルに着く。自動ドアの前に立ち、反射したガラスの中の自分に「おはよう」と言ってみる。言葉は口の中で小さく転がり、誰にも届かないまま消えた。けれど消えた言葉ほど、意外に残ることがある。


「おはようございます」


エントランスで清掃員の女性に挨拶する。いつもより声が前に出た。女性は一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに笑って「おはようございます」と返した。


オフィスフロア。空調の微かな唸りと、プリンターの規則的な回転音。デスクの椅子を引き、PCの電源を入れる。メールが並ぶ。件名の列はいつもより背が高く見える。でも、大丈夫。同時に全部は読めない。一つずつ。




昼休みのチャイムが鳴る。隣の席の同僚、亜里沙が椅子をくるりと回して声をかける。


「ねえ、美咲。今日、一緒にランチ行こうよ」


「うん。行こうか」


その返事が、自分でも少し驚くほどすんなり出た。三か月前の自分なら、断っていたかもしれない。疲れを理由に、一人で過ごす昼を選んでいた。けれど今日は違う。朝のコーヒーの温度が、まだ胸のどこかで息をしていた。


二人は会社の一階にあるベーカリーでサンドイッチを買い、並木町公園へ向かった。冬枯れの木々が並ぶベンチに腰を下ろすと、風がスカートの裾を揺らした。遠くの遊具で子どもが笑っている。少し冷たい空気に、パンの甘い香りが混ざった。


「美咲、なんか最近変わったよね」


亜里沙が言った。唐突な一言に、美咲はパンの袋を開ける手を止めた。


「変わった?」


「うん。前より柔らかくなった気がする。顔とか、声とか」


「そうかな」


「うん。なんかね、穏やかっていうか。いい感じ」


そう言って笑う亜里沙の声に、風鈴みたいな軽やかさがあった。美咲は頬の内側が少し熱くなるのを感じながら、照れ隠しのようにパンをかじった。


「このパン、美味しいね」


「でしょ? 焼きたてだもん」


二人の間を沈黙が通り抜ける。気まずくはない沈黙。空気が静かに満たされていくような間。鳩が地面のパンくずをついばみ、木の枝が影を作る。冬の陽射しは弱いけれど、確かな温度を持っていた。


「ねえ、美咲」


「うん?」


「私ね、最近ちょっと仕事で落ち込んでて。お客さんに結構きついこと言われちゃってさ」


「……そっか」


「でも、美咲見てたら、少し救われた。なんか、ちゃんと頑張ってる感じがして」


風が吹いた。美咲は髪を押さえながら、亜里沙の横顔を見た。少し赤い頬、白い息。自分も、誰かを救えるような顔をしているのだろうか。そう思うと、心の奥に温かい灯りがともった気がした。


「ありがとう、亜里沙。でも、私も同じだよ。朝ね、カフェでコーヒーを飲んでたんだ。いつものより、少しだけ温かくて」


「へえ?」


「それだけで、今日は頑張ってみようかなって思えた」


「いいね、それ」


「うん。ほんのちょっとの違いなんだけど、すごく大きかった」


二人は顔を見合わせて笑った。風がまた吹いて、落ち葉がひとひら、膝の上に落ちる。亜里沙がそれを摘んで、ふっと息をかけて飛ばした。葉は空中で小さく回転し、光を受けてきらめいた。


午後の会議は、予想外にスムーズに進んだ。美咲が作った資料に上司がうなずき、チームの空気が軽くなる。プロジェクターの白い光の中で、美咲の指先は落ち着いていた。小さな成功だったが、それで十分だった。


会議後、亜里沙がこっそり親指を立てて笑った。その仕草に美咲も微笑み返す。モニターの画面には、次の仕事のタスクが並んでいたが、不思議と焦りはなかった。頭の中の風景が、今朝のカフェの光景と重なる。あの時の香り、カップを包んだ指の感触、そして二度だけ上げられた温度。


夕方。外に出ると、空はもう群青に染まり始めていた。帰宅ラッシュの人の波が駅へ流れていく。美咲は、思わずスマホの時計を見る。まだ閉店前だ。少しだけ遠回りをして、あのカフェへ寄って帰ろう。


店の前に着くと、窓の向こうで店員が片付けをしているのが見えた。照明がカウンターに柔らかい光を落としている。ドアを開けると、ベルが短く鳴った。


「こんばんは」


店員が顔を上げ、驚いたように微笑む。


「こんばんは。もう一杯、いかがですか?」


「はい。……今日は普通の温度で」


「かしこまりました」


カウンターの上に置かれたコーヒーから、立ち上る湯気。夕方の光を透かして、白い線がゆっくり消えていく。その香りに、胸の奥がまた少し温まる。ひと口飲むと、朝より少し熱い。だけど、もう舌は驚かない。むしろ、その熱が心地いい。


「お仕事、お疲れさまでした」


店員が静かに言う。


「……どうしてわかるんですか?」


「表情です」


美咲は笑った。朝と同じ言葉。でも、気持ちは全く違う。さっきまで感じていた疲れが、どこか遠くへ流れていく。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


外では、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。窓の外を見ながら、カップの底に残ったコーヒーをゆっくり味わう。外の風景が、ガラス越しに少し滲んで見えた。




カフェを出ると、夜の空気は朝より澄んでいた。看板の灯りが濡れた舗道に映って、波紋のように揺れる。人の流れは一定の速さで進み、信号の青と赤が人々の歩幅を小さく揃える。美咲はその流れに逆らわず、しかし急かされもしない速度で歩いた。


ショーウィンドウに映る自分の姿は、朝より幾分軽やかだ。口元の影が薄らぎ、目の奥に小さな光が宿っている。ふと、店先で手袋を落とした女性に気づく。


「落ちましたよ」


差し出した手袋を受け取った女性が、驚いて、そして柔らかく笑う。


「ありがとうございます」


「いえ」


ほんの数秒のやりとり。けれど、その短さの中に、確かに何かが渡った気がした。朝に受け取った温度が、今度は自分の指先を通って、別の誰かへ移っていく。大げさに言えば、それは世界の熱の再分配だ。


駅のホーム。列車を待つあいだ、ベンチに腰を下ろす。風がホームの端から端へ走り、目の前の広告の紙をわずかに震わせる。イヤホンを耳に入れず、流れてくる音の層をそのまま受け取る。アナウンス、足音、遠くの笑い声。どれも今日の終わりを告げる小さな鐘の音だ。


電車に揺られる時間は、考え事にちょうどいい長さだった。美咲は今日一日を、朝の温度差から順に巻き戻す。二度だけ上げられた温度。亜里沙の笑顔。会議の安堵。夕方の一杯。落ちた手袋。どれも微小で、けれど重なれば一日の気圧を確かに変えていた。


最寄り駅に着く。改札を出ると、夜風がマフラーの隙間に入り込んだ。マンションまでの道を歩く間、窓越しのテレビの光や、カーテンの隙間から漏れる部屋の明かりが、点描みたいに並んでいる。あの一つ一つの灯りにも、今夜の誰かの温度があるのだと思う。鍋の湯気や、湯船の水面や、毛布の厚み。世界は思っているより、温かいもので満ちている。


家に着くと、玄関の灯りが迎えてくれた。靴を脱ぎ、コートを掛ける。部屋は少し冷えていたが、心はあたたかいままだ。キッチンに立ち、電気ポットのスイッチを押す。インスタントの瓶の蓋を開けると、粉の甘い香りが立つ。


「……お湯、少し熱めでいいか」


ひとりごとのように言いながら、カップに粉を入れる。湯を注ぎ、香りがふわりと広がる。ベランダの向こうの街の灯りを眺めながら、両手でカップを包む。朝の陶器より軽いマグは、それでも十分に温度を受け止めてくれる。


テーブルにノートを広げ、思いつくままに短い言葉を書きとめる。「二度」「手袋」「休む」「また明日」。言葉は箇条書きのまま、意味を完成させない。未完成のほうが、明日への余白が残る。


シャワーを浴び、ドライヤーの温風で髪を乾かす。鏡の前で軽くストレッチをして、ベッドへ潜り込む。天井の明かりを消し、暗闇の中で目を閉じる。すると、朝のカフェの景色が静かに浮かぶ。


「外、風が強かったので……」


あの穏やかな声が耳の奥に残っている。店員の横顔。ケトルの蒸気。カウンターの木目。ピアノの旋律。すべてが薄い膜になって、体の内側にふわりと広がる。


眠りに落ちる直前、美咲は静かに呟いた。


「ありがとう」


その言葉は、誰にも聞こえなかったけれど、確かにどこかへ届いていった。言葉は時々、音にならなくても、ちゃんと届く。


翌朝。目覚ましの少し前に目が覚める。窓の隙間から差し込む冷たい光。床に降りた足裏に、昨日より少しだけ余力がある。美咲はゆっくりと起き上がり、支度をする。ドアを開ける前に、マフラーを首に巻き直し、手袋をはめる。玄関の鏡に映る自分に、小さく頷く。


並木町通りを歩く。風は昨日ほど強くない。角を曲がると、「Blue Sky」の窓が朝の色を受け止めている。ドアベルに手をかける直前、胸の内側に予感のようなものが灯る。今日もきっと、どこかで誰かの温度が二度ぶんだけ変わる。その予感が、朝の空気を少し甘くした。

『形のない手紙』第一話を、最後まで読んでくださってありがとうございます。


一杯のコーヒーの“二度”の温度差は、ほんのわずかな調整にすぎません。でも、その小ささこそが、私たちの毎日に介入できるリアルな単位なのだと思います。大きな善意や劇的な変化を待たなくてもいい。目の前の人の“今”に合わせて、二度ぶんだけ自分を動かしてみる。それだけで、世界の気圧は少し変わる。


美咲が受け取った温度は、手袋を拾う仕草に変わり、見知らぬ誰かへ渡りました。きっと明日は、別の誰かが別のかたちで温度を渡すでしょう。形のない手紙は、紙に残らない代わりに、人の体温の中で生き続けます。


どうか明日の朝、あなたのコーヒーが少しだけ温かく感じられますように。そして、その温度を、誰かへと渡していけますように。


寒い朝に、少しだけ温かいコーヒーを――それは、見知らぬ誰かからの静かなメッセージなのかもしれません。どうぞ静かに、受け取ってください。


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